降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

コミュニティを更新する仕組み

べてるの家発の集まりや当事者研究とも関わっている方がブログを見てコメントをくれ、やりとりをした。

 

場を単に人のコントロール下にあるものと考えず、どうあれば自律的な何かが浮かび上がってくるのかという視点を持っていて、何が「いい感じ」なのか、直観的に把握する感覚を持たれている感じ。

 

木村敏べてるの家の人たちの対談をそのやりとりのなかで紹介してもらった。そこにオーケストラの例が出る。自分が周りの人に影響されて出した音がまた周りの人を影響する。それが栄養の循環のようになって、バラバラにならず、一つの音楽になる。

 

 

べてるの家の話しの場がまさにそういう場だという。わいわいがやがやという言葉がでる。そのわいわいがやがやのなかで、自分の苦労や言えなかった本当の気持ちがおのずから出てくるという感覚。

 

 

わいわいがやがやは単にうるさくバラバラなものなのではなく、発せられる一つ一つの言葉やそれが直接に指す意味内容そのものが「音」や「曲」なのでもなく、言葉は単におこっていることの表面をかすったものにすぎず、そこでは耳では聞こえない音楽、何かの現れをもって間接的にしか把握できない一つの音楽があるのではないかと思う。

 

 

木村敏はいう。
私が生きているということを包み込んでしまうような非常に大きな「いのち」があり、それが私のなかに流れこんで私の「いのち」になっている。その大きな「いのち」をみんなでわかちあっている。それを実感することが「生活者の仲間になる」ことだと思う。何人かがいるとき、そこに大きな「いのち」が働いているというのか、生きているというのか、その時にみんなはそれに乗っかってわいわいがやがやになるんだろうと思う、と。
(※木村敏は治癒や寛解ではなく、私たち生活者の仲間になることが治療の目的だと考えている)

 

 

野村誠さんや沼田里衣さん、エスコーラの佐々木さんの場や音楽についてのお話しを思い出す。音楽をやはりもうちょっと体験しようと思っていたら、Ave Covoの公開練習の投稿があったので早速参加させてもらう。シンプルなパターンでも、なかなかできない。いろんなところに集中してない意識が散らばりすぎていたけれど、たまに、言葉のない演奏のなかで浮かび上がってくる何か震えるものがあったような気もする。

 

 

演奏後、店のFBをチェックせず、佐々木さんとソルに行くと臨時休業だった。でもとりあえず場所はお伝えできた。佐々木さんは秋に行われる東九条マダンに関心ありとのことでぜひソルのヤンさんに会っていただきたいなと思う。

 

 

佐々木さんと別れ、エスコーラへ。純さんとめぐみさんが話している。パンとかスープとか申し出のままに色々いただいてしまった。

 

 

純さんと話す。僕は、学びは環境を作り出すものであり、作り出された環境はまた学びを促進すると考えている。この循環関係にあるものを停止したり終わらせたりせず、持続的に育てていくことが重要だと思う。学びは自己更新であり、エンパワメントでもある。それぞれの場所で、エンパワメントのコロニーをつくる。そのことによって、多様性や人が人として生きられる環境は生み出され、作られていくだろうと思う。

 

 

ある程度の人間関係ができれば多くの人はその環境のなかで日々を送るようになると思う。特に出かけていかなけれいけない必要性が基本的にはなくなる。エンパワメントのコロニーをコミュニティと呼んでもいかもしれないが、あるコミュニティと別のコミュニティの間には、そんなに交流したいという欲求はないと思う。自分たちのなかである程度の自己充足ができてしまうからだ。

 

 

だがその自己充足ではコミュニティは弱っていく。外のものとの循環がなくなり、同じパターンを繰り返すことでは更新していけず、老化していく。青年協力隊か何かの活動に参加していた人が、ある村の個々の家庭に電気水道など生活インフラが完備されると途端に交流がなくなるという話しを聞いたことがある。自己充足は、他者と関わるきっかけや必然を奪われることでもあるようで、循環と更新を停滞させる。

 

 

一つ一つのコミュニティがそれほどは交流の欲求は持たないのなら、循環をおこすためにはどうしたらいいのか。僕はコミュニティとコミュニティを巡る人の動きをつくることによって、それを補うことができないかと考えた。四国八十八か所めぐりのように、巡る人の存在がコミュニティの循環をおこす。巡る人がいるところに様々な派生があり、出会いがあり、何かが生まれ、世界が再編されていく。

 

 

人は、生活に必要なもののために動く。それが満たされれば基本あまり動かないようだけれど、それぞれの人が持つ自己更新の欲求とつながれば積極的な動きをはじめる。だからコミュニティとコミュニティとを巡ることの必然性は、自己更新の欲求、つまり学びの欲求によって担保できるのではないかと思う。学びを媒介にすることによって、コミュニティ間の交流や循環が派生する。派生こそが豊かなもの、持続的なもの、信頼できるものを生み出す。

 

 

巡ることによって生まれるもう一つの大きなものは、限定的なコミュニティ内に限らないインフォーマルな人と人との関係性だ。行政がつくる公共は一次元的なものだ。そんな一つの主体がつくるようなものは結局いびつで行き届かない。

多種多様な人たちと友達になっている友人がいる。

 

何か問題があったりしたら知っている人のなかである程度色々と取り組めるような。何か面白いことを思いついたら、その友人たちの誰かが一緒にやろうと反応が来るような。ビジネス上の関係ではなく、極端な話し、深夜であっても困ったら連絡できるような、融通がきき、しかしお互いに自由で、主体性があるインフォーマルな関係を持っている。

 

 

それはその友人がもつ特別な才能による、特別な状態で、特殊な事例であるに過ぎないだろうか。僕は必ずしもそのようには思わない。もちろん何の仕組みもなければそれは特別な才能や個性によるものであるかもしれない。

 

 

だが、エンパワメントのコロニー、コミュニティとコミュニティの間に、学びを媒介させて巡る人の流れをつくる仕組みができれば、個人と個人のインフォーマルな関係は派生的に多様化し、重層化していくのではないかと考える。

 

 

人の流れは、個々のコミュニティを随時更新し、巡っている各人は、巡るなかでそれぞれにインフォーマルな関係を増やしていく。友人としての信頼関係だ。

 

個々人がその関係をつくることには、別に何らそれ以上の目的はないし、自発的に行われる。一個一個の関係性はそのようなものに過ぎないが、それがどんどんと重なっていく状況を作ればどうなるだろうか。学びを媒介とし、インフォーマルな信頼関係のネットワークを個々人の水準で増やしていく。

 

 

するとある問題がおこったときに、つてのつてぐらいまでの間で、信頼できる人と繋がることが可能となり、即応できるようなことが増えてくる。何かやりたいことがあれば、一緒に応じてくれる人と出会う可能性が格段に増える。この状況が作れればいい。

 

 

学びの欲求(自己更新の欲求)を媒介とし、コミュニティとコミュニティを巡る人の流れをつくる。このことが個々のコミュニティの硬質化や定型化による停滞を防ぐ。巡る個々人は自然とインフォーマルな信頼関係のネットワークを個々につくっていく。その状況で、学びの環境は育ち続け、人が自立的な主体となっていくことが可能になっていくのではないかと思う。