降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究界隈、どうなっているのか(6/24追記)

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べてるの家の関連施設、べてぶくろで地域住民との間で性暴力被害がおこった。被害者のブログによると、被害者の訴えをきいたべてぶくろスタッフRは訴えを公にするとべてぶくろが地域でやっていけなくなるとして、被害者を黙らせようと働きかけ、その態度に抗議する被害者を批判した。べてぶくろは組織としてそのスタッフRを容認し、擁護した。被害者は孤立し、ヘルパーの仕事も続けられなくなり退職してしまった。

 

それに対してべてぶくろ代表は、被害者に対してその問題を被害者個人の問題として自分が納得するよう”当事者研究”するように働きかけをしていたという。

 

被害は2015年におきており、被害者はべてぶくろから被害に向き合うことがされないまま、自分の非のように感じさせられながら、5年我慢したのち、ブログで法人としての責任を放棄したべてぶくろの二次加害の告発というかたちをとった。

 

ブログでの告発に対して、べてぶくろは沈黙したままであるが、当事者研究界隈の顔たる人たちが、具体的な事件や被害者の告発の事実に言及しないまま、安全安心が守られない状況を改善していく旨の声明をだした。不可解なことに、その声明の連名には被害者が告発するべてぶくろの代表の名前も含まれていた。

 

問題は、当事者研究の顔たる人たちが、弱者である被害者の告発に対応するよりも、いわば「当事者研究業界」を守ろうとするアクションをおこして被害者を不可視化し、被害者をケアしようとするのではなく、実態上はべてぶくろを守ろうとしていることだろう。

 

当事者研究というものの体質が、性暴力やハラスメントに対する被害のもみ消しをおこしやすいということを否定したいならば、筋としてはまずは組織としてのべてぶくろの社会的責任放棄を問題とすべきであるだろう。

 

であるのに、べてぶくろの行ったことに対して批判する態度を一切見せないままべてぶくろの代表者と共に声明をだすということは、”当事者研究”を守ろうとしているどころか、当事者研究界隈は身内どうしが権力者となって序列づけられたコミュニティになっていることを自ら証明するようなことになってしまっている。

 

当事者研究の社会的価値をうったえるのならなおさらのこと、べてぶくろがこの状況に対して自ら説明するということが必要だろう。

 

6/24追記:べてぶくろから声明が出された。しかし謝罪というかたちをとっているものの、おこったことを可能な限り矮小化する文面で、被害者の方々が納得できるようなものではなかった。またべてぶくろは、性暴力以外にも不当な労働搾取やパワハラでも告発されているが、そちらへの言及はなかった。つまりこの声明はべてぶくろにあった様々な問題の被害者に対して出されたようなものではなく、「世間」の風当たりへの対処として出されたものと考えられるだろう。

 

この告発とは別件であるけれど、平行するように映画配給会社アップリンク代表のパワハラに対して元従業員からの告発があった。その謝罪文も一見真摯に反省するようで、従業員に直接謝罪していなかったため従業員がさらにその不誠実を告発するという展開になった。

 

それ以前に告発されたフォトジャーナリズム誌DAYS JAPANの代表もそうであるけれど、人権や社会的課題に対して先進的に取り組んでいるような団体の内部において、常態的な人権侵害がおこり、状況が明るみに出てもなお直接の被害者に向き合うことを避けるのは、まるで同じ構造のように思える。また周囲や関係者はその状況を大なり小なり把握しているが、黙っていたり、社会的に意義のあることをやっているからと目を逸らすのも同じだ。

 

社会的に意義のある活動という自他の認識は、周囲からの批判を防ぎ内部からの批判も抑圧する機能をもつだろう。そうして不健全に守られ、閉じられた環境は結果的にいびつな権力の欺瞞と腐敗の温床になる。

 

そもそも、どのような人も無自覚な自己欺瞞をもつものであり、そこに適切な他者の干渉がなければ、やがて自己欺瞞で自らをより疎外していくことを止められなくなるのだと思う。あの人だから大丈夫だ、というようなことはなくて、どの人も無自覚な欺瞞を拡張させる危険性をもっている。

 

これは近代の人間観、意識的で自覚的であり働きかける主体としての人間というイメージを、社会はまだナイーブに信じているということではないかと思う。人間は、自分では止められない欺瞞性をもつものであり、その欺瞞性の害は組織として拡大すれば当然のように膨れあがる。

 

どのような人間も組織もそもそも自己欺瞞を抱えているものであり、その自分では止められない欺瞞性に干渉するものとして、外部の他者が必要になる。この欺瞞性のため人間は決して「自立」できず、自身の止められない自己疎外傾向に干渉してもらうために、いつまでも他者に依存する存在であると僕は思う。

 

閉じられた空間では、健全な干渉をおこなう他者はいなくなり、偏った権力が生まれ、環境は自然に腐敗する。自分はいいことをやっているから正しいとか、あの人はいいことをやっているから無条件に今も今後も信頼できる人だとか、そういうことはあり得ないのだということをそろそろ認めてもいいのではないか。

 

「自浄作用」というものを多くの人が普通にあるもの、備えているものとして語るけれども、外部の他者が介在しなくなったとき、個人にも組織にも自浄作用などないと考えたほうがいいだろうと思う。人間の免疫機構は歳をとると自分を攻撃しはじめると聞くけれど、身体における「自浄作用」のようなものは、そもそももとは他者同士の協働として身体が成り立っているためにおこるものだと思う。組織など自意識で作ったものにおいてそのような他者性はあらかじめ排除されている。

 

人や組織の自己欺瞞性、自動的な権力の偏りに対して、大丈夫だなどと高を括ることはできない。そもそもいびつになるものだという認識のもと、いつでも崩れうるバランスに常に注視し、いい意味での干渉がおきる環境や仕組みを確保する必要があると思う。

 

ウイルスソフトがアップデートし続けなければいけないように、自動的に偏りはじめるものに対して、内部と周囲もまたのみこまれず、自律した思考と距離をもち、環境を更新させていく存在になり続けていくことが、人や組織の自己欺瞞性とそこから派生する暴力を最小限にとどめる前提となると思う。

 

当事者研究は、「自己病名」をつけることによって、医療や専門家から名づけられ奪われていた主体性を自らに奪い返すものであったと思う。しかし、主体性の回復のためには、それでもまだ足りなかったのだと思う。病名をつける専門家が当事者研究を教える専門家に変わった。専門家は従わせる権威をもってメンバーをおさえつけた。当事者研究の専門家になった人が自らの権力性を自覚して更生する仕組みは考えられてなかった。

 

枠組みを作る側と享受する側、思想を生産する側と消費する側、というような立場に固定されてしまうなら、思考の主体性は奪われてしまう。誰もが自己欺瞞性をもち、放っておけば偏りが増幅していくことは避けられない。

 

人や組織が必然的にもつ自己欺瞞性に対して、当事者自らが枠組みを考え、生み出し、調整していく必要が明らかになったのだと思う。自己病名をつけても、主体性はまだ奪われたままだった。誰かの考えた枠組みに従うだけであるならば、思考の主体性は奪われたままだ。主体性は、自らが思考し程よい枠組みを考え、調整していく運動によってようやくリハビリされ、機能するようになっていく。主体性を回復するためには、それぞれの人が自身をアップデートされるウイルスソフトにしていくことが必要なのではないかと思う。

 

べてぶくろは先例として、被害者の方たちに向き合い、更生してほしい。それが最も見せるべき姿であり、社会に対する希望の提示なのではないかと思う。間違いをおかして、間違いへの向き合いを最小限に回避するより、おかした間違いから自身が更生する姿を提示することで、べてるの言う「安心して絶望できる社会」ができるのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

www.businessinsider.jp

 

6/28追記・訂正:被害者の方から指摘がありました。退職されたのはべてぶくろからではない、ヘルパーの仕事でした。また当事者研究をすすめてきたのはスタッフRではなくべてぶくろ代表や向谷地生良氏であったとのことです。間違いをお詫びし、該当部分を訂正させていただきました。 

 

自意識の植民地としての身体 打ち消しと間接性

ある催しで、参加者が私はもう上手いダンサーの踊りを見て面白いと思えなくなったということを言っていたのを時々思い出す。

 

自分のことを動的な関係性そのものとみるのではなく、完結した、閉じた主体だとみなすとき、自分は環境に対して(一方的に)働きかける存在であり、自分の既知の知識や技術で他者に働きかける能力を内在させていなければいけない存在だと認識される。

 

一般的なイメージとは違って、依存症とはコントロールしすぎる病なのだと認識されはじめているけれど、自意識によるコントロールは既知に閉じており、必然的に閉塞を伴っている。

 

身体のことを、自意識は自分の所有物だとみなしていて、いかにそれをつかって多くのものを得るか、欲しいものを得るかに邁進している。近代的な認識では、身体は自意識の植民地として存在している。

 

言ってみれば身体からすれば、自意識とは、自分をのっとった人工知能みたいなものだ。AIを恐れるのは、実のところは自分の身体が既に自意識によって完全に乗っ取られているという実感からやってきているところもあるのではないかと思う。

 

しかし自意識が自分のやっていることを自覚しているかというとそうではなくて、自意識は自分が作り出した世界像に閉じ込められ、終わらないメリーゴーランドから降りられずにいつまでも同じ景色を見続けさせられている。その景色を更新するのが、出会いであり、学びという出来事であると思っている。

 

自意識は自分を自分でどう縛っているかわかっていない。しかし、自意識は言葉でできているので、言葉の意味の境界においては、自動的なコントロールを発揮できない。だから、人と話しているときに帰り際とか玄関口で話しがいっぱい出てきてしまったり、喋るために用意された場所より、喋っても喋られなくてもいい状況のときのほうが話しが生まれたりする。

 

家でも職場でもない中間の場所、サードプレイス、なんであれ自分にとってそういう意味の境界にあるものが自分に内在化された無自覚なコントロールを外し、縛られていない自律的なものが動き出しやすくする。

 

通っている整体の稽古における型も、自意識の制圧下にある身体のコントロールが効かない状態をつくりだすものであって、いわば「止めているものを止める」ことによって、ようやく縛られていない自律的なもの、状況を更新する新しいものが動きだす。

 

まわりくどいが、自分という自意識によって直接にコントロールすることは、まるで全体主義国家が中央からの逐一の指令によってリアルタイムで踊っているダンサーに動きを指示しているようなものになる。そうならないためには、自意識としての自分がやることは、止めているものを止めるという間接的な行為ということになる。

 

否定的なものの打ち消し、止めているものの打ち消しというように、相殺の工夫、相殺の設定が状況の滞りをマシにする。意味というのは、AでもなくBでもないCというように、否定の重ね合わせによって作り出されているのだから、愛とか信頼とかやさしさとか、そういうものもそれそのものがあるのではなく、否定的なものが否定されたとき、結果として感じられる。

 

なので、直接的に自分が優しくなろうとか、愛を身につけようとするのも間違いであって欺瞞にしかならず、自分に内在する否定的なものを見つけ、そこから自分を解放していくことで結果的に望んでいるような状態が現れてくる。

私の探究・研究相談室レポート 回復が回復する 探究と時代からの解放

昨日の私の探究・研究相談室では場についての話しが比較的多かった。

 

世間一般では、主体というのは個人のことだと思われている。が、僕の認識ではむしろ場のほうが主体なのではないかと思う。

 

なぜなら個人が更新されていくために場が必要であるだけではなく、場が個人をつくると感じるからだ。個人は場という関係性の反映としてあると思う。

 

閉じた個ではなく、関係性こそが主体であるという認識は、大学では特に聞かなかった。自分に本当に必要なものは最終的には自分で見つけていくしかないし、今すでに発見されているものでは足りないと思う。そして個人はそれがその人に本当に必要ならば、時代がどうであれ、それを見出す力を持っていると思う。

 

相談室で、回復は自律なものの展開であるということを説明しようとしたとき、「自分が回復するのではなく、回復が回復する。」という表現になった。自分という自意識やその意思的な操作こそが自律的なものの展開を邪魔するという認識をもっている。

 

それぞれの人がさしおけない問題意識をもっていること、興味あるフリではなく切実に求めていることにおいて、その人は時代をこえたものを発見できると思う。違う言い方をすれば、あることについては、そのことが抜き差しならない状況にいる当事者こそが最先端の知識を発見する場にいると思っている。

 

世間が言っていることをそれが言われるままに鵜呑みにするのではなく、少なくとも自分がさしおけない事柄に対しては、そこでおこる実態に対して、よりフィットする言葉をおき、その言葉を更新していくことによって、古い考え方は更新される。

 

相談室のなかで、そもそもまず「自己肯定感」がある程度以上に高くならなければ、自分が変わっていくという体験や過程に入ることは不可能なのではないかということが言われた。

 

まず「自己肯定感」が高くなければ。多くの人がそう思ってしまうけれど「自己肯定感」の向上という考えにとらわれて停滞してしまいやすい。

 

本当にそうなっているのか? 僕の確かめてきた範囲では、自分が好きとか、そういう認識になる必要もなく、ただ自分というものが世間的になんであるかとか、人はこうしなければいけないとか、そういうことが頭から消えている状態になる状況や場、活動があれば人は変容していけると思う。(もちろん戦場とか人権侵害企業の職場とか、そういう強制的な危機的状況ではなくてであるけれど。)

 

「肯定的なものをより多く獲得する」というこの時代の強迫がしみこんだ考えでは、ああ自分はもっと獲得しなければいけないのだという思いそれだけで疲れてしまう。実のところそもそもこの時代の強迫こそが今の自分の停滞状況を作っているのだから、原因を強化するみたいなことをしているわけだ。

 

肯定的なものをより獲得するのではなく、現在自分にとって強迫的に迫ってくる考えとか認識が一時的にでも打ち消されればまずは十分なのだ。その時間と少しでも長く共にいる。浸かっておく。それで自律的なものは回復し、次の展開の力をためていく。

 

僕は心理学とか学問の専門分野に回収される言葉ではなく、素人が使える言葉や考えかたを見つけようとしてきた。そして「自分の時間が動く」という表現を使うようになった。「回復」も最近はあまり積極的には使わない。「回復しなければ」「回復してからが自分の本当の生がはじまる」みたいな考えになって「回復」自体にとらわれ停滞してしまいがちだから。

 

「回復」という達成をすることも「自分が回復した」という承認も必要ない。素人にとっては、難しい用語や考え方を覚えないと先に進めないといういうふうに思わされているけれど、「自分の時間が動くかどうか」ということにそって、物事をみていったり、体験して確かめてしていくだけで、必要は十分足りる。

 

自意識としての自分がどれだけ賢くなるかと関係なく、人には自分も知らない自律的な更新作用があって、それがなるべく活発化するような環境設定やチューニングとはなんだろうかという意識をもちながら日々を過ごせるなら、事は足りる。

 

時代的な強迫で、多幸感がないと幸せではないと思わされているけれど、そんなことはなくて、自分が幸せか不幸せかとか、世間においてはどのくらいのランクに位置するのかとか、そういう考えが消えている1秒だったり、1分だったりの間は、すでに最高の状態であり、「達成」しているとさえいえると思う。

 

そういう間、自分の時間は動いている。自分の時間が動くとき、結果として自分は変わっていく。変わらなければいけないとか、回復しなければいけないとか、そういう考えや価値観など関係なく変わっていく。

 

自分でも知らない自分になっていく。自分が回復したかどうかとか、もはやどうでもよくなるのが「回復」の最終段階なのだから。最後は「回復」にさえとらわれなくなる。そしてそのこだわりが後ろにひくことよってより自由になる。

 

僕自身は大学での出会いとか、環境によって、自分が必要なものとそうでないものを確かめてきたので、大学など必要ないとか、別にそういうことは言っていない。なんであれ、どういうものであれ、自分の時間を動かすということにおいて使えるなら使えばいい。

 

「自分の時間が動く」というとき、自分といっているけれど、それは自分ではなくて、自分も知らない自律的な変化のプロセスが動いているということだ。自分以外のものに任せられるとき、人は安心する。精神的自立とは、外部の権威の言うことの達成ではなく、自分と共にあるプロセス、他者であるそのプロセスをより信頼できるようになるということだ。

 

時間が動くという言葉は自分以外の人にも使えて、その人の時間が動くということはどういうことだろうか、という意識をもちながら探っていくなら、その人を「回復」させなければとか、「適応」させなければという言葉をつかって考えるよりは、健全になりやすいと思う。

 

多くの問題の根底に、その時代がもっている、悪い意味で神話的で実態とは違う考え方の土台とか、枠組みとか、前提とかがある。それに対して、自分のなかで自律的に動いているものに応答していくことは、一旦は吸収して内面化してしまった考えや価値の虚偽に気づき、そこから解放されていくことにつながると思っている。

人間化の過程 意味から解放された場所としての人間

昨日の読書会。

 

フレイレは、人間の使命とは「より全き人間であろうとすること」だろうという。しかし「より全き人間」という言葉がまるでピンとこない。全きとは言葉通りにとるなら、完全で欠けたところがないということだろう。

 

完全。結局そういうものが本当にあると信じていることが不注意そのものなのであって、かつ強迫的に働くものだろうという認識だったので、首をかしげる。読書会のメンバーから「全き人間」という言葉はキリスト教的な文章でよくみられるという指摘がある。なるほどと思う。

 

里見実は、フレイレの解説書のなかでフレイレの『被抑圧者の教育学』とラテンアメリカの「解放の神学」の形成過程とは、時期的に重なりあっていると指摘する。解放の神学がその名前で宣言されるのが、1968年であり、被抑圧者の教育学も同時期に書かれている。

 

里見は両者は理論的にも実践的にも相互に深く影響しあっていると考えてよいだろうとしている。

 

英語で全き人間を何と書いているかみていないのだけど、DeepL翻訳などで「より全き人間であろうとすること」といれるとTrying to be a more whole person. とでる。

 

wholeのまるごとという感じならわかる気がするけれど、完全といわれると、「玉に瑕(きず)」みたいなあらかじめ完成された状態があって、今の自分からどれだけ完璧にしていくかみたいな不毛に強迫的なイメージが浮かんでしまう。

 

まるごとというときは、部分的な存在になってしまったり、されてしまっている人間が人間としてのまるごと性を取り戻していくということで、腑に落ちやすい。

 

まるごとという時は、その範囲が自分の身体だけにとどまらずそこに関わる全ての関係性がふくまれている感じがする。そこには世界と応答しあう存在としての人間が感じられる。

 

依存症などの自助グループ界隈では、「回復とは回復しつづけること」という言葉がある。回復的な体験がある人にとっては、非常に納得感のある言葉だ。

 

回復(した)というと、完了して安定した状態、達成して終わった状態になったように感じられる。しかし、動的な、変化の過程にあることそのものが回復とよべるのではないかと思う。

 

フレイレ自助グループ界隈は分野は違うかもしれないけれど、「より全き人間であろうとすること」と「回復をつづけること」とは同じようなことを言っているのではないかと僕は考える。

 

そして回復を続けるということは、結局はどうなっていくことなのか。フレイレ的には内在化された抑圧から自分が解放されることであるだろう。

 

抑圧されている人は価値観も抑圧者の価値観に侵食されているので、単に状況が改善しただけでは、自分が抑圧側にまわるだけになってしまう。しかも、そうして「成り上がる」ともともと抑圧者のポジションにいた人たちよりも苛烈な抑圧者になってしまう場合が多いという。

 

そのようになってしまうのは、自分が(他者から尊厳を提供される)人間であるためには、それをより証明しなければならない、よって自分とは違う、ダメな存在と自分との区別をはっきりさせなければならないという強迫から解放されないためだという。

 

抑圧者は「(他者から尊厳を提供される)人間であるためには〜の条件が必要だ」と信じている。そしてその条件を達成するために自分以下の存在をつくりだす(誰かを非人間化する。価値ある人間以前のものにする。)。これが抑圧の生まれる仕組みであると思う。

 

人間的な回復を簡単にいうならば、多くの条件を達成した自分であることでようやく自分を人間として認められていたとても強迫的な状態から、人間であるために必要だと思っていた強迫的な条件が減少して、条件の達成の強迫から解放されていくことであると思う。

 

人間とは、「意味」という未来からみた有用性の侵食をさせないところに生まれるものだと思う。人間とは意味の侵食を拒否した場所のことだ。

 

「あなたはあなただ」「わたしはわたしだ」というとき、それは誰かのようであるによって自分は意味をもつのではない、ということを言っているのであって、自分が偉いとか、あなたは素晴らしいから価値があるといっているのではない。

 

用意された鏡に映されたときに意味が生まれる。しかし人間には意味という条件は必要がない。必要がないどころか、意味という誰かにとっての有用性から自分が解放されたときにこそ、そこに人間が生まれるのだ。人間というのは意味から解放された場所のことだ。

 

意味をもたなくてもよくなっていくこと。それが人間にとっての解放であり、そして文化というものが目指してきたものだと思う。「より全き人間」とは人間であるために達成しないといけないと思っていた条件から解放されていくことであり、それが内在化された抑圧から解放されていくことなのであると思う。

 

「自分は回復した」ということを誇りに思うとき、図を浮かび上がらせる地を必要とする言葉の構造上、必然的に回復以前の自分より自分は人間化したと言っているのであり、同時に無自覚であっても回復以前と自分が考える人たちを非人間化することで高揚が生まれている。

 

回復者であることを自らのアイデンティティとし、回復は善だ、回復はすべきことだ、回復を達成した人は価値があると信じはじめたとき、その人はもう抑圧者になっている。何かを達成したと思えば今度はその達成の意味を無化していく。それが終わりのない人間化の過程なのであると思う。

 

追記:その後「より全き人間」はグーグルブックスの英語版ではmore fully humanであることを教えてもらう。そして邦訳で自分を含めた読書会メンバーが困惑したのは、邦訳には英語訳のどこにもない一文「人間の使命とは、より全き人間であろうとすること」ということだろう。」が挿入されているためであることに気づく。「より全き人間」は、非人間化ではないものという程度の意味合いで、とくだんに「全き人間」という言葉に意味が込められているようには思えない。邦訳のためにひっかかったが、「全き人間」にそんなにこだわる必要はなさそうだ。

フレイレから「生きづらさ」を考える

あらためて、フレイレを通して「生きづらさ」を考えてみるとどうなるだろうか。まず「生きづらさ」という言葉について、『居るのはつらいよ』の東畑開人氏はSNS上で次のように述べている。

 

「生きづらさ」という言葉って、心理学ブームが下火になり始めた2000年代になって使われ始めてます。この言葉は、心を云々するではどうにもならない、社会の側の要因を指摘する言葉なんです。そして、その要因とは、社会の問題を個人の心に還元する社会のありようのことなので、心理学はつらい立場です。

 

問題は、個人の内面で完結しているのではなく、社会構造の側にあるという認識だ。臨床心理学の立場の人が自らが依拠している前提を根本的に問い直すことは非常に重要なことであると思う。

 

(「居るつら」本などを読んでいると、たぶん東畑さんが心理学というときは臨床心理学のことで、セラピーというときは心理カウンセリングのことのようだ。心理カウンセリング以外にも多種多様なセラピーがあるのだろうけれど、本を読んでいると心理カウンセリングがセラピーというものを代表するものみたいな錯覚がおきた。)

 

フレイレは、社会を既に決まったもの、完成したものとはみなさず、変化の過程にあるものとみなす。だからフレイレにしてみれば、「社会はこういうものだ」とか、「現実はこういうものだ」とか、そういう言葉は単に今の社会を固定的なものとして考え、それを押しつけているということになる。

 

フレイレにおいては、社会が変容していくことは必然であり、そのために人が、特に今の社会構造のなかで非人間化されている人が、自らを人間化する過程で社会を変容させていくことが求められる。

 

フレイレによると、社会を変えられるのは、そのような人たちの弱さの力であり、力を持たないものの力なのだとされる。

 

被抑圧者が自らの人間性を取り戻すための闘いは、同時に新しいものを創造するということでもあるのだが、このプロセスにおいて被抑圧者が観念の上でも現実の場でも、自らが抑圧する側のまねをするのではなく、抑圧者、被抑圧者、双方の人間性を回復しようとするとき、その闘いは意味をもつ。これこそが被抑圧者の大きな役割であり、抑圧者の歴史の課題である。つまり、自らの解放のみではなく、抑圧する者も共に解放する、ということだ。被抑圧者の無力さから生まれる力が、抑圧する者とされる者を共に解放する力をもちえるのであり、暴力に頼る抑圧者はこういう力をもつことはできない。 パウロフレイレ『被抑圧者の教育学』

 

 

たとえば日本でも50年ぐらい前であれば、重度の身体障害を持った人は家で大人しく「いい子」にしているのが当然であり、遊びに出歩くなど不届きであるという価値観が一般的であったという。障害のない人ができる仕事ができない人は人として自由を制限されて当然であるというのが社会の一般的な価値観だった。

 

自由に外に出られるのは働いていることの引き換えなのであるという価値観。障害がない人の一部が仮にそのような社会に息苦しさを感じていたとしても、自分たちは「働ける」ので、社会のその価値観を変えるのは難しい。たとえそこに疑問を感じていても、自分が自信を持って自由に外に出歩けるのは働いているからだというアイデンティティもある。

 

ある条件がついたときだけ、人は自由に出歩けるような人間であることが認められるのであり、その条件を満たさなければ一人前ではないし、一人前の自由は認められない。これは実質的に「人間」と「人間以前」が作られているということであるだろう。

 

こう書いていると今でも自由の引き換えはこれだとか、そういうバックラッシュ(それまで自由にされてなかった人たちが自由になったことによって、自分たちが今まで持っていた「権利」が侵害されたり制限されたと考える人たちによる、自分たちのかつての大きかった顔を取り戻そうとする被害者面をした社会的反動)は常に存在している。

 

自分たちが人間になるために条件を満たさないものを「人間以前」にし、非人間化し言うことを聞かせようとする社会的な圧力は何も変わらないと思うのだけれど、少なくとも今は重度の障害のある人が外で出歩いていても不届きだというのは一般的な価値観ではなくなっていると思う。

 

既存の社会において当たり前のこと、つまりこの条件を満たしているから自分は人間として価値があり、人間らしく扱われているのだという「条件つき」の人間像が「条件なし」で人間である(少なくともかつてあった「人間」であるための条件の一つがなくなる)ようになること。

 

これが力を持たない人の力であるのだと思う。つまりいくつもの条件がついたうえでようやく「人間」になれていたところを、その条件がなくても「人間」であるということが社会環境の基準になるのだ。

 

今、価値を奪われている人、実質的に「人間以前」と見なされ、扱われている人たちの人間化のための社会との闘いが、社会をより人間的なものとして更新する。

 

以上のように考えると、まず「生きづらさ」の問題が検討されるためには、既存の社会において何が人間であるための条件となっているのか(それはたとえば「空気が読めること」だったり、「人に迷惑をかけない」ことであるかもしれない。)を明らかにすることからはじまるのではないかと思う。

 

抑圧されている人は単に状況が変われば自由になるのではなく、内面の価値観も侵食されているため、自身の内面化された価値観からも解放されていく必要がある。そうでなければ、よくいる成金のように、よりいっそう自分より下の人たち(結局かつての自分なのだけど。)を貶めたり、攻撃しなければ自分がかつての「人間以前」に戻ってしまうような強迫を抱えたままになってしまう。

 

今現在の社会の人間であるための条件が明らかになったならば、そのようではない社会環境を小さくとも作り出していくことが次のステップなのかと思う。人間は人間であることによって人間になっていく。まずは自分に対して、自分たちに対して、誰かをおとしめることなく、人間になれる空間をつくりだしていく。

 

既存の秩序、既存の価値観に閉じ込められたところから、その外にでる。環境を作りだすことによって自分が変わる。そして変わった自分自身に必要なものを提供するためにまた環境を変えていく。この繰り返しがやっていけるのかと思う。

使い捨ての関係と体験の剥奪

読書会を一緒にやっている河本さんの投稿から。

 

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自然のものなので野菜ができる具合は常にばらつきがあると思う。畑をやっているとできるときは過剰なほどできる。しかし受け取り手の需要は決まっている。ということは、こういうお任せ型でないとき、どれだけたくさんのものがロスになっているかと思う。


サービスを提供する側と受ける側と割り切った関係性では、本当に良いものを目指そうとすることは非効率になる。お互い使い捨ての関係性から、育てあいの関係性に移行することでようやく維持されるものがある。

 

自家菜園が広がることはいいと思っているけれど、農家が困るのではないかと言われることがある。全然そうは思わない。より作物が作られる状況への理解が深まり、使い捨てではない、育てあいの関係性が生まれるだろうと思う。

 

便利とは、自分が直接に世界と関わり、自分の認識が更新され、自分と世界の関わり方が更新されるリハビリを奪われていることでもある。体験とそこから生まれる学びが奪われている。新しい世代では便利は脱するものと認識されていくのではないかと思う。不便がいいのではなく、体験が奪われていることこそが、人間にとって根源的な疎外だという認識が共有されて。

 

先週配達のよつ葉さんのお野菜🥦セット980円。
(写真がドラマチック仕様なのはスルーしてください。
見にくくすみません🙏)
「ちょっと間違って二重に配達してませんか?」と、電話を入れました。「いえ、大丈夫です。今週多いんですよね」とのこと。
小松菜、畑菜、ホウレンソウ、水菜、壬生菜、チシャ、蕗、ラディッシュスナップエンドウx2、絹さや、ネギ、チンゲン菜、、かな?💦
5品は必ず入ってきます。収穫が多いときは捨てるよりは食べていただこうという心意気みたい。大見での畑は夏だけなので、特に端境期のこの時期はめちゃありがたく、喜んでいただきます。💚
寒い時期と違って、さすがに痛みそうだったので、せっせと干し野菜を今週は量産しました。👍
よつ葉さん、現在入会キャンペーンされているみたいで、プレゼントがもらえるみたいですよ~。🌷
宅配のよいところは、お酢とか、砂糖とか、ティッシュボックスとか、重たいものや大きいものも玄関まで運んでくれるところですね。めちゃ助かってます。
不在でも宅配ボックスと保冷剤持参で玄関前に置いといてくださいます。送料無料、入会無料です。
この時期は牛乳やヨーグルトが美味しくっておすすめです。
スーパーで手に入りにくい小麦粉類やよつ葉のバターも確実に入手できますよん🙃
良心的な生産物をつくったり、小さな生産者を応援してがんばっている企業や小規模商店さん、コミュニティは、京都には本当に多くて、これからも残ってほしいし応援していきたい。つい値段の安いときにこうして記事にしてしまいがちですが、目先の値段だけでなく、活動内容にも注目しています。これからも宜しくお願いします!!!😀
関西よつ葉連絡会
https://www.yotuba.gr.jp/

 

2020年畑オープン日のお知らせ

 京都のらびと学舎では、2020年6月〜11月の間、畑のオープン日をもうけます。月曜日のおおよそ11時〜14時の間に岩倉幡枝町の畑にはだいたい誰かがいるので、畑の様子を見物したり、希望があれば作業に参加したりできます。

 

 これは特に何かを教えたり伝えたりという目的ではなく、時間内出入り自由で、散歩の途中についでに見るだけで畑にきたり、畑にいる人に会いにきたり、お昼どきに昼ご飯を持ってきて畑で食べていったりなど、公園的利用のようなイメージをしてもらって構いません。
 


 ただサービスする側とサービスされる側の関係ということではないので、天気の悪くなりそうな日に誰もいなかったりとか、たまたま来た時にもう一つの畑の方に行く必要ができてそちらに行っていたりするかもしれませんので、その際はご容赦ください。お互いに無理なくシェアできるものをシェアする場になればいいなと思っております。

 

※畑の場所などは、各自ご連絡いただいた際にお伝えします。

 

畑オープン日スケジュール

6月
主な作業 今ある野菜のケア 大豆種まきなど
1日(月) 11時〜14時
8日(月) 11時〜14時
15日(月) 11時〜14時
22日(月) 11時〜14時
29日(月) 11時〜14時

 

6月にする作業のこちら。

kurahate22.hatenablog.com

 

7月
主な作業 草刈り 夏野菜のケア 人参種まきなど
6日(月)
13日(月)
20日(月)
27日(月)

 

8月
主な作業 夏野菜のケアと冬野菜の準備
3日(月)
10日(月)
17日(月)
24日(月)
31日(月)

 

9月
主な作業 ダイコン種まき ハクサイ・キャベツ定植など
7日(月)
14日(月)
21日(月)
28日(月)

 

10月
主な作業 夏野菜の整理 ニンニク植えつけなど
5日(月)
12日(月)
19日(月)
26日(月)

 

11月
主な作業 エンドウ種まきなど
9日(月)
16日(月)
23日(月)
30日(月)

※12月〜3月はなし(の予定)。