降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

『学ぶ力』河合隼雄 工藤直子 佐伯胖 森毅 工藤左千夫著 

工藤左千夫が気になって図書館の蔵書検索をしてあった一冊。

工藤直子とか佐伯さんとか、興味ある人が並んでいたので予約した。

 

 

学ぶ力

学ぶ力

 

 

 

面白かったところ。

 

河合隼雄養老孟司からおすすめされた『火星の人類学者』のなかで、40歳くらいで目が見えるようになった人の話しを紹介していた。光が見えるだけで全然見えないのだという。結局触ってこれはコップだとわかってから見るとコップが見えてくるそうだ。つまり先行する経験の蓄積があってこそ把握ができて見えるのであり、初めてコップを見たところで何もわからないらしい。犬と猫も触ったらどっちが犬でどっちが猫だかわかるのだが、目で見ても違いがわからないし、目で覚えられないそうだ。

 

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

佐伯胖は竹内敏晴から色々教わっていたというのも、へーという感じ。

工藤直子は二つの詩を挙げる。

それは、あの時の感覚、夢のなかで思い出すような感覚だ。僕は学びとは世界に対する新鮮さをまた取り戻すことだと考えていたけれど、こういうことなのかもしれない。

 

あいたくて

 

だれかに あいたくて なにかに あいたくて 生まれてきた

そんな気がするのだけど それが だれなのか 何なのか

あえるのは いつなのか

おつかいの 途中で迷ってしまった子どもみたい とほうにくれている

 

それでも 手のなかに みえないことづけを 

にぎりしめているような気がするから  それを手わたさなくちゃ

だから

あいたくて

 

学ぶという出来事がおこったとき、この感覚を垣間見るのではないだろうか。

 

こどものころに みた空は

 

ひとはみな みえないポケットに 

こどものころに みた 空の ひとひら

ハンカチのように おりたたんで

入れているんじゃないだろうか

 

そして あおむいて あくびして

目がぱちくりしたときやなんかに はらりと ハンカチが ひろがり

そこから あの日の風や ひかりが こぼれてくるんじゃないだろうか

 

こどものじかん」というのは

「人間」のじかんを はるかに 超えて ひろがっているようにおもう

生まれるまえからあって 死んだあとまで つづいているようにおもう

 
「君の名は」でも同じような感覚が繰り返し表現されていたのではないかなと思う。
重要な相手、決して忘れたくない相手を忘れてしまう。それは必然なのだ。自意識というのは、相手を対象として見ることができるかわりに世界から分離されてしまう。分離されたものとして「あなた」に会うことはできない。逆に「あなた」=彼岸と一体であるとき、わたしはいない。

「死んだあとも続いている」というのはそういうことだと捉えている。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

学ぶことは、あの時に戻ることを目的にしているのだなと思った。それ以外に十分な学ぶ理由はないのかもしれない。

 

あとスキーマとは何かというところ。

 

スキーマというのは、知識づくりのための「枠組み」や「部品」のようなものだと考えてください。外界から情報が入ると、そのスキーマにうまく組み込まれ、既存の断片(「部品」)を付け加えたり加工したりして、はっきりした「意味」を構成するというわけです。既存のスキーマがまったく使えない情報はすぐに破棄されてしまいますが、何か既存のスキーマでうまく加工できそうな情報はしっかり保持され、新しい知識が作られるのです。また、既存のスキーマにはまりそうな情報を外界に積極的に求めることもありますし、今後、もっと新しい未知なる世界を意味づけられるような、新しいスキーマを用意するようになることもあるのです。

 

スキーマを想定することによって、人間が「一を聞いて十を知る」ようなことも説明できますが、同時に、「見れども見えず聞けども聞こえない」ことも説明できます。また、「勘違い」や「誤解」、「はやとちり」などなど、人間の判断や思考のゆがみや謝りも説明できます。

 

工藤左千夫の小論が一つあったけれど、ちょっと短いなかにおさめ過ぎて何か十分に言ってない感じがしたので、工藤左千夫については別の本を読んでみたいと思う。

この本を読んで、学ぶということは、既にあるものや既に決まってしまったことを外していくことだなと思った。