降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「止めるを止める」=「動かす」 吃音についての話しの会で思ったこと

吃音についてのお話し会。
止まるということについて話しを興味深く聴きながら色々と勝手な想像を巡らせる。

 

脳のある部分に障害がおこると、例えばメガネを目の前に提示されると自動的にかけてしまうときく。止められないということ。また歳をとって常時の手の震えがでてきたりする。

 

 

ビタッと止まった状態がコントロールが効いた状態といえるのだが、コントロールとは動かすことではなく、もともとあらゆる方向に動こうとするものを止めることなのではないかなと思う。

 

 

動かすとは、対象以外のものは止まったままにしながら、一部分だけ止めているものを止めるという二重の静止によって遂行されるのではないか。アルコールによる解放が、抑制の脳を抑制するということによっておこるように。

 

 

自意識のコントロールは、実際にはパフォーマンスを落とすことによって達成される。高いパフォーマンスは、おそらく、ゆだねること、なるべく自意識の「止める」という関与をさせない状態にすることによっておこるのではないか。

 

 

熊谷晋一郎さんの書いているものなどを読むと、脳性マヒにおいては、コントロールを意識しすぎると、かえって変な動きが現れるため、コントロールしないみたいな気持ちで、意識をずらすような間接的なコントロールが有効だという話しがあった気がする。

 

 

「動かそうと思う対象に対してはそこを止めているものを止める」と「対象以外に対しては元通り静止させたままにしておく」が動かすということであるならば、熊谷さんの場合の困難は、対象に対する命令のはずが、その周りの静止を止めるように働いていて、望まない部分が勝手に動き出す。意識すればするほどそうなるという。意識は強く止める力を働かせる。よって余計周りが動き出す。

 

 

吃音がメトロノームなどを媒介させると出ないというのは、それまで自分でしていたコントロールの一部をゆだねるからではないかと思った。熊谷さんの例とは違い、コントロールしようとするほど、対象も止まる。コントロールしない状態、ゆだねる状態にするとスムーズということは、もともとは動いているのだから、それがさらに止められている状態が作られているのではないだろうか。

 

 

「対象を止めているところを止める」=「動く」だったはずが、その上にさらに「止める」がかかっている。この「止める」はどこから来ているのか。「対象以外に対しては元通りに静止させておく」が対象に対してもかかるのではないか?話すということが、「止めるを止める」と「元々止まっているものをそのまま止めておく」の複雑な織り成しによって成立しているとして、後者の静止のままにさせておく機能が、カバーするはずの外のところまではみ出して効いてしまう。

 

 

熊谷さんは動かそうとすればするほど余計な部分が動くのに対し、吃音は、動かそう(話そう)とすればするほど止めなくていい部分まで止めてしまう。止める機能の過剰の表裏なのでは。だからどちらにしても意識しないという状況に持ち込むことによってスムーズになる。

 

 

自意識によるコントロールは反動を生む。精神的な面では、わざと高揚状態をもたらし、維持しようとすれば、そのあとにコントロールできない落ち込みがくる。コントロールとはそもそも無理やりのものなのだと思う。もともと無理やりだから、人によってはそういったおもてうらの過剰な静止がおこってしまうのでは