降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自意識とは何か 自意識からの自由

心理学科に入った頃は心の構造を理解すれば自分がわかるかと思っていたが、どうもそうではないようだった。無意識とは意識できないものであり、そこに直接のアプローチはできない。考えてどうこうなるものは意識できるところしかない。

 

自意識とは何かが状況を変えていくための問いとなった。すると、「治らなければ」とか「成長しなければ」とか「適応しなければ」とか、そういう強迫となった価値観自体が変化をとどめ、停滞をおこしていることが見えてきた。むしろ変化はそういう強迫がどうでもよくなるような瞬間に間隙を縫っておこるようだ。

心理カウンセリングから演劇的手法に軸足を移していった橋本久仁彦さんなどの言っていることもそれを裏打ちしてくれているように思えた。自意識とは、防衛機制であり、強制停止機能であり、たとえるならばベルリンの壁をつくるような遮断がその機能の本質なのだ。だからやろうとすればするほど緊張は高まり、パフォーマンスは落ちる。むしろ余計な自意識が働かない状況の方がパフォーマンスは上がる。

状態を固定化しようとする自意識の圧力を打ち消したとき、自律的な運動、自律的なプロセスが動き出す。この状態がおこるように場面を設定することが重要だと思うようになった。つまりそれは境界を設定するということ。何かと何かの間の場所を設定する時、自意識はどちらに構えをとっていいかわからず、状態を同じままとどめようとする支配力が低下する。自意識の支配とは言葉の支配だ。よって意味と意味の間には影響力を押し通せない。

 

体の場合、自意識は自らのイメージによって身体を支配している。しかし、そのイメージ(解剖学的イメージ)は実際の体の動きとは乖離がある。例えば、実感をたしかめて行くと、肩と腕の境界はかなり腕よりであるし、手首の領域は思っているより腕よりだ。それを解剖学的なイメージのまま動かそうとすると動きに無理がでる。

そこから抜けていくのにもやはり境界を使う。意識を境界に向け、固定することによって、事実上の支配力を失わせ、もともとある内在的な動きの発現を導く。自分とはほぼ自意識であるのだが、自意識は言葉によって決定されていて、自分はピンボール台の中を跳ね回るボールのように、構造のまま動く。境界を設定することは、その決められた動きになる一部分を空白状態にするようなことだ。そこに新しい可能性が生まれる。

自意識である自分をさらに出し抜くような設定をして、自意識という過去のピンボール台から抜けていく。変わったとしても一部分だけだが、まあそれぐらいでも変わらないよりマシだろう。自意識からの自由はこのようにして得ていくことができると考えている。