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ブックレビュー『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』

 ブック・レビュー

ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』 

 

この本を選んだ理由

 武術家の甲野善記さんがこの本に痛く感銘を受けたというつぶやきをみて、まずこの本を知りました.右左の区別がないこと、数の概念がないこと、現代文明に接触しながら、自分たちの文化を変化させないこと、著者が言語学者だということで、言語のあり方から、ピダハン族の世界の見方、存在の仕方がどのように見えるのかにも関心がわき、この本を選びました。

 

著者の紹介

ダニエル・L・エヴェレット

1951年生まれ。世界有数のピダハン語の権威。17歳で信仰に入り、18歳で最初の伴侶であるケレンと結婚。キリスト者として、聖書をピダハン語に翻訳して教えを伝えられるようにするため、ピダハン語の研究を開始する。1977年、単身でピダハンのもとに訪れ、その後妻ケレンと幼い子ども三人も共に、一度の滞在で数週間から長い時で1年近く、20年以上にわたってピダハンの人々と生活を共にした。

 

ピダハンと関わりはじめる

 ピダハンの村に小屋をかまえる。ピダハンの言語は、一部調査や記録もされており、それを確認する。ピダハンの表現は大まかに、質問、新しい情報の提示、命令の3つであり、「ありがとう」や「すみません」という言葉はない。親切に対しては、後で物を贈られたり、荷物運びを手伝ってくれるなどという親切によって返される。p23

 

p30棍棒をつかんだわたしはタランチュラを叩き潰した。玄関にいたピダハンたちがそれを見ていて、何を殺したのか尋ねてきた。「タランチュラ」とわたしはこたえた。「おれたちは殺さない。タランチュラはゴキブリを食べるし、害はない」

 

物質文化と儀式の欠如

 ピダハンには創世神話もなく、死者の埋葬すら簡素で、儀式らしいものがない。また自らの文化のあり方に沿わないものを使ったり借りたりはしても、取り入れない。食料を保存することもせず、とってきた食料はその場でみんな食べてしまう。

 

ピダハンは、舟のモーターのように外部の物を取り入れることはある。しかし、それはあくまで借りたものであり、自分たちでその修理や生産をすることはしない。たとえば。釣り竿は、ピダハンの文化にも周りの民族の文化にもないため、使用しない。p285

 

「一つのパターンが見えてくる。ピダハンには食品を保存する方法がなく、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。将来を気に病んだりしないことが文化的な価値であるようだ。だからといって怠惰なのではない。ピダハンはじつによく働くからだ。」p113

 

「ピダハンに儀式が見受けられないのは、経験の直接性を重んじる原則で説明できるのではないだろうか。この原則では、実際に見ていない出来事に関する定型の言葉と行為(つまり儀式)は退けられる。つまり登場人物が自分の演じる出来事を見たと主張できない儀式は禁じられるのだ。」p121

 

「だがこのような禁忌のみならず、直接経験の原則のもとには、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物、あるいは実際に経験した人物から直接聞いた人物が、行動や言葉を通して生の形で伝えようとするピダハンの思考が見られる。」p121

 

ピダハンの子どもや仲間に対する態度

自分で危険を学ばせる。

「子どもが火に近づくと、手をうんと伸ばせば届くほどのところにいた母親が子どもに低い声を発した。けれども子どもを火から遠ざけようとしない。子どもはよろめき、真っ赤に焼けた石炭のすぐわきに倒れ込んだ。脚と尻に火傷を負い、子どもは痛みに泣き喚いた。母親は子どもを片手で乱暴に抱き起こし、叱りつけた。p127

仲間を罰することをほとんどしない。

【飼い犬を兄弟(カアパーシ)に銃で撃ち殺されたピダハン】

「カアパーシをどうするつもりだい?」わたしは尋ねた。

「どうするとは?」カアプーギーは不思議そうに訊き返す。

「つまり、犬を撃たれたことにどう始末をつけるのかということだよ。」

「何もしない。兄弟を痛めつけたりしない。あいつは子どもじみたことをした。悪いことをした。だがあいつは酒を飲んでいて、頭がまともに働いていなかった。おれの犬を傷つけてはいけなかった。これはおれの子どもとおんなじだったんだ。」p144

こどもに体罰を与えない。滅多にお仕置きをしない。

ピダハンは自分たちの民族を家族のように認識しており、決して殺さない。

 

ティーンエイジャーたち

10代の若者は、同じ年代でたむろしたり、くすくす笑ったり、傍若無人だが、食物をとってきたり、村の安全を守ったりする。自分探しをしたり、ひきこもりになったりしない。p142

誰の子どもでも、ピダハンであれば、自分に何がしかの責任があると認識する。

 

ピダハンと性

性に関して、こどもとおとなの性行為もなんら禁じられていない。著者と話しをしていた男性のピダハンに10歳ぐらいの少女がなまめかしく触ってきたが、男性のピダハンは「ただふざけているだけさ。大きくなったらこの娘はおれの妻になる。」といい、思春期が過ぎたころに実際に結婚した。p146

 

ピダハンと家族(核家族

「ピダハンの家族関係は、西洋人にもなじみやすい領域だ。親と子の愛情表現はあけっぴろげで、抱き合い、ふれあい、微笑み合い、たわむれ、話し、一緒に笑い合う。これはピダハン文化のなかで、真っ先に目につく特徴である。p150

「母親は、次の子どもが生まれるとすぐ断乳する、すぐ上の子が三歳か四歳くらいのころだ。断乳は、子どもにとって大人にかまってもらえなくなり、お腹がすき、仕事をして、大人並みの労働の世界に入ることで、辛い。」p151

 

ピダハンとジャングル

「ジャングルにいる彼らをみて、私は村が彼らにとっては居間にすぎないこと、たんに手足を伸ばすためだけの場所であることに気づいた。(略)ジャングルと川はピダハンの職場であり、工房であり、アトリエであり、遊び場だ。」p154

 

ピダハンと猟にいく。斧の使い方がうまい。筆者の家をつくるために運ぶ、20kg以上の木を村まで10キロ背負って運ぶ。途中で限界がきている筆者の分を別のピダハンが肩代わりし、一人で50kgの荷物を運んだ。p156

 

アメリ先住民族の多くは、伝統的に平等で、長がいない。社会の秩序にかんして、ピダハン社会であまりにやりすぎたものは村八分にされる。p159

 

ピダハンの世界観

 宇宙はケーキのような階層構造でできていると認識され、空の上の世界と地面の下の世界がある。階層と階層の間、「オイー」は地表、ジャングル、生態圏、地球などの全てを指す。

 

ピダハンに右と左の区別はない。方向は、川かジャングルを基準に下流のほう、上流のほう、などとしてあらわされる。右手、左手というのはなく、手は上流のほうにある、手は下流のほうにある、としてその場その場で区別される。

 

ピダハンの文法に入れ子構造で作る文はない。(リカージョンがない)

「言い換えれば、言語に階層的構造ができるのは、もともと脳に入れ子的に考える能力が備わっていて、しかも文化や社会における問題や状況を伝達するのにリカージョンを使うのが効率的だったという相互関係から生じてきたものなのだ。」p336

 

「もしリカージョンが、チョムスキーや彼の信奉者たちが言うように人間言語の基本的能力だと仮定して、いくつかの言語にリカージョンが見られないのであれば、その仮説は誤りだということだ。一方、もしリカージョンが基本的部分でないとすれば、言語を本能と捉えるところから出発するのではない言語理論の必要性を、ピダハン語が教えてくれていると言えるだろう。」p336

 

ピダハンの価値観

著者の継母が自殺したこと、それが信仰へのきっかけになったことを話そうとするとピダハンに爆笑される、

「自分を殺したのか?ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりしない」みんなは答えた。」p367

 

キリスト教に対するピダハンの態度

「次にみんなは、もしわたしがその男(イエス)を見たことがないのなら、その男について

わたしが語るどんな話にも興味はない、と宣言する。その理由は、いまならわたしにもわかるが、ピダハンは自分たちが実際に見るものしか信じないからだ。p368

ピダハン語で聖書を録音し、テープレコーダーをピダハンに渡したが、彼らが喜んできいているのは、ヨハネが首をはねられる場面のみだった。p370

 

著者の信仰のゆらぎ

「ピダハンが突き付けてきた難問のもう一つの切っ先は、わたしのなかに彼らに対する敬意が膨らんでいたことだった。彼らには目を見張らされることが数えきれないほどあった。ピダハンは自律した人々であり、暗黙のうちに、わたしの商品はよそで売りなさいと言っていた。わたしのメッセージはここでは売り物にならない、と。」p375

 

「西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあるとは言えないだろうか。」p378

 

「畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求する虚しさを理解していること、どちらが理知をきわめているかを。」p379

 

「ピダハンの村に来たMITの脳と認知科学の研究グループは、ピダハンはこれまで出会ったなかで最も幸せそうな人々だと評していた。そういう観測を実測する手立てがあるかと尋ねると、ひとつの方法として、ピダハンが微笑んだり笑ったりする時間を平均し、アメリカ人などほかの社会の人々が微笑んだり笑ったりする平均時間と比較してみることができるという答えが返ってきた。MITのチームは、ピダハンが楽勝だろうと予想した。わたしも過去30年余りで、アマゾンに居住する二十以上の集団を調査したが、これほど幸せそうな様子を示していたのはピダハンだけだった。」p385

 

「ほかはすべて、とは言わないが、多くの集団はむっつりして引きこもりがちで、自分たちの文化の自律性を守りたいのと同時に、外の世界の商品を手に入れたいという欲望に引き裂かれていた。ピダハンにそうした葛藤はない。」p385

 

終わりに

 ピダハンの文化が特異なことは間違いないと思った。しかし、ピダハンも仲間は殺さないが、ピダハンでない著者を酒に酔った勢いで殺そうと考えたり、自分の土地と認識している土地で暮らしていた民族に対しては敵というぐらいに近い認識をもつことは考えれば当たり前のことかもしれないが、いいイメージが先行していたのでややショックを受けた。敵であっても、残酷な抑圧をうけても敵を許すティモールの人々の映画をみていたので、そこと比べてしまった。しかし、ともあれその先入観はおいて、ピダハンが食料を保存せず、物質文化を享受せず、厳しい自然のなかで、未知や不遇を当然のものとして受け入れ、自律的に生きている姿をもう一度考えてみたいと思った。ピダハンは、定住しているが、旅人のように生きている。創世神話で自分たちの権威を位置づけず、儀礼ももたないのは、彼ら自身が自分たちに望む姿で生きていくためだと思う。人間が人間を超えた何かになろうとしていないことも感じられる。筆者は主に言語学者として彼らを分析した。それはそれで面白かったが、生きることそのものに関心がある人がピダハンと共に過ごせば、いったい何を発見するだろうかと思った。