降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

見ていくこと お好み焼き屋の話し

数年前に何回か行ったお好み焼きの店、高齢の女性がやっていて、しばらく閉まっていたのでもうやめたと思っていた。だがやっていることがわかって驚いた。行こうと思った。

 

 

来月で90歳になるそうだ。店に入ったとき、店にいたお客さんの持ち帰り用の焼きそばを作っていた。立て続けの作業は辛いそうで、僕が店に入ったときに断ろうかと思ったとのこと。だが僕を見たことがある顔だと思ったそうで「時間がかかるけどいいですか」と訊いてくれて受け入れてもらえた。

 

 

強盗が入って頭をビール瓶で殴られ、4週間入院したということだった。店には警察によって黒い薬が撒かれて犯人の手がかりを見つけだそうとしたそうだが、結局犯人は見つからず、黒い薬は自分で1年間かけて掃除してようやくとれたそうだ。

 

 

65歳で夫と生き別れたとの事。お世話になった人の借金の保証人になったが、その人に逃げられ、その借金を返すために3時間の睡眠で夫婦で頑張ってきたそうだ。そのせいで夫は早く亡くなったらしい。年末年始も無休で夕方から深夜まで働かれている。

 

 

何もなかった時代、東急のホテルが近くにたって、他に食べ物屋がなかったので、松平健とか様々な芸能人がこの店にきたとのこと。色々なエピソードを話してくれる。

 

 

自分は幸せだと繰り返し言われる。この店にずっといたいと。店にまたきてくれたと何度も感謝される。

 

 

世間の人から見れば、夫婦は他人の作った借金のせいで、別にやろうとも思ってなかった店をやって借金を返すために生きてきたようなものだと思う。「自分の人生」というものをあるとき以降はもう持てなかった。

 

 しかし「自分の人生」というのは生をあたかも所有しているような言い方だ。戦争があったり、そうでなくても自分の思うような状況にはならない人もいる。先日観たドキュメンタリー「ライファーズ」の終身刑者は、両親に恵まれながら家にやってきた知り合いに性的虐待を受け、身を持ち崩した。生は自意識に所有されるようなものではないのだろう。所有すると考えるならそれはあまりに割りに合わない。

 

 

映画ブレードランナーの人造人間のセリフを思い出す。
「俺はお前たち人間が信じないだろうものを見てきた。オリオン座の近くで燃える宇宙戦艦。タンホイザー・ゲートの近くで暗闇に瞬くCビーム、そんな思い出も時間と共にやがて消える。」

 

 

作り出された時から死ぬまで翻弄された生。その孤独。だが人造人間は最後にそのことを受け入れる。何故なのか。

 

 

与えられた白のキャンバスに自分の好きな絵の具を使い、思ったものを描いていくような生ではない。投げ込まれた状況に自分としてただ対応していくだけだ。

 

 

自分であることの意味を作り、楽しみを謳歌し、何かを達成するために生があると考えても、生はそのようなことを許さない時もある。生を所有することはできない。

 

 

その時、生とは見ていくことなのだろう。時間を通過しながら見ていく。自分に降りかかることを見ていく。目の前に現れてそして過ぎ去っていくことを見ていく。見て、何かが変わるわけではない。何かが救われるわけではない。

 

 

そのままに見ていく。無力さと小ささを。何もできない。何も変わらない。だが、そのままに見ていくことは、向き合い生きる姿勢そのものであって、存在への共感だ。