降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

hanare×Social Kitchen 田中美帆「おどりが方向を変える時」へ

最寄りのカフェ、ソーシャルキッチンにてDIY読書会にもきてもらっていた田中美帆さんの個展「おどりが方向を変える時」がはじまったので行ってきました。

 

hanareproject.net


「おどり」は田中さんが飼育されている文鳥の名前でもあるとのこと。タイトルからは、他者である自律的なものへの田中さんの応答の姿勢や信頼が感じられる気がしました。

 

会場では膨大な数の日常の記録が展示されていました。それらはそれぞれの「時間」であるのだと思いました。時間とは生きて動いているプロセス、自律的なプロセスであると思っています。

 

たとえ自分であってもそれぞれの他者である自律的なプロセスを自分という既知のものに回収することは越権的なことであるし、そこにあったものの声を無いものにすることなのではないかと思います。

 

自分が書いたものを10年以上たってから読むことがありました。その時はっきり思ったのは、もはや自分はこの時の自分ではないということでした。当時の気持ちや状態を今の自分が理解することはできないし、そうすることは間違いであると思いました。そこにいるのは他人であり、それは今の自分に回収することで歪められ、矮小化されてしまうと思いました。

 

展示におけるそれぞれの記録がそれぞれの時間をもち、他者としての声を持っていると思いました。そしてそれらの声は、今の自分がそれらを都合のいい解釈でまとめることに異議を唱えていると思いました。

 

記録とは何なのか。アーカイブという言葉も最近聞くけれど何なのだろうか。

 

先日、知人がロマの建築をアーカイブとしてみるという発表をしていたので行ってきました。ロマの人々(と言っても様々な人たちがいて一括りにはできないのですが。)は定住せず、移動を主としており、そのために深刻な迫害や差別を受けてきました。そのロマの人たちが家の全面だけ豪華な家を建てていたりとか、家としての持続を目的としていないような、奇妙な家を建てているということでした。

 

移動を主体とする狩猟採集民的な感性と定住を前提する農耕民的な感性が混ざり合った奇妙な表現。同じ家に色々な文化がごった混ぜだったりする豪華な家は、ステータスの顕示といった面があるそうです。そして彼らに共通する部分は、苛烈な人間性の侵害を受けた経験があることだったとか。

 

当時は強制労働はもとより、子どもに親を強姦させる強要をしたりするなど、聞くに堪えない非人間的暴虐を受けてきた彼らが、その反動として、持続的側面を前提としていない豪華な建築という「花火」をあげているのではないかと思いました。発表者のまとめとは違うかもしれませんが、僕はこれは彼らの弾圧のアーカイブなのだと思いました。

 

僕がアーカイブという言葉がよくわからなかったのは、都合の悪いことはなかったことにする国のような現秩序にとって、都合の悪い情報が排除された「正しい歴史」として歴史が一貫性を持って残されるよりはマシであっても、結局は力をもった「有識者」や「専門家」が主体となり、整理して保存や記録がされるのなら、人々はまた、フレイレのいう沈黙の文化の享受者として、正しい解釈を受動的に取り込むことになってしまうのではないかと思ったからです。人が学び、人間になっていくにあたって重要なことは、自分で考え、感じて、自分として世界に対し必要な応答をしていくことであるのに。

 

権力は単体において健全性を維持できないということで、国における三権分立がありますが、一つの組織や業界自体にはその権力の健全性を保つ力はないのだと思えます。いや、そうではないと多くの人が言うのかもしれませんが、みている限りではやっぱりなさそうにみえます。(そこにも近代の「自立した個人」という神話が働いているような気がしますが。)

 

ともあれ、その研究会の後、アーカイブについて周りの人と話したりして、腑に落ちたことがありました。僕が想定していた、専門家や有識者(とその業界の権益の維持拡張)によって歴史が整理され提示されるものではないアーカイブです。

 

これはもちろん自分のなかで勝手にそういう思考の過程があったということで、そういうことはもう常識として議論されて終わっているのかもしれませんが。

 

ロマの発表のなかで、発表者のフィールドワーク中のエピソードにとても深い示唆をくれるものがありました。

 

あるロマの人に先祖のことをたずねたとき、その人は地面に石を置いて先祖を思い出して語ってくれたそうです。系統図を逆からたどるように、自分の親がいて、その兄弟がいて、またその親がいてというふうに、一人一人の場所に石を置いていきます。そうすることによって、連鎖的に記憶がたどれるのですね。

 

一つの石を置くことによって、その石の周辺の記憶が戻ってきます。逆からみると、石を置く前の日常ではその記憶は想起されません。仏壇が日常にあって常に死者が想起される暮らしとは違う、「打算と記憶を拒絶する(グレーバー)」狩猟採集民的な心理世界がありそうです。日常では死者は想起されないのです。石によって想起の位相が変えられ、それでようやく記憶にアクセスできるのです。

 

(もちろんどちらがいいかという話しではないですが、農耕民が安定への強迫に苛まれる必然のもとに暮らしているのに比較すると、狩猟採集民は明日への強迫を無化することにたけた文化をもっているようです。)

 

僕は自分にとって腑に落ちるアーカイブとは一つ一つ置かれていくこの石のようなものだと思いました。一つ一つの石は、記憶を立ち上がらせる「場」でもあります。場を立ち上がらせる力、場にアクセスできる力がそれぞれの人にシェアされていることが、多くの人を誰かにとって都合のいい、ひとまとまりの「大衆」にされないことにつながると思うのです。

 

場を立ち上がらせる力、場にアクセスできる力を奪われた人はあたかも収容所に閉じ込められたように、自分を無力に感じ、周りの圧力に弱くなります。自分で考える力、状況を更新していく力を奪われ、強いものに頭も体も降伏してしまいます。

 

一方で、閉じた価値観に支配されている場、収容所のような環境におかれても、場の力を立ち上がらせる手がかりをもっているならば、その人は身も心も強いものの価値観に支配されてしまうことに抗うことができるのだと思います。

 

そして社会という外的な環境だけでなく、自分という内的な環境があります。内的な環境においても、外の社会と同じような力が働いています。自分の底にある深い痛みや苦しみを感じないように、自分を無感覚にしていこうとする力です。

 

自分とはこういうものだと割り切り、信じこんでしまえば、自分という感性の更新および自他への応答性と引き換えに、感じたくないことに対して無思考で無感覚になれる強い殻を身につけることができます。

 

誰しもが生きるために殻を強く厚くしていくのは仕方のないことでもあります。しかし、そんな「修羅」の世界においても、なお無感覚の殻に自分を包むことに反逆している人たちもいるように思います。

 

自分が自分であった場所に戻ってこれるように、その人たちはロマのように「石」をおいているのだと思います。その「石」はそれを置いた人たちだけではなく、(もしその人が戻ることを求めるならば)誰にとっても元に戻るための手がかりになるものです。お金をもらうわけでもなく、世界に「石」を置いている人たちがいます。

 

田中さんが書かれた文章に、「あらゆる資料を均質にアーカイブするのではなくて、自分が必要な時に必要な解像度・かたちで引き出せるようにアーカイブする」というくだりがありました。深く納得しました。まさにそのことが重要なのだと思いました。

 

自分だけでは何を考えようとも新しいものを見つけることはできないといつも実感します。自分以外の誰かがその人の感性でとらえ、表現したことを受け取って、ようやく終わらないメリーゴーランドのように閉じた風景しか見れない自分から出られる手がかりがもらえます。

 

展示されていたものは、田中さんが田中さんとして生き残るための数えきれない試行であり、それは同時に自分自身でその試行をすることが叶わなかった人たちの代わりに「償われたもの」ともいえるのではないかと思います。一つになっていこうとする「歴史」に対して、たわいもなく消えていくはずだったそれぞれの声はそれを簡単には許さない力をもっていました。それぞれの声が場を立ち上げたとき、そこには今まで現れなかった新しい流れが生まれてくるように思います。

4つ目の窓 植松被告の死刑判決によせて

植松被告の死刑判決。

 

ふとジョハリの窓が気になった。ジョハリの窓は格子に区切られた4つの自分を表したもので、自分も他人も知っている自分、自分は知っているが他人は知らない自分、自分は知らないが他人は知っている自分、自分も他人も知らない自分の4つがあるというもの。

 

ja.wikipedia.org

 

どういうものだったかと思ってネットを見ると、ジョセフ・ルフトとハリ・インガムの二人の名前を合わせてジョハリだとあった。

 

最後の、自分も他人も知らない自分という領域が気になったのだった。自分も他人も知らない部分、この4つ目の窓を、この格子の図を作った人たちはどう位置づけていたのかと、ちょっと確認したかった。残念ながらwikiではそこについてはほぼ言及はなかったけれど。

 

一般に、ある人がどんな人であるかにおいて、自分も他人も知らない4つ目の窓の存在が仮定されることはないと思う。他の3つの窓で認識されていて、それ以外があるとは思われていない。思うこともできない。

 

知らない部分は知った途端に知られた領域になるから、知られない部分があとどれぐらい狭いのか、あるいは広大なのかもわからない。しかし、この4つ目の領域の存在の仮定を、自分に対しても、他人に対してもどれだけ持ちうるかで、間違いを犯す存在である自分、そして同じく他人に対しての態度が変わってくるだろうと思う。

 

もしこの4つ目の窓を自分に対して仮定できるなら、その人はより自分を受け止めることができるようになるだろうと思う。また、他人に対しても、自分もその人も知らない4つ目の窓をその人が持っていると仮定できるならば、その人に対して人は謙虚になれるのではないかと思う。

 

4つ目の窓をどれだけ仮定できるかが、人が人として育っていくためにどれだけ必要なことだろうかと思う。3つの窓だけをもって、自分を、あるいはその人を知ったということは傲慢にすぎることだろうと思う。人間の価値を人間が決められるだろうか。たとえ国であれ、誰かの価値を決めることができるだろうか。

 

しかし、人が追い詰められるとき、人は3つの窓だけで生きるようになるのだろう。そしてそこには自分に対する絶望も含むまれるだろう。自分とは所詮知ることができた自分、他人が知っている自分に過ぎないのだと。

 

現代の「合理性」、「効率性」というものは、3つの窓のことだということをよく認識する必要があると思う。4つ目の窓をふくめてはじめて、そこには全体があらわれるはずだ。

 

4つ目の窓をふくめてはじめて、あることは「合理的だ」「効率的だ」と判断できるのであって、3つの窓から知った「合理性」や「効率性」は偏っており、もし厳密に判定するならば「間違い」であるはずだ。

 

現代は、人に4つ目の窓を仮定することを失った時代なのだろうか。知っているものを全てだと思い、その「合理性」をどこまでもおしひろげていこうとする社会は、人間的な社会であるだろうか。そんなところで、人間が人間になっていけるだろうか。

 

既知のものが全てであるかのように、ゆがんで思考し、認識してしまう人間には、その無自覚な認識の歪みと暴走性をふまえた人間観が必要なのだと思う。

 

人はごく自然に、自分に出来上がった認識を疑えなくなっていく傾向がある。強く意識して、ニュートラルな視点にとどまっていられるという認識がそもそもの間違いなのだけれど、それを認めることがなかなかできない。

 

自分が足を踏んだ他者や、抑圧されている他者から自分に向けられる声を、おかしなもの、ゆがんだものとして受け取ってしまう。別のことには見識がある人が、まるで聞かん坊になったように、あるいは相手を理性のない子ども扱いしたりする。

 

自分が正しいという歪んだ認識は、誰にも厳然として存在する。痛みをもって声をあげた人がモンスターに感じられ、自分は不当なことをされる被害者のように感じられる。理性には限界があることを知らなければならない。自分がもともと歪んだ認識をもってしまっていることが前提されなければ、現実的にはなれない。

 

僕は、人間は自分も他人も知らない自分、あるいは他人という4つ目をあらかじめ踏まえるものとして、あらかじめもった罪という考え方は機能的であると思う。

 

僕はキリスト者ではないけれど、知ることができない4つ目の窓を仮定するためには、誰もがあらかじめもっている罪という、自分を振り返り、暴走をさせないための認識の装置をもつことが非人間化していく社会において有効なのではないかと思う。

 

歪んだ認識をもった個人として、それにもかかわらず自分が人間になっていくためにも、あらかじめもっている罪という捉え方が有効なのではないかと思う。

プリズン・サークルとラップのワークショップ 心と表現の連動 乖離を埋めていくもの

プリズン・サークルの坂上香監督がラップのワークショップについて公開投稿されていました。

 

www.facebook.com

 

3/8、プリズン・サークル x ラップワークショップ@横浜黄金町から、感動醒めやらず。昨晩は、ラップで、しかも初対面の人ばかりでサンクチュアリを作れた感あり。ラップ聞いたことない人から、ラップ体験者まで、中学生〜72歳の老若男女、様々なアイデンティティや背景を持つ20人によるラップとその共有を通して。言葉とリズムでなんとかやり抜く、その姿勢が面白い。ブースから溢れ聴こえる参加者のラップに鼓舞され、心が激しく揺れ、涙が溢れる。えいやっとブースに入って自分の書いたラップを読み始めたら、自然にヒートアップ。ラッパーのFuniさん、褒め上手。ラッパー証書をもらって、皆一人前のラッパーに。証書にあるillは病気という意味だけど、逆手にとって、カッコいいの意味。第二弾やろうと参加者たちから声あがる。またどこかでYeah〜! PSそれにしても映画館の下の階にイベントスペース(ArtLabOva)があるって理想的。トークバック 時のTシャツワークショップに続いて第2段だったのだけれど、映画を見た後に直行できて、皆の顔が見えて、焼き立てのポンデケージョやソーセージも巡回販売されて(おいしかった!)、ちゃんと換気もされていて、最高の環境。

 

 

 

 

3年続いているDIY読書会では、それぞれの人が勝手に自分の発表したいことや本を持ち寄って発表しています。この会が続いていくなかで人にも伝えたいと思うことは、その人が一番面白いと思っていること、自分の状態がまさにその探究の過程にあることは、周りの人にとっても面白いということです。

 

僕は、知識や経験やステータスなど関係なく、その人が何よりも深く関心をもってそこに向かうとき、その人は「時代をこえた存在」になっていると思います。どこかの知識人やオピニオンリーダーが新しい考え方や「事実」を発見して紹介しないと一般の人の思考や認識は更新されないのではないと感じています。時代の古い捉え方をこえるものは、その人が自分でもわからない動機によって動かされるているときの、その「状態」から生まれてきているように思えます。

 

そのように思うようになって、ではなぜ新しいものが個々人から生まれているのに、世間の変化はまるで時間が止まったように遅々としているようなのかと考えます。個々で生まれたものが世間の認識にあまり影響しないまま泡のようにただ消えていくのはなぜなのか。そして、どのようなあり方がその状況を変えうるのかを考えています。

 

映画プリズン・サークルのなかでは、幼少期から言葉に尽くせぬ苦しい環境に置かれ、やがて大人になり罪を犯した受刑者たちの回復の過程が描かれています。

 

自分ではもはや抱えきれない苦しみを与えられた人は、自分の感じる心を乖離させることによって、そしてその乖離を維持することによって生き延びようとする状態になってしまいます。この乖離は自動的であり、本人の意図的操作によるものではありません。ですので、本人は自分がなぜ今の自分のような状態になっているのかはわからないのです。

 

心理的・身体的に安全な場を保証され、自分の感じていることを表現することをだんだんに繰り返すことで、自分の心と自分の思考の乖離は埋まっていきます。すると、その人のなかに、自分でも知らなかった新しい感情や状態が生まれてきます。その感情や状態にまた応答していくことによって、回復はすすんでいきます。

 

そして回復がすすんだとき、その人はなぜ自分がかつてのようだったのか、自分の状態がどのような状態であるのかが、ようやくに実感し、認識できるようになるのです。

 

ただこの過程は受刑者のみにあてはまることではないと思います。僕の認識では、この社会の一般の人はそのような心理的な安全と感じる場所をもっておらず、受刑者が自分の状態を知らないように、「自分以前」にされていることにも気づけないままに社会から放置されていると思います。

 

その人の時間を止め、その人を「その人以前」の状態にし、本来変わっていくものを「昔のまま」の状態にとどめるのは、乖離の結果によるようです。周りの環境が心理的に危険だと感じるならば、その人の自然な気持ちは自動的に抑圧され、乖離状態は維持されるか、あるいは進んでしまうことさえあると思います。

 

自分が安全だと感じられる場で、自分の気持ち、感じていることを周りの人に表現することは、自分の心に対して応答することです。そのことによって心は息吹を回復させます。その息吹、心の呼吸に必要なことをまた自分に与えること(それがつまり応答ということになります。)によって、心の呼吸は力強くなり、よって自律的になっていきます。これが乖離からの回復です。乖離からの回復とは生きたものとしての心の呼吸を回復させることです。

 

では、心の呼吸をより回復していくために重要なことは何でしょうか。それは心の動きのありようによりフィットした表現の媒体であると思います。

 

今日、自分のシェアハウスの大家さんと話していて、宮城県大崎市では「話しあい」というキーワードが市民の間から生まれており、そこでは条文なども書き言葉ではなく、話し言葉で書かれるようになったと聞きました。この書き言葉から話し言葉への変化は、まさに心と思考の乖離を埋めていくことの重要性を市民が理解していることを示すものだと思いました。

 

書き言葉には書き言葉の良さがありますが、心や気持ちがその言葉の上にのりにくいところがあります。別の言い方をすれば、書き言葉とは生きている自分の状態とより距離をとる言葉であるのだと思います。しかし、自分の心や状態と距離をとることは、同時にその書かれているもの自体との心理的距離をひろげます。自分ではないもの、自分と関わりのないようなものとして感じてしまうのです。

 

一方、自分の気持ちと表現を連動させることは、周りの人や社会に対する感じ方を変えます。周りの人や社会はより自分に近しいものとして感じられ、そこに自分が関われるものとして感じられます。また単に自分以外の対象に近しさを感じるというだけではなく、そこにおいて自分自身の時間が動き、自分が変わっていくのです。

 

書き言葉を話し言葉に変えるように、たとえば同じ言葉を発することにおいても、詩というかたち、朗読というかたち、歌というかたちでも違います。

 

しかし多くの「一般の人」は朗読したり、自分で詩を書いて発表したり、自分の歌を作ったりしません。それらは多くの場合、専門家やプロのものであり、素人が「上手」でないものを作るとバカにされてしまいます。(もし未来の社会があれば、このようなことは昔の社会の文化度の低さ、未成熟の典型例とみなされるんじゃないかなと思いますが。)

 

パウロフレイレは、多くの人が主体を奪われ、受動的な観客にされてしまう文化を沈黙の文化とよんでいます。この社会はいまだに沈黙の文化に呑み込まれているのだと思いますが、この沈黙の文化の何よりもの人間疎外(人間をダメにしてまうこと)は、人々が自由に自分にフィットした表現媒体をつかって、自分と世界の関係性を変え、自分自身の時間を動かしていくことを止めることだと思います。

人々のなかから生まれてきた表現形態があっという間に「プロ」に囲い込まれ、人々のものとしての表現形態から奪われることは非常に大きな問題です。なぜならそのことによって、人々の思考の更新は止まり、自分の感じ方を更新していく心の呼吸も抑えられてしまうからです。

 

しかし、心ある人たちによって、「プロ」のもの、「専門家」のものとして存在しているものや、現在進行形で囲い込まれていく表現を人々にとりもどす動きもあるようです。ラップのことはあまり知らないのですが、既存の囲い込まれた形式の歌や音楽を、自分たちに取り戻したところからはじまっているところが強くある分野なのだろうなと思います。

 

歌と朗読の中間のような、メロディーを作らなくていいようなところ、
普通の人の感性を言葉として表現できるところなど、それまでにあった音楽の形式のハードルを壊して、今まで社会から表現をする場を持たせてもらえなかった人たちの舞台をひろげているのだと思います。

 

表現が専門家やプロだけのものとされ、人々の表現が貶められ、人々が自律的な主体となっていくことが止められる「沈黙の文化」の社会において、人々が本来的に持っていた自分の力や人間性を回復していくときに必要なことは、自分の心と表現を連動させていくことだと思います。

 

そして、自分の心と表現を連動させていくにあたって非常に重要なことは、より自分にフィットし、心が呼吸をはじめる表現媒体を用いることだと思います。人々の間から生まれたものが囲い込みをされ、人々から奪われていく社会のなかで、私たちができることは、心と表現を連動させる媒体を一つでも多く自分たちに取り戻し、あるいはラップが発明されたように、自由に、直接につくりだしていくことであると思います。

 

自分の時間や社会の時間を止めている乖離を埋めていくこと。そのために自分の心と表現を直接に連動させること。そのためにフィットした表現媒体を選び、あるいはつくりだしていくこと。このことによって、力や自信を失っていた人々は、本来の力を取り戻していくことができるのではないでしょうか。

 

そしてそれに付け加えるなら、大きな社会を一斉に変えようとすることができなくても、自分たちでちいさな活動の場、表現の場をつくることができます。そんなものに意味はない、結局は社会を変えないと言う人もいるかもしれませんが、ちいさなサークルのなかで、人が自分を取り戻たり、回復していくなら、数ではなく、その変容の「質」が周りの人を変えていくように思います。

 

人間的な、応答的な環境をもつちいさなサークルのなかで進む時間は、世間の時間とは進み方も違い、その時間の質も違います。大きな仕組みをすぐに変えられないことで諦める必要はないと思います。大きな仕組みや社会の変化は、個々人の質的な変容と関わっていると思います。大きな力の動き、時代の流れは、人が意図して直接に行使されるものであるよりも、派生的に生まれてきたものであることが多いのではないかと思います。

償い(atonement)とは、ともにある(at one with)こと

映画「プリズン・サークル」の坂上監督が雑誌『世界』で連載されているとのことで書店に並んでいた『世界』の3月号と4月号をとりあえずもらう。

 

www.iwanami.co.jp

 

3月号にはTC(回復共同体)の実践を行なっている非営利団体アミティの代表のインタビューもあった。そのなかで特に印象に残ったのが、罪の償いについて。

 

償いとは英語でatonementなのだけど、その語を分解するとat one with(ともにあること)となり、加害者が被害者のことを理解しているとは、自分が与えた痛みとat one with(ともにある)ことなのだという。

 

一般には、罪や痛みが消えてしまうことは「いいこと」だと思われている。しかし、僕は緒方正人さんの言葉をみて以来、別のように思うようになった。

 

現状のように少数の人だけが罪を被り、罪責感を感じるのがいびつなのであり、むしろ世界が健康になるためには万人が自分が遠ざけた罪、忘れた罪の痛みをとりもどすことが必要なのではないかと思う。

 

坂上監督が最初にトークバックの演劇の現場に行った時、そこで演者と観客のやりとりに衝撃を受けたという。富裕層らしき女性が、「(こんな演劇やったとしても)あなたたちは結局罪人じゃないの。自分の罪についてはどう思っているの?」と。

 

それに対して演者の一人が、「自分は3歳の時に雪の日に裸で木に縛りつけられていた。その自分をあなたは救ってくれたのか?」と返した。

 

その富裕層の言動は、のうのうと暮らして社会の歪みを見ようとも助けようともしない人の典型的な語りだった。自分の暮らしが人をどのように踏みつけにした構造のうえで成り立っているのかに無自覚なその語りに対しての返事は見事に本質をついたものだと思う。

 

罪は忘れられるものではなく、痛みとして取り戻されるものだ。それは人間でいなくなっていたものが、人間にもどることだ。

 

責任から応答へ。責任とは「ここだけをやったらいい」という限定であり、つまりは無責任な領域を作る行為だ。「環境問題」とは、それまでの個人、企業、国などの責任のシステムでは処理できなかったものが行き場なく投げ込まれた分野だという。

 

一者だけで完結する「責任」とは違い、「応答」はまるごとの世界と自分が本来的に一体であり、響きあう存在同士であることが前提となっている。そこには相手のことを「自己責任」と切り捨てず自分につながることとして引き受ける態度がある。

 

緒方正人さんの言葉を最後に紹介したい。緒方さんは責任という幻想からの自由、そして痛みにうたれて生きることを提示する。それはアミティの代表が償い(atonement)をともにあること(at one with)であると言ったこととも深くつながっていると思う。

 

「罪は普通、否定的なものとしてしか見られていないでしょう。でも俺はもっと肯定的に、我々の誰もが背負っているし、またこれからも背負っていくものだと思っている。責任がとれるという幻想から自由に、いわば責任がとれないという現実に向き合って生きる。罪に向き合って生きる。責任がとれないということの痛みにうたれて生きる。」緒方正人『常世の舟を漕ぎて』

波風に応答する社会へ

昨日はDIY読書会。

 

酒井隆史『暴力の哲学』の発表からは、一見すると非暴力で治安がいいような社会のようにみえても、実態は強い弾圧や抑圧が存在する社会の状態は「擬似非暴力状態」であるという視点の紹介があった。

 

平和学における消極的平和と積極的平和の違いとも通じるところがあるのだろう。消極的平和とは、直接的暴力は少ないが、貧困や差別、格差による「構造的暴力」が存在している状態。一方、積極的平和とは、戦争の原因となるこの「構造的暴力」がない状態だとされる。(日本ではこの「積極的平和」は首相が軍事的な力を積極的に行使してつくる平和という意味で使用したため、その誤った意味のほうが一般的かもしれない。)

 

発表のなかではっとしたのは、次のくだりだった。

 

→「波風も立てられない状態」を肯定することと、非暴力との混同が擬似非暴力状態を強化する

 

波風を立てないことはここの社会においては、とても重きが置かれると思う。波風とは悪いことであり、周りの人に迷惑をかけることなのだと。しかし、そのことによって、いびつな構造的暴力が維持されている。その場で強いものが幅をきかせ、誰かを踏みつけ、しわ寄せを引き受けさせている状況がありとあらゆるところで見受けられる。

 

しかし、そのことに異議を唱えるときも、波風を立てることが周りにも影響を与える悪いことなので、周りから止められたりもする。自分が我慢すれば周りに迷惑をかけなくて住むのだ、と思いこまされる。すると、いびつな構造は維持されたままになってしまう。

 

発想を転換する必要があると思う。実際はここの社会における個々人は、波風「も」立てられない状態にあるのだと。波風「を」立てるかどうかで抑圧される社会は既に多様性を拒否している社会だ。波風は当然おこるもの。そして波風こそが社会環境を変えていくものだろう。

 

海外の労働力に依存するしかないこの社会環境で、これからはより違う文化の人たちと共に暮らしをつくることになっていく。その時に、波風がおこらないはずがない。そして「波風を立てる人」を問題にする社会とは、単に抑圧的な社会だったのだということがあらわになるだろう。

 

波風「も」立てられない個々人にされているこの社会、この世間は、そろそろ終わりにしていってもいいのではないかと思う。今、私たちは波風も立てられないのが「普通」の社会環境にいる。波風は抑圧的なものが変えられていく時に必要なもの。古い「常識」を変えていくもの。波風はいびつな構造的暴力に干渉していくもの。波風を応援していく。人として波風に応答していく。そのことによって社会は更新されていくのだと思う。

ジャンル難民発表会 発表原稿 生きることの当事者研究

<プレ発表で以前に投稿したものに加筆したものです。>

→3/2再度編集しなおしました。

 

◇なぜ「生きることの当事者研究」か?

生の主体性の取り戻しと「苦労の社会化」が環境を新生させる


 当事者研究は、社会福祉法人浦河べてるの家からはじまったもので、専門家に解決を委ねていた自分の「苦労」の仕組みを自分自身で「研究」し、周りの人たちに「研究発表」するものです。専門家である精神科医に診断名をつけられ、指示に従う受動的存在にされていた精神障害者の人たちが当事者研究に取り組むことは、自らの生の主体性を回復させる営みでした。当事者研究においては、精神障害者が専門家が提示する正しさに一方的に従う受動的な存在にさせられてしまうこと自体が、人間の疎外であり、回復の疎外であるという理解があります。また当事者研究は単に個人を変えていくだけでなく、周囲の人たちもまた変えていくところに大きな特長があります。当事者研究において、個人のものとして閉ざされていた「苦労」が周りの人たちに伝わると、発表者は周りの人にとって異質で理解不能な、「わたしたち」の世界の外にいた存在だったところから、「わたしたち」の世界の一員、「わたしたち」の隣人になっていきます。当事者研究においては、そのような「苦労の社会化」のプロセスを通して、個人とその周囲の人の認識が共に更新され、有機的な新しい関係性が新生していきます。当事者研究精神障害者のコミュニティから始まりましたが、現在は福祉の支援者の立場をもつ人たちの当事者研究や子どもの当事者研究なども行われており、様々な分野の「当事者」による研究が実践されています。

 

個人が適応することが求められる「社会」の側ははたして本当に健全なのか

 さて、当事者研究が様々な分野において行われるようになったことは素晴らしいことだと思うのですが、僕個人としては、個々の当事者研究が各々の分野に限定されるだけでは足りないのではないかという問題意識があります。既存の精神医療から個々の人たちが奪われた主体性を取り戻していった結果、回復がおこったとしても、次は金銭収入を得るための仕事の話しなり、より「社会適応」していくなりが求められてきます。しかし、その社会自体がいびつであったならば「社会適応」とは一体なんなのでしょうか。社会のほとんどの場所(たとえば国連などであっても。)では、強いものが自分の権益を維持したり拡大するためのパワーゲームに明け暮れており、そのパワーゲームが社会を動かしています。一方、市井の人々は良心的かというと、地域では保育園や薬物依存症者の回復施設に反対運動がおこるなど、市民の矜持のようなものは最近にちかづくにつれ、より融解していっています。

 

一分野のなかに収まる「当事者研究」では足りない

 このような状況において、単に「社会適応」が難しい自分の「苦労」だけを問うだけでは足りないのではないかと思うのです。そうでないと、精神医療の支配の枠組みから個人が主体性を取り戻したとしても、それよりややマシなだけの、別の支配の枠組みに入れられて生を送るだけなのではないでしょうか。なぜ社会がこのようになっているのか、そもそも生きることとはどういうことなのかの理解を、それが得意な「専門家」にまかせていた結果が、現在の社会を構成し、人々をより非応答的存在にしていったのではないでしょうか。

 

当事者研究として、生きることにかかわる全て(世界)と自分との切れたつながりをもどす

 しかし、その問題意識があっても、私は大学の研究者として、膨大な資料を扱えるほど能力も体力もありません。しかも大学の研究者は、まともな人なら自分の一分野だけで定年までかかりっきりにならなければならないほどのもののようなので、自分の必要にはあいません。100年後の社会を変えていくためではなく、自分の今の生を変えていくため、既存の社会制度に生きることを支配されている状況から逸脱し、自分の生を取り戻していく探究が私には必要なのです。アカデミズムではないあり方で、世界や社会、人間、回復とは何かを探っていくことを、生きることの当事者研究と呼べないかと思います。生きることの当事者研究を通して、人は社会によって内面化された古い秩序を更新し、この社会という沼の下から頭一つ抜けだして、世界の風景を自分の目でみることができるのではないでしょうか。

 

必要な逸脱を成し遂げていくものとしての「野生の思考」  

 生きることの当事者研究の目的は、万人が一斉にそれに向かい勉強する(そのこと自体がいびつですが。)教科書を作ることでも、普遍的真実を理解するためでもありません。生きることの当事者研究の意義は、自分のわかる範囲で、自分がそうだと思っている世界の認識を更新していくことです。宇宙のことなど自分にはわからない、外国のことなど、資本主義のことなど自分にはわからない、専門家に教えを乞わなければならないとあらかじめ排除するのではなく、まずは自分の知っていることで世界とはこういうものではないかと再認識したうえで探究をはじめ、より実際に即した世界観に更新していくために、宇宙だろうが経済だろうが、触れられるもの、取り入れられるものは何でも使っていくのです。何の専門家でなくても、メディアの発達によって世界の様々な情報や事例を得られるようになった現在においては、夭折したSF作家伊藤計劃のあり方がそうであったように、個々人は既存の社会から押しつけられたものではない認識を練り上げていくことができるように思います。それは文化人類学レヴィ=ストロースなら「野生の思考」とよぶものかと思います。人々は、「教育水準」の高い国々の人から教えてもらったり、本を寄付してもらわなくても、自分たちの周りのあり合わせの情報や体験、思想を自分なりに組み合わせ、コラージュしていくことで、自分自身の認識の枠組みを更新し、生きていく必要に応じて、時代をこえた思考をすることができるのだと思います。

 

◇生きることの当事者研究 発表
今がどんな社会なのか。そのなかで何がおこっているのか。

 資本主義経済が世界各地で行ったことは自給経済の破壊でした。それぞれの場で成り立っていた暮らしを成り立たなくさせ、お金に依存させます。そして自分たちで生きていく力を奪って、搾取的な仕事に従事させるのです。それぞれの自給経済においては、人々はエネルギー、食物、水、周りの自然環境など、それぞれの人が関わりをもち、調整をする存在でした。それはいわば、人々は自分の生きる世界のまるごとに対して応答する存在だったのです。お金を一手に集中させ、富と権力を得ようとする人たちにとっては、そのように人々が自分の生きること全体に関わり、調整し、応答する(そのことによって人々は意識的でなくても、結果的に自分の主体性と世界との応答性を保っていたのだと思います。)社会は不都合でした。彼らにとって社会は、様々な場所から自分という一箇所にお金が集まってくるように、再構成され、画一化されるべきものだったのです。

 

内面化した抑圧という問題

 それならば人々が集まってそのような体制を打開すればいいではないかと思われるかもしれませんがなかなかそのようにはいかないようです。パウロフレイレは、抑圧者(人々を支配し搾取する権力者)と被抑圧者についての分析を行なっていますが、抑圧されている人は単に肉体的に抑圧されているだけでなく、抑圧者の価値観を自分自身に内面化しており、そのままでは自分が権力者に成りかわろうとするだけだったり、権力者が持っているものを自分個人が欲しがるだけなのです。フレイレは、自分が埋没している世界を一旦距離をとって再認識し、自分自身の抑圧状況を認め、そこから解放されることが必要であると指摘してます。内面化した抑圧から解放されることが必要なのです。それは一斉教育で教えこめるようなことではなく、一人一人が自分の解放を行なっていくことが必要です。

 

賽の河原現象 得られた知見や実践が蓄積されず消えていく社会

 フレイレは独自の識字教育や人々が自らが暮らす世界をフィールドワークすることなどを通して、人々に内面化された抑圧を解放する取り組みを行い、多くの知見を残しましたが、私はフレイレの分析をここ3、4年ぐらいで知り、大変驚きました。何に驚いたかというと、抑圧の内面化などの50年前のフレイレの知見の蓄積は自分の周りでは全く共有されていないし、ネットなどSNS上においてもまるで踏まえられていないのです。三途の川には賽の河原というのがあります。そこでは石を積んでも積んでも石が崩れてしまうのです。あたかもその賽の河原のように、せっかく分析された知見がまるでなかったようになっており、それで昔に議論されて確かめられたことをまた一から議論しはじめたりしているのです。

 

 まるで馬鹿げた状況です。僕はそれまでこう思っていました。昔に発見されたことは国や大学などに踏まえられ、知見はその上に積み上げられてくるものだと。しかし、実際は、抑圧の内面化が問題であり、それをどう解放していくかなどという視点を持った人、実践をしている人が私には見当たらないのです。社会では、発見されたことなどなかったことにされているようです。それはフレイレについてのことだけでなく、林竹二、大村はまなどの教育の実践者においても同様でした。資料としては残っていても、実践としては蓄積はほぼ皆無であり、むしろ当時より後退しているような現状なのです。

 ネット用語ではフィルターバブルという言葉があります。検索エンジンで検索すれば世界の様々な情報が集まるように思えて、実際は複数検索されたものや個人情報などから、アルゴリズムが勝手に自分が見たい情報を選んで表示しているので、いわば自分の外側の観点のものに触れられず、泡の中に閉じ込められるように自分は孤立し、自分の外にあるものに触れる機会をあらかじめ奪われているのです。ネットでもそうですが、蓄積された知見がなかったことにされる賽の河原現象がおこる理由は、オフラインの社会でもそのようなことがおこっているのかと推測するしかありませんでした。このような状況において、自分が現状から抜け出ていこうと思うなら、直接に自分がどこかに探しにいき、調べて見つけていくしかないのではないかと思います。

 

パワーゲームとしての実態を持っている社会
 なぜ発見された知見は無視されたり、なかったもののようにされているのか。たとえば北欧では薬物依存症者を罰しないことで回復がはやまるのでそのような実践がされていますが、日本ではそれは全く実行されていません。知識人は知っていても、社会には反映されないのです。正しいことだからやったらいい、では社会は変わらないようです。その理由が個々人が既得権益のパワーゲームをやっているのがこの社会だからというところにあるように思えます。どんな正しいことでも、自分のパワーゲームに不利ならば、強いものは受け入れないのです。ドラえもんジャイアンのような存在がいれば、人の声を打ち消す声の大きい人がいれば、環境は昔と変わらないばかりか、もっと後退的にもなるのです。人権という概念が昔からあるからといって、過酷な労働と人権侵害を横行させる企業がなくなるわけでも、この先生まれないわけでもないのです。世界経済フォーラムの調査では、日本の男女格差は2017年の調査では良いほうから114位であり、その結果はその前の調査の103位よりなお落ちています。

 

 この調査に偏りがあったり、この調査一つだけでは何も言えない(だから批判するな、お前のような素人が意見するな、というなら、事実上みんなが考えることを誰かにまかせ、現状を追認し、あと回しにするだけですよね。)のかもしれませんが、実感レベル、自分の周りを見たり聞いたりしただけでもう十分だと思うのです。専門家でないと意見を言ってはいけないというのは、今ある抑圧に申し立てする人を黙らせるのに良く使われる抑圧です。人は自分で考え、確かめ、そして認識や感覚を更新していかなければどんどんと無思考無批判になり、不満だけをためて非応答的存在になっていくのですから、個人が考えることに意味がないというふうな働きかけは環境全体を腐敗させるものです。また、「専門家のモラル」や「確かな情報しか伝えない」として、自分は専門外のことには意見しないというのも、自分が現在のポジションで高をくくれるから、社会の抑圧状況を無視できるからやっているわけで、あたかも知らないことは言わないと責任ある態度のように表明されますが、保身に汲々としているだけであるように思います。

 

パワーゲームにのらないものは相手にされない
 専門家が社会を支配する制度の批判については、イヴァン・イリイチが詳細に行なっています。しかし、イリイチがこういっているとか、ネット上でもまるで議論になったりしているのをみません。イリイチフレイレも、テストに出るような、何をやったかどんなことを言ったかは触れられていても、議論されるべきようなものとして取り上げられることはなく、放っておかれています。実際のところがどうなっているかはわかりませんが、現実の体制を抜本的に更新するような提案や意見、議論などは無視され、現状の抑圧やいびつさは前提の上で、手軽に取り入れられる改善策、うまくやる方法などがもてはやされます。推測するに、これもまたパワーゲームの結果なのだと思います。国であれ大学機関であれ、そこで行われているのはパワーゲームなのであり、良心的な、人間的なものがイレギュラーとしてあるのだけれど、それはあくまで傍流であり、減衰していくものであり、大勢のものにとっては強いものから分け前をどれだけ得るかが問題なのであり、パワーゲームと関係ないこと(つまりそれに関わるだけで事実上のマイナス)に意識をむける気は、よっぽどの変人か被抑圧者でもない限りないのではないかと思います。


◇私の当事者研究 精神と言葉について 

前置き
 社会が実態としてどうなっているのか、賽の河原現象に対する仮説など、これまで述べてきたことも私の当事者研究ですが、私はそもそもはこのような社会の分析よりは一人の人が変容していくのか、回復していくのかということを自分なりに確かめていくことを自分のライフワークとしていました。私は学部で臨床心理学、修士課程で文化人類学を学びましたが、どうやら私の求めるようなところにとっては、学問の世界で探究を続けることは迂遠すぎ、また方向もずれているように思いました。私は、生きている当事者、生きていく当事者として人間の変化とはどのようなものかを探る際には、学問的なところでも使われている言葉や概念は使い、それで足りないところは自分で考え、大胆に作業仮説をたて、日々のなかでそれを確かめていくといった、当事者としてのスタイル、持たぬものが探究していくためのスタイルを採用しました。最初で述べたことの繰り返しにもなりますが、当事者研究においては普遍的真実に到達することが目的ではなく、現状の世界認識を更新していくプロセスを自分自身におこすことが目的であり、プロセスを中心にすることに意義があります。かといってまるで見当違いのことや的外れなことを言っているつもりはありません。自分なりの探究によって位置づけしたことは、世間で流通している既存の言説を採用するよりも、生きづらさを感じる当事者にとっては、生きるための道具として機能すると考えています。あるいはこう考えていただいても構いません。すなわちここに書いたこと全体が探究を更にすすめるための「作業仮説」なのです。私は私の当事者研究をすすめるために大胆にあつらえた「作業仮説」をここで紹介しています。以下では、「精神」や「言葉」というものをどう位置づけ、どういう関係を持っていると考えれば、現実をより把握できるのか、また妥当な先行きを予見できるのかを考えました。

 

◇言葉をもった人間とはどういうものか

「精神」の位置づけと「言葉」との関係
 まず身体に血管がはりめぐらされ、そこで新陳代謝(更新)が行われているように、精神もまたチューブのようなものであり、そこに気が流れていると考えてみます。気はスピリチュアルなものというよりは、日常語で「気詰まり」「気まずさ」「気持ちよさ」「気のせい」などといわれるもので、大まかにとらえて心理的な感覚をともなうものとします。「気詰まり」という言葉においては、「気」が詰まったりするのですから、動いたり、流れているもののようです。身体に置いて血行がよい状態がいいように、精神においても気の流れる通路のなかにその流れを阻害する異物がないほうがいいようです。そして人間は精神においてその異物が最小化される状態=気の流れが最大化する状態を求めていると思われます。そして、異物の最たるものが「言葉」であるのだと思われます。

 

精神と言葉
 私が稽古している野口整体で「精神は忘却の過程である」という言葉に出会いました。野口整体の考え方では、血管のようである精神は、自身の管のうちにとどめる異物を消化(同化)しようとします。精神にとどまるものは、それが生体として必要であるから(たとえばネガティブな作用を引き起こすトラウマも生物が生き残るための機能が働いている結果として存在しています。)とどまっているということもあるのですが、異物が外在化されたり、身体化されることによって、とどめる必要がなくなることを精神は求めます。精神は忘却を求めているとも言えるかと思います。

 

 私の解釈ですが、精神にとって重要なのは気の流れの最適性化であり、そこには言葉さえ不要であるようだと思います。プロメテウスの神話において、火(意識=言葉という鏡に写ったものをとらえるもの)の獲得の結果、プロメテウスは岩山にはりつけられ、毎日内臓をワシに食べられます。しかし内臓は毎日復活するので、プロメテウスは助けられるまでは永遠に苦しみをうるわけです。これが言葉をもつことの代償であると考えます。

 

 精神にとって、言葉を獲得することによる業苦(ワシに毎日内臓を啄ばまれる)とは、この広大な世界における卑小な自分の意味を規定されてしまうことであるのではないかと思います。自分を規定されることは、何にも規定されずとらわれていなかった精神にとって屈辱以外の何者でもないのではと思います。たとえば、野生の犬の集団で負け犬がいたとします。負け犬はもちろん強い犬よりは小さく生きなければならないでしょうが、自分自身を言葉の鏡にうつして「負け犬」であるとか「惨めな存在」であるなどという認識はしません。あることがただそのようにあるだけで、そのことの実存的な意味に苦しみません。ところが言葉をもった人間には、言葉の鏡に映された自分の強い惨めさは自分や他人を殺すほどに、戦争すらおこすほどに、耐え難い苦しみです。

 

 そのように捉えるならば、なぜ人が名誉という概念にとらわれ、あるいは「自己実現」のような高い価値を手に入れようとするかが説明しやすいように思います。つまり、人間が自分をより高い意味、価値あるものに高めようとするのはやりたくてやっているのではなく、実態は低められた価値を回復しようとする不本意ながらの反動であり、強制的に磊落させられた自己の価値を代替的に元に戻そうとする行為であるのかと思います。あるエピソードを紹介します。友人のお子さんが買ってきたカレンダーに怒っていたそうです。なぜならそのカレンダーには自分の誕生日が記入される前から天皇誕生日が記入されていたからです。子どもにとっては、そのような序列づけ、つまり自分の価値は誰かより低いという屈辱的な商品鑑定を社会から受けたことと同じなのだと思います。

 

 さて精神との強い結びつきがある腸(はらわた)を生きたまま食べられるプロメテウスの苦しみは、一回では終わらず、毎日続けられます。この「毎日」とは何でしょうか。私が思考するとき、思考は言葉をもって行われます。言葉とは記憶であり、既知であるので、私は思考によって世界を見渡す限り、既知に閉じ込められているのです。言葉とは、時間の止まった過去の世界に自分を投げ込むものなのです。私は明日が今日とほぼ同じようにくることを現実だと信じています。これはつまり「明日」は既知のなかに閉じ込められるということでもあると思います。言葉というフィルターを通して感じられる世界は既に終わったものであり、同じであり、変わらないものです。そこにもし「学び」という、感じ方や認識の更新がなければ、いくら時が過ぎても、私にとって世界は風景の変わらないメリーゴーランドに乗り続けているように同じことの退屈で苦痛な繰り返しになり、その苦痛を打ち消すために人は強い刺激に自分を麻痺させざるを得なくなってしまいます。

 

 能楽師であり、古代の中国語を研究している安田登さんは心とは過去と未来を持つことだと言います。それまで過去と未来を持たなかった人は、毎年王朝に人の生贄を捧げなければいけないのに、逃げてしまったりしなかったそうですが、言葉は、それまで精神にとって存在しなかった「明日」を作りだしました。しかしその「明日」は実態としては過去としての「明日」なのです。私は、そのように過去に閉じこめられ、加えてこの世界において卑小であり、惨めであるという、言葉がつくりだす実存的な屈辱を受けながら、延々とメリーゴーランドのような終わらない世界を体験し続けるのです。

 さらには、人間は言葉の獲得によって、明日やずっと先の「未来」の準備ができるようになったと同時に、「明日」におこりうるかもしれない仮定としての苦しみにさらされ続け流ようになりました。「生きなければいけない明日」に永遠に強迫される存在にもなってしまったのです。


生きづらいものは何をたよりに生きていけるのか
鶴見俊輔の親問題 根源的な苦しみと逆境を自分として生きる力

 さて、では言葉を抱え込んでしまった人間として、特に周りの社会では評価されず、認められていない位置づけにいれられてしまった人間はどのように生きていけばいいのでしょうか。それには、その人の奥にある根源的な苦しみが重要な役割を果たすようです。根源的な苦しみというと、ネガティブな印象を受けるかと思うのですが、根源的な苦しみは自意識の実感としては充実をもたらす源泉として機能するものとしてあるようです。ライフワークとして成り立つようなこと、あるいは苦しい環境の中でも自分として生きる力は、この根源的な苦しみに対する生体の自動的な反発によって生まれているのではないかと考えています。 私は大学では心理学科に所属していましたが、多くの周りの人たちが卒業論文においてそれぞれの「自分の問題」をテーマにしているように感じました。その人はそのつもりでないかもしれませんが、他人である僕からみるとそれはその人の問題の核心であるように思えたのです。なぜそうなのか。卒論という、学生にとって一番大変な課題を乗り越えるためには、それ相応の持続的な関心と動機が必要なわけですが、それをそれぞれが探った結果に行き着くのが、自分の問題ということになるのだと思います。

 

 宮大工は、建築物を作るときに山を買うといいます。そして建物の北側には山の北側に生えていた木をというように、それぞれの方角に元生えていた山の方角と一致させた材を使うそうです。なぜなら山の北に生えている木は北という環境の脅威にもっとも反発して北に強く生長しているからです。

 

 そのように考えると、人間には物心がついたとき(つまり精神が言葉の世界に覆われてしまったとき)から自分の一番の脅威、あるいは生きるにあたっての自分の根源的な脆弱性として潜在的に認識されているものがあり、それに対して身体が最も反発しようとして自分が形成されるということがありそうです。しかし、それは無意識に沈んでいるので、最初からそれに向かうことができません。そして、その苦しみ自体が実感されるよりも、元々持っている苦しみや痛みを乗り越えるような行動をした時に充実感を感じるというあり方であるようです。つまり自意識にとっては、潜在的な苦しみはあるのだけれど感じられず、一方でそれに反発した結果としての充実だけが実感されるようです。そのため、根源的な苦しみは生きづらい人が生きるあたっては、動機と充実の源として頼れるものになります。ただ、直接に向かうことが難しく、充実を感じたという結果を手がかりに探っていくしかないというものではあります。


「殻」という問題
 個人に根源的な動機があるのなら、最初からそれに向かえばいいではないかと思われるかと思うのですが、人のあり方をみるとなかなかそうはいかないようです。なぜなのか。根源的な苦しみへのアクセスを持ちうる人は生きづらさに直面した人であるようです。別の言葉でいえば、自分の本当の気持ちをおいて、必要な役割を演じて上手くその場に「適応」できるならば人は自分の本当の気持ちや動機に気づく前に埋めてしまい、偽りの自分、欺瞞的な自分を演じることを続けてしまうようだからです。これはつまり適応への不安、明日に向けて生きていく不安が人間にはものすごく強いので、自動的にそうなってしまうというところがあるようです。また本当はこうだったらいいな、こうしたいなと思っていても、「我慢」しているとだんだんと自分の気持ちや感じていることが感じられなくなります。生きていくことに対して強い不安があるので、それを補おうとして偽りの自分、欺瞞的な自分が前面にでてくるのです。殻は本当の気持ちや感じていることを意識から追いやるので、殻のほうが本当の自分の気持ちや願いよりも相対的に強くなってしまい、殻が自分自身だと思うようになります。今、自分が自分だと思っているもの(=自意識)は殻なのに、殻が本当の自分だと錯覚します。そして、そもそも適応への不安から生まれた殻は、自動的な自己保存の衝動を持っていて、自分に変化をおこすような環境やそこに繋がるような行動にはそれをやめさせるための抵抗をもたらし、自分を守ろうとします。

 

殻が止める自分の「時間」
 しかし、殻によって本当の気持ちに応答できない個人は、自分を生きている感じがせず、その人の「時間」は止まっているように感じられます。殻によって一時的に押しやられた不安は消えず、ふとした時にまた戻ってきます。自分が生き生きと生きる感じはだんだんとなくなって、自分が死んだように生きるようになります。それを補うために娯楽やその他依存など、強い刺激を自分にあたえ、偽りの生きた感じを自分にもたらそうとしますが、強い刺激がないと日々を送っていくことが困難になります。また殻を厚くすることのもう一つの弊害として、何か自分が素晴らしいのはこういう条件(仕事をしているとか、能力があるなど)を達成しているからだというように、条件つきの自分に強く依存してしまいます。すると、その条件から外れる不安に支配されるようになり、同時にその条件を満たさない人を人間以下のような、価値がない存在としてみなし、そのような抑圧的態度をとっていく人間になってしまいます。

 

殻の強固さとその破綻の契機
 そのような弊害がありつつも、殻は強く自分を支配するのですが、そのひずみによって自分が病気になったり、あるいは急な事故のようなアクシデントがおこったりすると、殻がそれまで欺瞞的に、無理矢理に作り出していた安心や安定が成り立たなくなります。殻の第一の存在意義がなくなり、殻に大きな穴が空いてしまいます。すると、精神的には大変不安定で危機的な状況になりますが、同時に殻に抑圧されていた本当の気持ちや求めとつながりやすくなります。というより、むしろ、いびつな安定を提供していた殻が壊れてしまったので、本当の気持ちや求めに応答しながら新しい、更新された自分が生まれないと今後生きていくことが難しくなります。危機はまさにチャンスでもあり、そこで自分の根源的な求めに応答していくと、殻は別のかたちでふたたび形成されるにせよ、人は以前よりも自然と他者や世界と響きあい、応答しあう存在として再生します。殻の厚さによって人は自分だけでなく、他者や世界との応答性を減衰させてしまいますが、自分の本当の気持ちや求めに応答する割合が高くなれば、その分に深い納得や充実が生まれ、自分の時間が流れやすくなります。応答性の回復がおこるのです。社会が人間の殻の部分に支配され、パワーゲームをしていても、それに拮抗するような充実や安らぎを自分自身にもたらしていく応答性を持つことができれば、人はパワーゲームの社会の主流があったとしても、そことはズレた、人間的なあり方での生を生きることができるようになると思います。ただ、心理的な救いと社会的な成功や承認は別々のものであり、一致しません。社会は全てを成功物語で語ろうとしがちですが、無名なまま、一般的にみれば不遇な生にみえても、人は救われうるし、(早く死ぬかもしれませんが、とりあえず死ぬまでは)深い納得と充実を生きられると思います。マザーテレサが世界的に有名になって承認されているのをみて、そういうあり方がいいようなイメージを持つかもしれませんが、無名のままで死ぬマザーテレサ、「変わった人」という周りの認識が変わらないまま死ぬマザーテレサをイメージしてもらったほうが実際に近いかと思います。パワーゲームの社会においては人の「殻」の方が優勢なので、社会は欺瞞的であり、都合の悪いものは見ないようにして、自分の都合のよいものを承認しようとします。自分、他者、世界との応答性を回復すると、そのような社会の承認に自分をゆだねる割合が少なくてすむようになります。

 

応答を生きることができる
 社会はパワーゲームで動いており、人間の「殻」の部分の理屈で動いています。そこはサバイバルの世界であり、弱いものは強いものの肥やしにされ、弱いもの、無力なものが下に見られる社会です。精神が言葉を獲得したことによって、精神は言葉という過剰なものの影響に耐えられず、それを打ち消すための殻を形成するのではと思います。言葉の獲得によって得られたものの代償として、何にも規定されなかった存在であった自分というものを今の社会における価値基準で順位づけされ、規定されてしまう矮小化や不本意なレッテルばりの屈辱を受け、(成功を求めるように)その屈辱を回復する強迫にかられ、メリーゴーランドに乗り続けているかのような変わらない風景の日々を生き、明日のために生きなければならないという強迫に駆られるので、生体としてはその強迫から自分を守るために、無感覚になるための殻を作り出すしかないのではと思います。しかし、殻は自分、他者、世界との応答性を奪うという代償をともない、その人を偽りの自分として生きさせ、その人自身の時間を止めてしまうものでもあります。言葉を持つかぎり、殻からも逃げられませんし、殻の動機に支配された社会の傾向を取り除くことも難しいようです。しかし、自分、他者、世界との応答性という人の本来のあり方に近づくことができれば、殻による生きることの疎外に干渉し、殻の支配を弱めることができるようです。

 

ちいさな人間的環境を作る
 強固な殻があったとしても、それを弱め、あるいはそれ以上厚くなることをなるべく抑え、応答性を回復していくことはどのように成り立つのでしょうか。応答性を回復することによって殻はそれ以上厚くならなくてもすむようになります。たとえ抵抗感が残っていたとしても応答性がある環境が良いものだと踏まえることはできるようになるかと思います。殻は環境に反応するものなので、侵食されず、応答的であるような、ちいさな人間的環境をつくることができれば、それ以上に厚くなることは抑えられ、逆に殻である自分が揺れ動いたときに、その環境に助けられることによって、殻に頼る傾向は弱まり、より応答的な環境を求めるようになります。自分のなかで、あるいは困難を抱えた人のなかで、動こうとしている「時間」とはどのようなものだろうかと想像し、それを試行錯誤しながら確かめていくことによって、「時間」という変化のプロセスが動いていきます。閉じて自己保存しようとする殻の強固さに拮抗するのは、その人の根源的な苦しみです。もしそこと繋がることができるなら、世界との応答性を回復していく強い力が生まれます。

 

 またちいさな集まりのような人間的環境(もちろんそこで誰の「時間」も動いていかないのなら、「時間」が動いていくような別のあり方を探す必要があります。)に加え、日々の暮らしにおいて、直接世界と触れ、そこからの応答を実感する環境をつくることも大きな助けになるだろうと思います。資本主義社会においては、お金を媒介として物事がすすむので、自分が直接自分の必要なものを世界とのやりとりから受け取るという営みが疎外されます。その疎外によって、人は応答の実感が奪われるので、自信を失い、他人に依存し、強いものに従うという傾向が加速されます。この社会がありながらも、そのなかに自分たちが直接に世界に触れ、その応答の実感をえる環境をつくることができたならば、自分たちで自分たちの生を引き受け、自治を行う環境をこの社会のなかにもう一つ作れたならば、応答性の回復はすすみやすいと思われます。

 

どこにもいかない なんでもない 「意味」という虚構 「さしあたり」でいい
 殻による疎外と応答性の回復のあり方を述べましたが、そもそも精神が言葉という異物を取り入れなければ(そういうわけにはいかなかったのですが。)言葉の疎外もなく、強固な殻による社会の抑圧もなかったわけだと思うのです。そして自分が価値ある存在であることを認識する必要も、証明する必要もありませんでした。自分が意味ある生を送れただろうか、今やっていることは意味があるだろうかという悩みも言葉を通してしか存在しない虚構であり、フィクションなのです。よって、もっと応答性を回復して「本当の」生を送りたいなあというような求めも、言葉を通してみえるフィクションです。やがて太陽もなくなり、宇宙もなくなるようなのですから、生きることにおいて、達成する必要のあることなどなく、「発展」しても消えるのだから、意味はないのです。意味とは到来するであろう未来に対して何の役にたつかという仮定なのですから、意味もまたフィクションなのです。

 

 もちろん、言葉を獲得した私たちは言葉の世界に閉じ込められ、それが現実であると認識します。そこは既知の記憶が堆積された、時間の止まった世界です。そして言葉の世界がしばらく続くと予想されるので、時間の止まった世界の時間を動かし、世界との応答性を回復していこうとするでしょう。しかし、応答性の回復ということを認識するのもまた言葉を通してしか無理なので、結局はそれも仮定の世界の話しであり、やはりフィクションです。

 

 どのような途中でも、惨めに生きても、あるいは幸せと思って生きても、どちらも等しく「意味」はないのです。本当の自分が価値づけられることはありません。お前の生は何点だったとされることもありません。それらは全て言葉による虚構のものであり、フィクションなのです。どこにもいきませんし、なんでもないのです。何を「達成」しなくても、何を「獲得」しなくても、すでに救われているといえるのです。ですが、言葉を獲得してしまったので、さしあたりは(死ぬまでは)閉じ込められたところで、言葉を通して実感するところで、自分の時間を動かすということができれば、生きる辛さはマシにしていくことができます。つまるところ、生きることは、「さしあたり」でいいのであり、「さしあたり」しかないのだと思います。

2回目のプリズン・サークル 機械と震え

京都シネマでの最終日。

prison-circle.com

 

平日の4時開始だったけれど、受付近くではこのために半休をとって来たというような話しをしている声も聞こえた。

 

2回目のプリズン・サークルは体感としてはあれよあれよと進んだ。あれ、もうこのシーン、このセリフが来たかという感じ。そこから比較すると、1回目は自分にとってジリジリとした時間だった。

 

性暴力の語りはもう一度聞くまですっかり記憶から抜け落ちていた。ただ、いじめによる堪え難い屈辱を与えられる話しをしていたとだけ覚えていた。キツい話しだったからだろうか。小学校6年だったかのいじめで性器を咥えさせられた、殺してやると思ったという部分。

 

自分はそこまでではないけれどいじめを受けていて、強いと見なされている人の取り巻きの「三下」みたいなのまでが調子にのってきて僕のものをとって逃げ回ったりした。そのことをそうとらえる僕の視点が差別的であるけれど、「三下」にまで馬鹿にされた屈辱は自分を失うほど強かった。後になって思い返されるたびに、傷害になろうが自分が前科者になろうが、相手に一生の苦しみを残すぐらいのことをしてやればよかった、なぜそれがあの時できなかったのかと思った。

 

今でも思い返すと震えがくる。つまり自分はまだそこにおいて止まった時間を抱えているということだ。30年経ってもまだ残っている。

 

整体の稽古で、身体において一度できた反応の回路は放っておけばいつまでも同じままでいることを知り、そういうことかと思った。体は部分部分において、一度決まった反応を何年たっても繰り返す。たとえその反応の仕方が不自然なものであっても。稽古ではその決まった反応を更新するために、意思的な動かし方を型によって一度殺し、自律的な動きをもって動かし、その感覚を感じることで、その部分の反応のあり方を更新する。

 

身体のあり方と同じように、心の反応も30年前にできあがった反応と20年前にできあがった反応などがごちゃ混ぜに組み合わされ残っており、特定のトリガーに対して同じ想起や感情をひきおこすのだろうと推測する。

 

仮に心にたとえて、心臓をレゴブロックで作ったとイメージしてみる。それぞれのブロックは、それぞれの止まった時間によって別々の反応をする。それは統合的ではなく分裂的な、無秩序な反応だ。

 

それらの止まった時間を動かし、反応のあり方を更新するためには、それぞれ時間が止まったその時のリアリティを喚起させ、そのうえで動きだしたプロセスを止めないように経過させる。プロセスが進むのに必要なことが語りであれば語りをし、踊りであれば踊りをする。自分の感覚へ応答する際、どのような方法をとったらいいかはその感覚自体と対話し、応答として編み出すしかない。

 

回復共同体(TC)という集団のなかでは被害者と加害者が自然と両方とも存在している。陰惨ないじめの被害者がおり、別の場所と時間においてであるが、そのようないじめを行った加害者もいる。それぞれ個別の案件に関しては、受刑者たちは被害者か加害者かのどちらかなのであるけれど、回復共同体のなかではその両方の心情が語られる。

 

そのことによって、おそらく受刑者たちはモノや単なる概念としてとらえていた相手の存在を震える存在である人間としてとらえ直す体験ができるのだと思う。被害者にまるで共感ができなかった加害者が被害者の苦しみを受け取り、被害者は単なる暴力や悪でしかなかった加害者像に揺れ動く感情や弱さを読みとる。その人の震えをみる。そのことによって加害者像は動かせない絶対的リアリティから降りてくる。

 

ブーバー的な捉え方をするならば、回復共同体におけるその多様性は、相手を利用対象やモノとしてとらえていた「われーそれ」関係から、凝り固まった非人間(機械)となっていく自分を人間として再生させる「われーなんじ」関係にみちびく。

 

生き延びるために辛さを感じることが抑圧されれば、喜びを感じる感覚も同時に薄れる。また辛すぎる自分の体験を、感情や感覚を乖離させることによって感じなくした場合、相手の痛みに対する感覚も失われる。そして躊躇なく相手を苦しめることができる。

 

過酷な環境におかれた場合、その人の意思以前に、自動的に感情の乖離はすすみ、またその人はそもそも思考の選択肢さえない状態におかれるようだ。人に助けを求めるというようなことが選択肢としてそもそも思い浮かびもしない。自動的に、そのような過酷な状況が続いても生き延びるための機械になる。機械は人と扱われたこともなく、同様に人を人として、震える存在として扱うことも知らない。

 

そのように抑圧された感情が取り戻されるとき、人として自分の代わりに傷ついてくれる人の姿を見ること、人として自分の代わりにその役割を引き受けてくれた人の姿を見ることが必要であると思う。

 

負の感情を自分の心のうちに引き受けられない状態にある人は、そもそも葛藤することもできなくなっている。そのとき、自分の心のうちに引き受けられないものを代わりに引き受けてくれる存在がいると、その人は相手の苦しむ姿から自分自身を見いだす。そしてそのことによって回復し、以前より自他の痛みを受け取れるようになるようだ。

 

回復者は決して一人で回復しない。自分の代わりに傷つき苦しんだ人の姿のなかに自分を見いだすこと抜きに回復しない。回復したということ自体が、たとえ直接に相手に危害を加えたわけでなくとも、誰かの苦しみを糧にしたということなのだと思う。その認識において、回復者は回復を自らの手柄にすることなく、自分を達成者の側に置くことなく、より人間に戻っていく存在として、震えを持ちつづけることが可能になるのではと思う。

 

これでいい、こうすれば自分は正しくあれる、などという割り切りで日々を送れるようになったとき、その人は震える心を失っている。犯罪を犯していなくても、人はそのように日常においてごく自然に機械になっていく。自分のなかにあって取り扱うのが難しい痛みを感じなくしようとして、痛みを塗り込め、抑圧に無自覚になり、人間をモノとして扱うことに抵抗がなくなっていく。同時に自分も奥底の痛みから自分を解放することから遠ざかっていく。

 

人間は、震えから生まれると思う。震えが奪われるとき、人間も奪われる。震えを奪われたものは機械になる。機械は呪いをかけられたように既知の世界に閉じこめられ、止まった時間と倦んだ絶望の生を強いられる。震えは機械に生を与える。震えを与えられた機械は今まで知らなかった新しいものが自分に生まれてくるのを感じる。時間が動きだし、感じられる世界は更新されていく。