降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

アズワン・コミュニティ4 自律性の育て方

11月の末から三重のアズワン・コミュニティに行ってきた。今回は、参加者が持続可能なコミュニティを自分ごととして探求していく「持続可能な社会づくりカレッジ」及び、内観に入ってきた。

 

アズワンには、今年から何度も訪れている。アズワン・コミュニティには教条の押しつけがない。多くの場所が、なんだかんだといって結局は組織やリーダーの都合やイデオロギーを個々人に押しつけ、個々人の「足りなさ」や「欠陥」に原因があるので、悪い人にならないよう、いいことをやるよう頑張って自分を矯正し、訓練していけばといいうところから出れないと思う。この矯正による人を変化させようとすることは、特定のコミュニティに属していなくても、少なくない個人が何かが提示する価値観を取り込み、すすんで自分に対してやっていることでもあるかもしれないが。

 

ともあれ、そのような信じこませや矯正主義は、実のところ抑圧に抑圧を重ねるやり方であり、問題はむしろ意識の奥に潜り、よりたちの悪いねじれた行動や症状としてまた現れでてくると思う。

 

アズワンは、そのようなあり方ではなく、観察によって感情と認知の連動、粘着を解いていくやり方にたどりつき、それをコミュニティにおいてその効果を循環させることに成功している。誰かの行動がどうしても許せないということがあって困っていれば、その許せない自分の認知の構造を観察し明らかにしていくことができる。

 

相手の行動をすぐさまに糾弾したりするのではなく、怒りがおこっても自分に何がおこっているのだろうかとまず自身の認知構造を振り返り観察する態度がコミュニティの成員のベースになると、派生効果が生まれくる。自分が相手に対して思うこと、感じることは自分の頭のなかでおこっていることなのだから、同様に相手が自分に対して怒りをもったり,否定的なことを言ったりすることがあったとしてもそれは「相手がそう思った」ということであって、即座に自分が否定されているのではないという冷静さと動揺のなさができてくる。それがさらには、相手が自分の言うことにネガティブに影響されず、精神的自立をしているため、安心して素直にものが言えるという気持ちの通りのよさ、風通しのよさを生む。この環境が人のその人らしい回復を加速していく。

 

たとえば、(注:きいたことを適当に僕が改変しているが)ある人が冷蔵庫の氷をとるときトングを使わず、いつも手づかみで出すことに対して、腹がたち、嫌悪感からその問題を通して「その人を許せない」というようなことがあるとする。そのときおこる自分の感情の一連の構造を振り返り、そこに吟味をいれる。それが進めば、感情の爆発は連動されず怒りをぶつけるでもなく、我慢するでもない現実的な対処ができるようになる。

 

観察と吟味の仕方をそれぞれに身につけるために、コミュニティ内に仕組みをつくり、任意でコミュニティの人はその講座を受ける。そこでは、自分が「社会」なり「人間」なり「仕事」なり、「自分が日常的に使っているものの捉え方を対象化し「本当にそうか」「実際はどうか」とかなり綿密に執拗なまでに繰り返して吟味をかけていく。その講座では問いかけは出しても答えは出さない。たださらにさらに吟味をすることを働きかけられる。

 

講座は、泊まり込みで一週間ぐらいのものが多い。働いていて一週間も休みをとれる日本人は少ないかもしれないが、僕も人が変化していくときに必要な時間というのは、それぐらいで妥当だと思う。職場から心理的に離れられず、休みがないほうが人は状況を全体的に見れず、局所的な切迫に意識が奪われるから、休みが少ないことは労働者を管理する側としては単純な労働時間の確保ということに加えて都合がいいだろう。ただ長期的にみるとき、人は自律的思考を持たず、全体的視野に立てないようになっているから自分自身に対しても組織に対しても創造的な活路を開いたり、自浄作用的なものは奪われるだろう。

 

自分の認知構造に対する観察と吟味の癖をつけていくことによって、人は自由になっていく。間違いはおこるがそれも全て学びの材料にする。問題がおこったほうがより理解できるからむしろいいという向きさえある。

 

人は年をとれば変わらないと日常的には認識されている。しかし,それは日常の場というのが大抵の場で誰も自分の観察の方法を知らず、また教えてもくれず放っておかれるからだと思う。そしてそれが当たり前と思われている。アズワンでは孫をもつ年令でとても怒りっぽかった人が、穏やかに柔軟に自然体になっていった話しをきく。

 

その人自身が苦しみ、意思し、観察と吟味を繰り返していくならば自分の認知構造から自由になっていける。人の言うことを我慢してきく人になるのではなく、人と自分の気持ちや求めを共に、十全に成り立たせる工夫をしていくことが喜びとして身についてくる循環の仕組みが常に作られ、それが精神的に自律的な各人により調整されている。

 

「ここの人たちは誰も「べき」では動かないから」という言葉をきいた。やりたいことはやりたい人がこの指とまれで進めていく。全て任意。やりたかったらやる。誰も集まらなかったり,活動を始めても人が来なくなったらそれで終わりというだけ。しかし,子どもたちに野菜づくりや里山体験などを提供している活動は展開されていき,お弁当屋さんなどの起業も成功している。

 

アズワンにはリーダーがいない。コミュニティのメンバーも実質の関係性以外のところでリスト化されているわけではないのて、誰が成員で誰が成員でないのか自分たちですら数えられない。

 

個々人の自由に任せると社会が成り立たないというのは本当だろうか。アズワン・コミュニティはその「常識」に対して、根性論や行動の強制、思想の「矯正」ではなく、培ってきた実践的な知恵で反逆している。個々人によるそれぞれの観察と吟味、そしてその観察と吟味が日常的に身につくための仕組み、その効果がコミュニティに自律的な好循環をもたらすための仕組み。

畑でいうならば、大量の肥料を入れ続けてもたすのではなく、その土地に対してほどよい量以上取らず、肥料ではなく土壌の健全な菌体系が整っていくことをサポートするようなあり方と似ているかもしれない。菌体系は自律的に育つ傾向性をもっている。それにあわせ必要なサポートをする。このとき、自分がやらねば何も進まないという自分の苦労意識の蓄積はなく、見事に自分で整っていってくれる畑への感謝と自律性への信頼が生まれる。自律性への信頼が強まれば強まるほど、心は楽になり、エネルギーは満たれされていく。

 

しかしこれは放任ではない。この自律性が最大限に発揮されるためには、厳然たる枠組みが用意されている。いささかの妥協もなく調整され動的に維持される枠組み。それは表面的には見えないし、働きかけはないようにさえ思える。労働時間は少ないかもしれないが、しかしその枠組みはちょっとしたことでずれ、別の効果をもたらすものになる。それを許さない。土壌の菌体系のように目には見えない実際の関係性のありよう、流れ、動き、生態をとらえ調整する。その動的な理解が明確な意志としてアズワン・コミュニティの基盤にそえられている。

 

そこにある目に見えない自律性をどのように育てるか。自意識ではなく、自意識にとっては他者である自律性が人をそしてその周りを質的に変えていく。その自律性の生かし方が全てなのだと思う。


アズワン・コミュニティについての過去記事はこちら⇩

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

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