降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

波風に応答する社会へ

昨日はDIY読書会。

 

酒井隆史『暴力の哲学』の発表からは、一見すると非暴力で治安がいいような社会のようにみえても、実態は強い弾圧や抑圧が存在する社会の状態は「擬似非暴力状態」であるという視点の紹介があった。

 

平和学における消極的平和と積極的平和の違いとも通じるところがあるのだろう。消極的平和とは、直接的暴力は少ないが、貧困や差別、格差による「構造的暴力」が存在している状態。一方、積極的平和とは、戦争の原因となるこの「構造的暴力」がない状態だとされる。(日本ではこの「積極的平和」は首相が軍事的な力を積極的に行使してつくる平和という意味で使用したため、その誤った意味のほうが一般的かもしれない。)

 

発表のなかではっとしたのは、次のくだりだった。

 

→「波風も立てられない状態」を肯定することと、非暴力との混同が擬似非暴力状態を強化する

 

波風を立てないことはここの社会においては、とても重きが置かれると思う。波風とは悪いことであり、周りの人に迷惑をかけることなのだと。しかし、そのことによって、いびつな構造的暴力が維持されている。その場で強いものが幅をきかせ、誰かを踏みつけ、しわ寄せを引き受けさせている状況がありとあらゆるところで見受けられる。

 

しかし、そのことに異議を唱えるときも、波風を立てることが周りにも影響を与える悪いことなので、周りから止められたりもする。自分が我慢すれば周りに迷惑をかけなくて住むのだ、と思いこまされる。すると、いびつな構造は維持されたままになってしまう。

 

発想を転換する必要があると思う。実際はここの社会における個々人は、波風「も」立てられない状態にあるのだと。波風「を」立てるかどうかで抑圧される社会は既に多様性を拒否している社会だ。波風は当然おこるもの。そして波風こそが社会環境を変えていくものだろう。

 

海外の労働力に依存するしかないこの社会環境で、これからはより違う文化の人たちと共に暮らしをつくることになっていく。その時に、波風がおこらないはずがない。そして「波風を立てる人」を問題にする社会とは、単に抑圧的な社会だったのだということがあらわになるだろう。

 

波風「も」立てられない個々人にされているこの社会、この世間は、そろそろ終わりにしていってもいいのではないかと思う。今、私たちは波風も立てられないのが「普通」の社会環境にいる。波風は抑圧的なものが変えられていく時に必要なもの。古い「常識」を変えていくもの。波風はいびつな構造的暴力に干渉していくもの。波風を応援していく。人として波風に応答していく。そのことによって社会は更新されていくのだと思う。