降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

加害者の回復 「私が小さい男の子を殺した日」

ある日、法定速度で運転していた車の前に男の子が飛び出してきた。そして自分が運転する車にはねられた男の子は死んだ。

 

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先の記事で欺瞞的凝固という言葉を出した。生きものはあるべきバランスを崩そうとするものに対して強く反発する力を出すのだが、その際手近なものでそのバランスを取り戻そうとする。底にある空虚感や苦しみがあっても、それを根本的に解決するのではなく、手近な刺激で埋め、無感覚にする。生きものにとって生きることは、ただその場しのぎの連続であるのだろう。だが生きる時間が長くなった人間にとっては、その場しのぎの連続は長期的にはむしろ不具合を招く。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 



明日死ぬかもしれない。しかし長く生きるかもしれない。人間は長く生きることのほうを勝手にデフォルトとして設定している。そうすると、自然状態ならさっさと死ぬので向きあわなくていいことも、長い目で見ると向きあうほうがいいということになる。長く生きるほうをデフォルトとする、もともとの状態からの逸脱した生を人間は生きている。回復とはその逸脱状況において存在するものだと思う。回復はこの逸脱状況を生きやすくする。

 

心を気の流れを考えたとき、自分自身を含め、何が有用で何が有用でないかという強迫に常に迫られる言葉の世界は、言葉以前の状態ならとどまらず流れるはずだった気が詰まらざるを得ず、常に苦しみを抱えるような状態だ。気の流れを停滞させ、詰まらせるものを解きほぐしていくことは、言葉の世界にいながらその支配を打ち消すようなことになっていく。それは究極的な救いに向かうようなことだ。言葉の世界に既に入ってしまっているものは、その究極的な救いに向かう願いがある。

一方でそんなものは言葉を獲得した副作用で自ら招いたものに過ぎないのだから、マッチポンプみたいなことでもある。ただ元に戻るだけともいえる。その意味でも回復という言葉が妥当だと思う。成長でも発達でもなく回復だ。だがそうであると同時に、人は無自覚であってもこの究極的な救いをその一生を通して求めている。

 

皮肉なことに自意識は自分の力だけで回復に向かうことができない。むしろ回復のプロセスを一定地点で止めてそれ以上進ませなくする。欺瞞的凝固の状態だ。それを破綻させるのが事故や重い病気、酷い不幸のような受難の体験だ。それによって人は深く傷つき、手近なものや小手先のものではバランスが取れなくなるため、根元的な回復に向かわざるを得なくなる。深く傷つくほど、生存すら危機に陥るが、そこから回復すれば深い回復がおこる。

 

マリアン・グレイさんの写真をみる。その瞳には明るさが射している。そして同時に深い静けさをたたえているように見える。

 

リーダーの警官が戻ってきてこう言った。「残念ですが、あの子は死亡しました」

この時まで私は、もしかしたら思ったほどひどい事故ではなくて、あの子は大丈夫なんじゃないか、そうでありますようにと祈っていたのに。

自分が、かがみ込んで泣くしかなかったのを覚えている。そのあとは、気を確かに持たなければと必死だった。

 

スピード違反はしていなかった。悪意などなくてもそれを止めることはできなかった。

 

私はニューヨーク市に住む両親に電話をかけて、母に事情を話した。泣きながら「事故だったの、事故だったの」と繰り返す私に、母は言った。「もちろん、事故ですとも」。

 

子どもを自分が殺した。この現実は 自分の存在、アイデンティティを根元から揺りうごかす。それまでも心の底で感じていた痛み、苦しみが向き合わざるを得ないものとして浮上してくる。押し寄せてくる否定性に自分は飲み込まれてしまう。

 

それまでの私はかなりの優等生だった。しっかり勉強して良い成績を取り、両親や教授たちの期待に応えていた。でも思えばいつも、あと一歩及ばないと感じながら育った気がする。だから事故が起きてからは潜在意識の深い所で、自分は良い人間なのか悪い人間なのか、真剣に悩んでいたように思う。

自分の人生を取り巻く状況は本人が作り出すものだと、多くの人が信じている。怒っている人の目には怒りや敵意に満ちた世界が見えるし、愛情豊かな人は優しく寛大な世界に生きているのだと。そこで私は考えた。「いったいどんな人間が、こんな経験をする羽目になるのか。私はとても危険な人物に違いない」と。

 

準備ができない状態でやってくるフラッシュバック。世界は恐怖と不安に包まれる。そして体は自然とその状況を打開する可能性を模索し始める。

 

思いがけない時にフラッシュバックが頭をよぎった。会話の最中や食器を洗っている時、スーパーで買い物をしている時に突然、あの子が私の車にはねられて宙を飛ぶ姿や、路上にできた血だまりの、恐ろしい光景を見てしまうのだ。

私はそれから数年間、周りの人を遠ざけて自分に寄せ付けなかった。それが自分自身への罰だった。私にひどい仕打ちをする男たちと付き合った。友達と呼べる相手もいなかった。いらいらしていることが多く、同居人たちにとっても一緒にいて特に楽しい相手ではなかった。そこで私は共同生活から抜け出して、1人になれるアパートへ引っ越した。

事故から2年が過ぎて、私は別の大学院で心理学を学ぶためにカリフォルニア州へ移った。これはまさに新たなスタートだった。

 

殺した子どもは、自分の内に住み、自分を責める。水子供養などでも同じように母親は水子イメージから責められるときく。

 

私はあの小さな男の子、ブライアンのことをよく、私の幽霊と呼ぶ。あの子は私の一部になったから。あの子の声は私の頭の中で、とても厳しい声で怒って私を叱る。

「あんまりいい気にならないように。幸せになり過ぎないように。前にすごく幸せだと思ったとき、どうなったか覚えてる? あなたは子供を殺した。ぼくを殺したんだ」

この声は毎日、何度も聞こえてきた。研究は楽しく、カリフォルニアでの暮らしはとても気に入っていたけれど、その声がいつも私を引き戻した。私は子供を殺してしまった、それを忘れることは決してできないと。

結婚した日にブライアンを思い、父が死んだ日にブライアンを思い、学位論文の口頭試問を受けた日にブライアンを思い、初出勤の日にブライアンを思った。あの子は私と一緒に生きていた。

 事故を起こす前の私なら、子供を持たない人生など考えられなかったはずだ。高校生の頃は近所で人気ナンバーワンのベビーシッターだった。ベビーシッターの仕事が大好きで、友達と遊びに行くより、子供の世話をしていたかった。

 

苦しみの大きさのあまり、決別することができない。委ね、放つことができない。

 

私はそれまでずっと、どこへ行くにも、事故にまつわる記憶を抱えていた。あの記憶が私の内面生活の大部分を占め、ほかの人たちとの間の障壁になっていた。ハンドルを握ると緊張することは友達も知っていたが、その理由までは知らなかった。気持ちが沈む日があって事故のことが頭を離れなくても、それは口に出せなかった。

私のことはよく知っていると、多くの人が思ってくれていた。それでも自分の人生で恐らく一番重大なあの出来事について、私は人に話さなかった。 

 

彼女はその後、86歳の老人がマーケットに車で突っ込み、死者を出すという事件に遭遇する。世論は老人への批判であふれていた。彼女はその老人に対しての思いを文章に書き、それは他者を媒介したふとした流れの展開からラジオで放送された。

 

放送後の反響を覚悟しておくようにと言われた。抗議の手紙を送り付けられたり、インターネットに否定的なコメントを書かれたり、嫌がらせの電話を受けたりするだろうと。しかし実際には好意的な反応ばかりで、たくさんの支援がどっと寄せられた。親しい友人たちにさえ全く打ち明けていなかったが、その人たちもラジオを聴いて、みんなしていたわりと応援の声を送ってくれた。声を上げたのは立派だ、それまで苦しんでいたのが本当に気の毒だと言ってくれた。

私の中で何かが花開いた。大きな安心感を覚え、周囲の人々との、そして世界とのつながりをこれまでよりずっと強く感じた。出生や性的指向の秘密を明かす「カミングアウト」をしたような気持ちだった。

同じように事故で人を死なせてしまった人たちからも、反応があった。私と同じように心的外傷後ストレス障害PTSD)を抱え、フラッシュバックや隔絶感、集中力の低下、そしてもちろん罪と恥の意識を味わってきた人たちだ。

強烈な体験だった。私たちは誰一人、それまで同じことを経験した人と話をしたことがなかったのだ。

 

彼女は自分と同じような存在に出会い、自分ではなく、その人を助けるために動けた。そして自分が信じていた批判的な世界がそうでなかったことに直面する。彼女は孤立に閉じ込められていた状態から、世界と共にあることを取り戻した。彼女はそしてさらに向き合いへと歩みをすすめていった。

亡くなった男の子の母親に手紙を書く。だが母親は既に亡くなっていた。その手紙は男の子の兄が受け取ることになった。兄はマリアンさんに電話をかけてくる。そして自分と家族がどんな思いをし、その後を生きてきたのかを語った。それはマリアンさんに決別のための再体験と許しを提供したものではなかったかと思う。

 

私たちがおよそ45分間、話し続けた。感極まる会話だった。お兄さんは怒りをあらわにして、家族がどれほどつらい思いをしたかを私に語った。

クリスマスはブライアンの誕生日と近過ぎるので、祝うのをやめた。普通の家庭が楽しむ行事も全て永久に封印された。ブライアンの部屋は一切手をつけずに当時のまま残され、あの子の記憶を絶えず呼び起こし続けた。

家族はだれ1人、嘆き悲しむことをやめようとしなかった。

お兄さんと話し続けているうちに、彼の口調は本当にやわらかくなった。私が事故直後の時期にお悔やみに伺い、お父さんと言葉を交わしていたことを、お兄さんは知らなかった。お父さんにとても優しくしていただいたと言うと、彼の様子はきく変わった。

 

「そうですよね。たまたま偶然、居合わせた時と場所が悪かった」と、お兄さんは言った。

その瞬間に、私は許されたと感じた。そしてお兄さんはきっと、混じりけのない悲しみを感じることができたのだと思う。弟を悼む気持ちにずっとつきまとっていた怒りの感情。そんな怒りに染められていない、純粋な悲しみだけを。

電話が切れた後、私たちが友達になれたとは思わなかったけれど、2人は驚くようなきずなで結ばれている感じがした。私たちはどちらもあの子の死を今も悼んでいて、それがこれからもずっと私たちの共通点なのだ。

 

 

何も取り返すことはできない。マリアンさんが男の子の家族に与えた影響も。マリアンさんがこの許しの体験を得た後も、人を傷つけることへの恐怖は続いているという。多くのものが犠牲にされることなく回復ということもあり得ないのだろう。回復を自意識が求めることは傲慢であるようにも思えた。それは飽くまでも派生的な結果として与えられるものなのだ。