降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

学びとコミュニティ

学びに適した環境とは、そこにいる人たちが防衛的にならずにすみ、自分の揺れ動きを安心して表明できる場だと思う。

 


こうしなければいけないとか、こう考えるべきだ、と強制されるところでは、変化へのプロセスはおきにくい。OSは更新されず、小手先のアプリが増えて不効率にエネルギーやメモリを消費していく。更新のプロセスへの直感的把握がおぼろげになり、向かえばいいところが見えなくなってくる。

 

お互いに規制を掛け合うこととと自由であることは違う。自由とは阻害のない状態のことであるだろう。ないものをやることで生み出すことはできない。既にある阻害物をとるということはできる。

 

完璧な状態をまず作らなければいけないのではなく、プロセスが進んでいくための必要最低限の環境を整える。環境が整えばプロセスが展開し、次の状態に移行する。また次に行くために必要最低限の環境を整える。基本的にはこの繰り返しでいいはずだ。以前に環境を整えるために必要だったものと、次に環境を整えるために必要なものは引続くものものあるだろうし、新しいものもあるだろう。

 

問題が起こった瞬間が学びはじめであり、それが更新のプロセスだ。プロセスは本人を変えるだけではなく、その人が関わる周囲も変えていく。

 

問題を解決する力を全て外部に任せることは、この更新のプロセスを捨てるに等しい。更新のプロセスを捨てれば、人は変わらず、信頼感は低く、鬱屈したエネルギーは無理やりでも放出されるところを求めだす。

 

この自意識としての私が何をやれるかではなく、プロセスが事をなすことが実感されていけば、私にしがみついて低い自信を奮い立たす必要もなくなってくる。既にあるものを生かすにはどうしたらいいのか。この発想になってくると、考えで自分を追い詰めることはだんだんしなくなってくる。

 

自分にとって学びとは何かを問い、学びのための環境を整えていく。終わりなく成熟させていく。それはやるべきことでもやらなければいけないことでもなく、そう動こうとしている自律性に気づくことだ。

 

学びは、コミュニティを派生させ、自ら学びに適した生態系、人と人との関係性を作る。学びは自己展開する自律性によるものだ。私は、それが動き出せるように通路を作ったり、阻害しているものをのけたりして整える役割だ。古い私が何かを蓄積していくことが学びなのではなく、古い私が更新されていくのが学びだ。私は学ばない。学んだ私はもう古いものとは質的に別のものになっているから。終わったとき、ただ新しい状態がある