降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

スナフキン

スナフキンの名言集、前に一度見たけれど久しぶりに見てみた。

 

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所有することについて。

何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。
ぼくは見るだけにしてるんだ。
そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。
そのほうがかばんをうんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。

ありがとう。でも、いまも考えたんだけどもちものをふやすということは、ほんとにおそろしいことですね

『花も宝石も美しいものは見て楽しんで持って行かない。また見に来ればいいし、持って歩くなんて荷物と心配を同時に持たなければいけなくなる』

『何でも持ち帰ろうとするのは難しいことなんだよ。僕はどんなにいいものでも見るだけにしているんだ。そして立ち去るときには頭の中に閉まっておくのさ。そのほうが、かばんをウンウン言いながら運ぶより、ずっと快適で楽しいからね』

ものは 自分のものにしたくなったとたんに あらゆる面倒が ふりかかってくるものさ 運んだり 番をしたり

 
「見ること」「愛するものと一体になること」

僕のものではないよ、だけど僕が見ている間は 僕のものなのかもね

自分できれいだと思うものは、 なんでもぼくのものさ。
その気になれば、 世界中でもね。 

 

ここのところ、見ることとは何かに関心が出てきた。見ることは自意識としての自分と対象としての相手を分けることのようにも思える。対象と一体化しているときは、それを対象として見ることができない。対象と離れているからこそ見ることができる。見るとき、自意識は分離され、切り離されている。だが、自意識が自意識として意義をもつことは見ることだけなのだ。


しかしここでのスナフキンの見るというのは、関係をもち、自分が変えられる事態のことをさしているようにも思える。最初は対象として見ただけかもしれないが、対象は見られることをこえて自意識の壁を壊し、そこに変化をおこす。「きれいだ」というのは自分が開かれている状態なのだろう。

いくつかの言葉は福本伸行のアカギっぽいなと思った。こんなに素直にはアカギは言わないだろうけど。アカギはそこにある潜在的なエネルギーを最大限に自分に引き入れ、自分をエネルギーの流れそのものにするようなところがある。

そのうちなんてあてにならないな。 今がその時さ。

自然を感じるだろ…? 強い風の前に立って、 自分達に向かって進んでくる雨を感じるのは、 なんて素晴らしいんだ


そしてメリーゴーランド 。最近この例えをよく使うようになった。他人と自分がそのままで関われなくなった状態。四国遍路をしていたとき、うどん屋のおばちゃんに接待でうどんをもらい、親切にしていただいた。面白い話しをたくさん聞いた。遍路が終わったあと、もう一度店を尋ねると、今度は客と店の人としてしか関われなくなっていた。あの時の感覚を思い出す。役割は奪ってあげないといけない。人と人が関わりそこに変容がおこるためには。役割を奪うとは、弱みもさらけ出した水平関係の人になるということでもあるだろう。

有名になるなんて つまらないことさ 初めは きっと面白いだろう でも だんだん慣れっこになって しまいには嫌になるだけだろうね メリーゴーランドに乗るようなものじゃないか

 
スナフキン名言の別のブログでは、これはスナフキンの父のセリフとして紹介されていた。

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人は世界を対象化して把握する。しかし対象化された世界は時が止まった世界であり、変わらない風景を延々と見せ続けられるメリーゴーランドに人は乗っている。その変わらなさは疲弊と鬱屈を蓄積していく。その景色を更新するものが出会いだ。学びともいえる。学びとは出会いだ。それは次の風景に自分を連れていく。

僕は物心がついたときからたった一人で旅を続けてきた。
多分、これからもそうするだろう。
それが、僕にとっては自然なことなんだ。

 

人とは何だろうかとあらためて。

あの人のようになりたい。あのような生活がしたい。 それらは一人であることから逃避しようとしているのだろうか。一人であることとは、誰かのようであることを諦めることでもあるのだろうか。この意味のない今を認めないことなのだろうか。何かのようなそれ、何かのようなこれで孤独を埋めること。あるべき姿とはまさに、わたしを置きざりにして、真似るべき他人であり、一緒にいるべき他人なのではないだろうか。何かになろうとすること、一人とはそれを拒否するあり方なのではないだろうか。