降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

小集団の可能性を再考する 鶴見俊輔『共同研究集団』とジャンル難民学会

昨日の夜は、キッチンハリーナでの境毅さんとの探究の場で、鶴見俊輔の『共同研究集団』の紹介してもらいました。

 

kitchen-halina.jimdo.com

 

 

先日の投稿で、DIYは受動的存在であることから主体を取り戻していくための応答としてあるとしました。

 

DIYの意義はモノをつくることや技術を獲得すること自体ではなく、環境に対して働きかけ、世界と自分との関係性を変容させる接点をこの世界につくりだすことであるといえるかと思います。

 

よって、友達を見つけたり、つくることもまたDIYであるといえるでしょう。どのような人も、自分にとって特に重要なことについては、その他のことに対してよりもDIY的な関係性の持ち方をするのではないかと思います。

 

DIYは自分の外の環境に働きかけるものですが、僕は外の環境に働きかけるのは手段なのであって、肝要なところは、自分自身の内面、価値観、世界観を更新することであると考えています。それはつまり教育哲学者林竹二の指摘するところの学びということだと思っていますが、DIY的行動は学び(更新)のための手段としてあると考えています。

 

自分は変容しようとしているプロセスと共にあり、プロセスが動きだすためには、そのプロセスが動きだすためにオーダメイドされ、整えられた環境を自分に与えることが必要だと思います。

 

そして、そのような学びは小集団においてより活性化しうると考えています。なぜなら、小集団において人の変容のスピードは上がり、時代の価値観や意識をこえていくことがしやすいと思うからです。

 

境毅さんのレジメからの転載ですが、鶴見は『共同研究集団』において、以下のようにサークル(小集団)を紹介しています。

 

 

 

 

サークルとは、共産党の蔵原惟人がモスクワから持ち帰った言葉で「革命思想を日本の大衆の中につくりだしてゆくための文化運動の小単位だったらしい。(P4)」

 

「活気のあるサークルには、その底に、長い時間をかけてつきあうに足る相手だとおたがいに感じる、共有された直感がある。(P8)」

 

「このようにたがいに信頼をおくつきあいの中では、サークルの進行途上で、自我のくみかえがおこる。(P8)」

 

「サークルにおいては、話すことが考えることになりうるし、考えながら話すこともできる。(P9)」

 

「ここでは私有は越えられており、ここにサークルがこれに属するものに与える豊かさの感覚の源泉があると思われる。自分の考えが、他人の考えと合体し、交流し、増殖してゆく感じを体験することができる」

 

「自律的に一個のサークルとして計画を立てて長期にわたって活動を続けていく場合には、ばらばらの能力が結びついてゆくことがみられ・・過程そのものに打ち込む態度(P9)」

 

が生まれるそうです。

 

ただ狭い集団ゆえの純粋化の要求の強まりがサークルをサークルとは別のものにかえてしまうことはよくあるとも鶴見は指摘します。

 

このサークルの欠点をどのように補えるのかと考えたとき、たとえば今度開催するジャンル難民学会(仮)のような、「魚礁」となるプラットフォームとそこからスピンオフ(派生)する小集団という構造を作ればどうかと思っています。

 

はじめから小集団を作ると、小集団の枠組みが絶対化してしまいがちになります。そこで、まずある程度多数の人が集まりうる場所をもち(それがジャンル難民学会の位置づけですが)、そこで出会った人がこの指とまれ的に自分たちの探究に適したサークルを作ります。

 

そこではサークルを絶対視する必要はなく、うまくいかないなとなったら、すぐに解散したり、あるいは同時並行で、もう一度プラットフォームで別プロジェクトとして、この指止まれで集まることができるというものです。魚礁となるプラットフォームは、それ自体で探究の目的を達成しようとするものではなく、あくまで小集団を自由に派生させうるという趣旨のもとに設計されます。

 

この構造を取ることで、あるサークルが煮詰まってまい、歪んだり、普通でないストレスを構成員にかけるということを避けながら、小集団の良さが生かされるのではないかなと考えています。