降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

魔女の宅急便を今頃 飛べなくなったキキ

友人が竹林で手製のほうきを作った記事へのコメントを見ていたらなぜキキが飛べなくなったのか気になってきた。

ジブリの作品というのもあって、すぐに検索候補が表示されてくる。

 

matome.naver.jp

 

宮崎駿は、聞かれてもこれが理由だと答えていないようだ。確かにあれが理由だとか言ったら面白くもないし、がっかりする人もいるだろう。それぞれが受け取ったものがあって、それが作品の狙いかどうかとかと関係なく、自分として受け取ったものに何かの意味がある。

 

さて、その上で自分はどう受け取れるだろうかと思う。

飛べなくなった直前におこった出来事は、一緒に頑張って作ったパイが届け先の少女ににべもなく必要ないのにと言われたことだ。雨で濡れねずみのキキ、しかし気持ちとしては肯定的な展開への期待に溢れた状態。自分のパーティに遅れることを覚悟してやったこと。労働者と裕福な家の子。ボロい服と高価な服。

 

キキの揺れ動きは、自分のコミュニティではみんなにとって称賛や憧れの存在である魔女という、自分が信じられていたステータスが、都会では古びていてもう求められないという現実への直面からのものではなかっただろうか。魔女である自分の価値とは、実は周りからの評価だった。

「魔女は〜するものよ!」と無邪気に誇らしくいうキキは、魔女というイメージと自分を同一化させることに高揚していた。魔女という称賛される役割を演ずることと、自分自身であるということは、都会に出るまで分けられておらず、矛盾したまま同時に成り立っていた。だが今やそれは破綻し、自分を高めていた魔女というイメージ自体がもう下がってしまった。

 

トトロは大人になったら見えない。トンボを助ける時に飛べたということは、飛べる条件は大人と子どもというカテゴリーに起因することではないだろうと思う。

 

ただパートナーを見つけたジジとは言葉が通じなくなっている。ここは、身もふたもないが、幻想のなかで成り立っていた関係性、キキの心が違う現実を生きられるようになるまでを支える幻想が必要なくなったということなのではないか。林明子の「こんとあき」を思い出す。どんな時も自分の味方になって暖かく励ましてくれる存在。この幻想の存在が必要なくなったのは、飛べるようになった後であり、トンボの救出という出来事という達成によって、アイデンティティの更新がおきたからではと思う。ここにおいては、ある意味、大人/子どもという分類もあてはまるように思う。

 

 

こんとあき (日本傑作絵本シリーズ)

こんとあき (日本傑作絵本シリーズ)

 

 

それがよりシニカルに描かれた岡崎体育「FRIENDS」

 

話しは戻って、飛べなくなったのは、大人/子どもという区切りではなく、本来キキが持っている力が出ないような状態にされたということであるように思える。具体的には、キキが今まで知っている理屈の上では自分にはもう価値がないという状態だ。

森の画家、ウルスラとの対話が転機となる。ウルスラは原作にはいないらしい。ウルスラは自分でも気づかず器用に誰かの真似をして評価を得ていたが、ある時そのことに気づき、絵が描けなくなった。そしてやがて誰かの真似、想定する誰かの評価によるものでなく、自分として描くということにたどり着いた。

 

キキはこのことを聞き、そしてトンボの危機というきっかけを得てようやく誰かの評価のためではなく、自分として生きるということができるようになったのだろう。「紹介もなく初対面の女性に話しかけるなんて失礼よ!」と誰かが決めたイメージや役割を、自分に当てはめてプライドを高め、維持していた状態から、何でもない自分として生きることができるようになったのだと思う。

 

無邪気に無自覚に信じこんでいた自分のイメージが失われ、そして新しく再生していく。後者のハッピーエンドというよりは、前者の喪失が共感を生むものなんだろうなと思う。ハッピーエンドは、喪失を受け入れやすくするものにすぎず、薄っぺらだ。しかし、お客さんを元の状態に戻してあげるということが、多くの人がみる作品に必要なケアでもあるのだろうなと思う。