降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ふたつの世界

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僕は人はふたつの世界のなかに生きていると思う。一つは何の権利も保証もなく突然限定を抱えて放り出され、弱肉強食で何も確かには予測できないその生を引き受けていく世界のなか。もう一つは、その不条理さを補うために、人と人との間で作られた約束の世界のなかに。

不条理さとは、限界ある人間には耐えきれないこの世界の豊かさ。 約束の世界は、その耐えきれない豊かさのなかに、入れ子のようにつくられた手製のささやかな人工の世界だ。しかしその入れ子である人工の世界は、常にそれを囲む不条理さの世界の浸食と影響を受けている。 

弱肉強食は自然のありよう。その本性が約束の世界のなかでも反映され、不十分であれば生きていけない。 約束の世界をつくらなければ人は生きづらい。しかし約束が張り巡らされた世界が一旦でき、そこでは提示された指示に従っていればいいような、錯覚が錯覚とは思えないリアリティが現れたとしてもなお、豊かすぎる世界を人はコントロールすることはできないのです。不条理を自分の目に少し映りにくくできただけ。

 

約束の世界は、どんなに強固につくっても、張り巡らせても、あくまで仮の世界なのだと思う。だから、人が本当に自分で生きていく責任をとろうとするとき、約束の世界をこえて生を引き受けなければならない。その時、生はサバイバルであり、人は間隙を縫って得たいものを得て生きていく。

 

バーチャルなものである約束の世界を主としてしまい、不条理の世界は低確率で例外的におこるただの不運でしかないとしたとき、大きく失われるものがあると思う。それは現実がどのようなものであれその生を創造しようとする野性の力の勢いと、もう一つはその不条理さにも関わらず共に生きているものたちへの共感性の基盤だ。

約束は架空のものだ。双方がそれにも関わらず守ることによってしか成立しない。だから約束の世界であっても、権力をもつものは、他者には約束を強要しつつ、自分は約束を守ることなどしない。約束の世界はコントロールの際の媒体であって、彼らが現実に住んでいるのは不条理の何でもありの世界だ。

力を持たない者たちも、約束の世界は副、不条理の世界が主と、そう位置づけることが必要だろう。生きていく力はそこから戻ってくるように思う。もともとサバイバルだった。そこに戻る。権利は与えられていない。道も整えられてはいない。だから間隙を縫うしかない。もともとゲリラだった。 この現実の世界で成り立ったものは、全てがその時の既存の仕組みや道理にそって準備されていって成り立っただろうか。そうではないと思う。むしろゲリラ的に起こり、ゲリラ的に成り立たせたものではないだろうか。

ゲリラに戻り、そして創造していく。より弱いものを抑圧する暴力ではなく、人を傷つける物理的暴力でもなく。見えなくされていた抑圧を破綻させていくゲリラに。生を創造していくゲリラに。

  

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