降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

12月7日19時〜 ジャンル難民学会発足ミーティング

12/7(金)の19時〜、本町エスコーラにて、ジャンル難民学会(仮)発足ミーティングを行います。

 

ジャンル難民学会(仮)発足ミーティング

 

アカデミズムや既成の分野に必ずしもこだわらず、個々の人が自分の核心的な探究や研究を発表する場を作ります。

 

◆ジャンル難民学会(仮)発足の趣旨
・個々の探究者たちがお互いに出会うことによって、それぞれの探究が刺激され、促進される環境をつくる サロン的な場づくり
・それぞれの探究に関心をもつ人たちの裾野を広げる 探究環境の畝づくり
・個々人が自分なりの探究することの重要性を理解する人を増やす 社会の土壌づくり

 

◆話しあうテーマ
・参加者それぞれの探究はどのようなものか。
・また探究を促進するためのニーズはどのようなものか。
・どのような枠組みのデザインが最も自由かつ生産的か。発表の場開催をどのようにするか、普段の探究環境にどのように繋げるか、名前をどうするか(ex.草の根探究学会、)
・今後の活動計画など

 

 

映画「ネバー・クライ・ウルフ」の原作者であるカナダの国民的作家ファーリー・モウェットは、自身がフィールドワークを行いました。そこには世間で信じられていたオオカミ害獣説とは全く逆のオオカミの姿がありました。大型草食獣カリブーを減少させると思われていたオオカミは、病気や弱った個体を主食とし、むしろ病気の蔓延を防いでカリブーを守る役割を果たしていました。

 

彼もまた既存の枠組みでは自身の探究が難しい人でした。
彼は生きている生物を研究したかったのに、当時それは時代遅れのものとされていました。彼は結局自分自身の関心を追究するために研究職になることを諦めました。

 

私の個人的好みは、生きている動物を生息地の中で研究することに向かっていた。融通の利かない人間だったから、生命の研究を意味する「生物学」という言葉を額面通り受け取っていたのだ。同級生の多くができるだけ生き物から遠く離れ、死んだ動物、さらには、本当に命のない資料を用いる無菌状態の研究室に閉じこもる方を選ぼうとする逆説に、私ははなはだ当惑した。事実、私が大学にいた頃は、たとえ死んでいても、動物そのものを扱うことは流行遅れになっていた。新しい生物学しゃは、統計的、分析的な研究に専念し、生命の生の資料など計算機を養う飼料に過ぎなかった。
 私が新しい傾向に順応できなかったことは、専門家としての将来に好ましからぬ効果を及ぼした。『ネバー・クライ・ウルフ』

 

彼の発表はその後の学問にも影響を与えました。今、自分の探究の社会的受け皿がなく、収入になることがなくても、その探究を個人にとどめるのは勿体無いのではないでしょうか。そして、もしこの広い世界に自分の探究が話しあえる人がいるなら、探究のプロセスはさらに豊かに実りあるものになるのではないかと思います。

 

◆よびかけ 〜既存の枠組みをこえて、個々の核心的な探究をしていくために〜

 人は、たとえ自分でも気づいていなくても、それぞれに自分の根源的な問いを持っているのではないでしょうか。何かを研究したいとか、探究したいとか、そういうつもりもないのに、どういうわけか興味をひかれ、引き寄せられることがあります。生きていくなかで、そのことに関わることに出会い、 自分のなかで何かが確かめられていく。パズルのピースが集まっていくとやがて絵柄となって現れてくるように、自分にとって根源的な問いが輪郭をもってみえてくることがあります。

 

 哲学者の鶴見俊輔は、人は生まれてくるやいなや問題に投げこまれ、問題を背負わされ、問題を探りあてようとし、問題と取りくむ、といいます。ただ自分にとってのその問題は学校や大学という場ではかっこのなかに入れられ、学問の外に置かれてしまうとも指摘しています。また、自分の根源的な問いへの応答をすすめていく探究は、既存の学問のなかに接点をもつ分野があったとしても、自分の問いの核心に向かおうとすると、分野の狭間になってしまったり、多分野にまたがってしまい、評価される範囲から外れる研究になってしまいがちではないでしょうか。

 

 武術家の甲野善紀さんは古武術を研究され、そこで得られた知見や斬新な身体技法はスポーツから介護まで様々な分野で今までにない効果をもたらしています。甲野さんの個性的で核心的な探究は社会に大きな豊かさをもたらしています。また、甲野さんの興味範囲の広さ、60歳をこえて踊りをするようになったというような新しいものと取り組む生き生きとした姿勢は強く印象に残ります。しかし、その姿はもともとの気質もあることでしょうが、少なくない部分が、自分の核心的な探究をすることによってもたらされているのではないかと私は思うのです。

 

 探究は人と世界の出会いをおこします。探究のなかで人は刷新され、更新され、新しくなります。そして探究を通して必要な人、新しい人たちとつながりをもっていきます。個人は探究によって、より生き生きとした世界との応答関係を育てていくのではないでしょうか。自分にとっての核心的な探究は甲野さんのようにやがて今まで想定されてなかった豊かさを開拓するような可能性も持っているとも思います。しかし、将来的に役に立つか否かという基準で、ある探究をしたりしなかったりするのを決めてしまうことは、生きること、世界との関わりをひろげていくことを犠牲にすると思います。

 

 個人がその核心的な探究をすすめることは、その個人にとって大きな意味があります。そこからは大きなエネルギーがやってきて、そして自分をまた新しい世界をひらく行動に導いていきます。また、社会福祉法人浦河べてるの家からはじまった「当事者研究」では、それまで専門家に受動的に従うしかなかった精神障害を持った当事者たちが自分を研究する研究者になることで主体化され、仲間との関係性が育ち、生きる環境が変わっていくことが知られています。探究は治療的でもあり、自分自身に閉じず、世界との新しいつながりを派生させていきます。

 

 しかし、探究や研究は一般には職業的専門家のものだと思われており、個々のささやかな探究は周りのごく限られた人だけにしか知られておらず、世間に認められないことを探究する姿は変わった人として受け止められ、肩身を狭くしているのが実情ではないでしょうか。ですがもし、核心的探究をする個々の見えない探究者たちがその姿と探究を見せる舞台が世界にあるなら、そこには探究者の価値を理解する人たちが現れるのではないかと思います。

 

 あるいは、世間に認められていない探究をしている探究者こそ、自分とは別の分野の探究であっても、その価値を理解し、応援する存在となりうるのではないかとも思えます。何しろ、直ちに役に立たないような探究や決まった分野におさまらない探究をしている人たちは、様々な別の分野から自分の知見を刷新する情報に飢え、感性を発達させているからです。核心的な探究者たちは、世間の損得とは独立した、他者や世界に対する純粋な知的好奇心を備えている場合も多いのではと私には思えます。

 

 アカデミズムの内外にこだわらず、直ちに役に立つか立たないかという性急さも一旦脇に置き、のびのびとした個々人の核心的探究が促進される場、個々の探究者がお互いを活性化する場、そして自分にとって重要な探究をすることが全ての人にとってごく当たり前のこととなるような環境づくりをしていく場を探究者たちと共につくっていきませんか。

 

◆参考文献・URL

荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために 在野研究者の生と心得』

菅豊『新しい野の学問の時代へ 知識生産と社会実践をつなぐために』

礫川全次『在野学の冒険 知と経験の織りなす想像力の空間へ』
鶴見俊輔『共同研究集団』

 

在野に学問あり 第1回 荒木優太

http:// https://www.iwanamishinsho80.com/contents/zaiya1-arakiyuta

 

「愛されていない」という死への拒絶 『その後の不自由』とメンヘラ.JP

「自分など価値はない」のなかには、どれほどの高いプライドがこめられていることだろうかと思います。

 

これは世間の価値基準を自分のなかに取り入れ、それが自分を圧迫していたとしても、その基準を自分は理解しており、それを自分に課しているという表明です。

 

価値を奪われて、追い詰められた人がかろうじてしがみつけるのは、世間の価値基準と思っているものを理解し、遵守する自分なのであり、遵守できない自分を強く否定し、罰することによって、世間に認められる部分を作り出しているのだと思います。

 

上岡陽江さんの『その後の不自由』に、自分は愛されているという信念は何が何でも守り通されなければならず、愛されていないことは決して受け入れられないということが書かれたくだりがありました。今、愛されていないという感覚をもち、自分を悪いと思い責める人は、自分の悪い部分がなくなったら愛されるはずだという信念を守るために、自分に悪い部分を見つけだし、愛されていないという破局の認識を拒絶するために自分を責め続けなければいけないのです。

 

bookmeter.com

 

内在化した世間の価値観への強い遵守によって保つ自分のプライド。人に否定され、価値を奪われれば奪われるほど、反面のプライドは高まらざるを得ません。あえてハードルの高いような世間の基準が自分のなかに取り入れられ、その「当然の」ハードルを自分は超えられないのだと信じ、表明することによって、「そんな高いハードルを設定しているのだ」と人に思われ、それは評価されるはずと信じるのだと思います。

 

自分には実現できないような他者の高いハードルを自分に設定することによって、受け入れられ、愛される自分が想定され、「愛されていない」という破局の認識を意識に侵入させることを拒否することができるのです。

 

世間(そして現政権)の価値観は弱者を排除することだろうと直観し、その価値基準への忠誠を表明するように実行した事件がありました。追い詰められれば追い詰められるほど、その価値基準への過剰な忠誠を証明せざるをえず、そのことによって押し寄せてくる「愛されていない」という認識の拒絶をせざるをえないのだと思います。

 

不安に陥るたびに自分を責めることによって、自分を見つめるまなざしに対して忠誠を表明し、そのことによって「本来なら愛されているはずの自分」を意識の裏でありありとイメージし、一瞬の救いを得るということを強迫的・自動的に繰り返してしまいます。

 

「自分に価値はない」は、自分の最後の砦を守るために構築された強力な防衛システムですが、同時に自分の世界の見え方を更新する機会も奪います。世界の見え方や感じ方が更新されるには、今の自分に見えているイメージの世界の外に踏み出し、イメージがイメージだったと知り、今のイメージが即リアルだと認識し、反応している状態を終わらせることが必要だからです。しかし防衛システムが作りだすイメージは、破局を避けるためにイメージの外に踏み出すことを死(=愛されていないことの確認)だとささやき、イメージのなかにとどまらせようとします。

 

そこから出ていくことは、応答を繰り返すことによって可能となると思います。本当ならばこうしたい、本来であればこうありたいという状態や状況をほんの僅かからであっても、自分の周りに引き寄せ、整えていくことがそれに該当すると思います。

 

そんなことには意味がない、と不安になれば防衛がやってきますが、不安がされば結局また求めが続いていることがわかると思います。防衛の言うことに服従するのではなく、求めに対してどんなに小さく些細な実践であっても、応答していく。求めは自分というよりも、自分のなかの他者、一人称である「わたし」としてよりも、二人称の「あなた」としてあるようです。

 

「本当の自分」というような呼び方もあるかもしれませんが、一人称で理解すると防衛なのか、求めなのかわかりにくく、既知の自分をベースに捉えてしまったりしがちかなと思います。

 

メンヘラ.JPの投稿で、いろりさんは、部屋の片付けを自分でしなければいけないとか、自分の「ため」に他者の援助をともなって片付けをすることに強い抵抗感を覚えます。ですが、本来あるべき状態に応答するかたちで手伝ってもらって部屋の片付けを終えます。

 

私は今まで、今とは違う薬を飲んだり長期間何もせず休んだりすれば何かが変わると思っていた。だってうつを治す方法としてどの本にも書いてあることだし、私は自分のために労力なんて使いたくなかったから。

家を出ることや母から離れることはさんざんいろんな人から言われてきた。それが最良かつ最終手段だということはわかっていたけれど、どうしても自分にできると思えなかった。経済的にも家事能力的にも精神的にも。

“自分のために”大金を使って部屋を借り、家賃を払うために働き、“自分のために”食事を作る、洗濯する……そこまでして自分を生かしたくなかったし、生かす努力ができるか不安だった。

けれど死ぬこともできない。どうせ生きるならもう少し楽になりたい。クリニックを変えても言われることは同じだったし、母の傍にいながらできることはもうすべてやったはずだ。

家を出てひとりで暮らすことが一番よい治療方法なのだと私は覚悟を決めた。

 

menhera.jp

 

受難と回復 時給1円の世界

受難によってこれまでの自分を深く壊されることで、人間としての深い回復の契機を得るという話しをしていました。

 

深い回復というのは、収入をより多く得たり、うまく生きるということと同じことではありません。適応と人間としての回復が同じものとして語られていることは多く、確かにそのようなこともあると思いますが、人間としての回復と適応は別々のことだと思います。逆に、人間としての選択をしようとするとき、うまくやることとは決別するような選択をするほうが多くなるのではないかとも思います。

 

受難によって、人間としての回復がおこるとしても、それは世間的な基準ではまるで割りに合わないものだと思います。

 

例えるなら最低賃金が882円の京都府で一時間働くという代償を払えば、882円はもらえるのが当たり前ですが、回復を労働にたとえるなら、一時間働いて1円ぐらいたまるようなものだと思います。その1円は減らない1円かもしれませんが、それにしても、24時間で24円。一週間で168円といった具合。そのお金で何が買えるでしょうか。回復の話しは、役に立つといったような水準の話しではないと思っています。

 

これをやったからこうなるはず、といったようなギブアンドテイクの考えはこと回復においては成り立ちません。何の役にも立たないけれど、世界の見え方が変わった。今までより世界の奥行きを感じられるようなった。だからといって、この社会により適応し、うまくやれることとはそれほど関係がない。世間的なとりかえし、とりもどしと回復は別のことであるのだと思っています。

応答としてのDIY 11/21南区DIY読書会終了

11/21日の南区DIY読書会が終わりました。

 

DIYは、主体を取り戻すための手段として意味があると思います。

 

主体を取り戻すといわれて、「ああ、主体を取り戻さなければいけないのか」と義務的に感じるでしょうか。感じるかもしれません。自分は主体を取り戻していないから、DIYしていって主体を取り戻さなければいけない、と。

 

そうすると、そのように考えている自分は主体ではないということになるだろうと思います。すると主体を取り戻した時に、その自分はいないことになるのではないでしょうか。

 

でもおそらくそのようには多分イメージしていないのではと思います。主体を取り戻したと思う時に、「ああ、自分は主体を取り戻したなあ」と実感する自分がいると想像しているのなら、それは単に「主体的である」と思わされ、憧れていた行動をようやく自分が取ることができた、ということなのかと思います。

 

しかしそこでは、行動は変わっても、特定のあるべき姿に自分はならなければならない、という強迫的価値観は変わっていません。

 

僕は、もし主体が取り戻されるというなら、するべきことができるようになったことではなく、そうしなければいけないと思っていたような強迫的価値観自体が消えたときに、主体が取り戻されていると思います。

 

そのとき圧迫され、かたまりきっていたプロセスが自律的に動きだし、やりたいことが出てきたり、やりたいことがこれまでとは変わっています。

 

何かすべきことをもう一つ自分に課するのではなく、既に課されたもの、内在化された価値観をほぐし、変化させるために世界と自分との間に直接の接点を作ることが重要だと思います。その接点を通して見えてくる世界は、自分がそれまで「現実」だと思い、ぐるぐると回っていた自分の頭のなかの世界、閉じた空間のなかにあるメリーゴーランドの世界を更新します。

 

すべきことをするのが主体的なのではなく、自分も知らなかったプロセス、よくわからないプロセスが動きだす状態があるとき、主体的な状態であると思います。そしてその未知なるプロセスを今までの価値観で邪魔したり干渉せず、むしろそのまま進ませるように、カーリングするような気持ちで周りの環境を整えるのが古いものとしての自分の役割かと思います。

 

動き出そうとしているプロセスを動かすために、あるいは動き出したプロセスを止めないために、環境を整えることがDIYの意義なのであって、モノづくりやるべきだとか、もっと主体的に動くべきだとか、自分のなかに既にある強迫的価値観をより上に置いて、自分のなかで動きだそうとしているプロセスを凍りつかせることは、真逆のことだと思います。

 

DIYとは、自分とともにありながら、まだ自分の知らなかった自律的なプロセスの蠢動を感じ、応答していくことであるといえるだろうと思います。その応答は世界の見え方を更新し、古い価値観や信念に支配されている自分をそこから解き放っていくものであると思います。

人権

入管の問題、技能実習生の問題。

 

news.yahoo.co.jp

 

自分自身も大学出るまで「人権」という言葉は学校でよくあるような、建前だけで中身のないスローガン、公の機関が正面から向きあうつもりはないけれど、責任を果たしているような「やってる感」をアピールするキャンペーンをやる時に使われる言葉かと思っていました。

 

人が人として回復する場とはどんな場だろうかと自分なりに確かめてきて、やがて人は「生産性」とか「有用性」とか評価づけられる価値基準をもって扱われているときに回復していくことはできないし、変わっていくことはできないのだと思うようになりました。

 

何かの価値基準で人をモノのように使用価値、消費価値としてとらえたり、扱うことは、その人の人権を侵害しています。そしてそのようにとらえられ、扱われた人の、人としての時間は止められてしまいます。そして時間が止まってしまった人、止められてしまった人にとって、生きることは拷問のような時間の連続になってしまいます。

 

人に回復をおこすための尊厳を提供すること、侵害された尊厳を回復すること。それが人が人として生きるために必要なことです。人として生きることとは、変容しながら、回復しながら生きることです。人を人して扱う、つまり人を序列づけるどのような価値基準もその人との関わりなかには持ち込まない、あるいはそのようなものが持ち込まれているのなら、はね除けるやりとりのなかでだけ、人はお互いに人であるのだと思います。

 

お互いに人であることを約束している。その暗黙の約束を信じられているときが、人が人に希望をもっている状態であるといえるのではないかと思います。お互いのその暗黙の約束が人権であると思います。

 

たとえどんな差別意識をもっていようが、内心どう思っているかとか関係なく、人は人として扱われる必要があります。人としての尊厳が回復したとき、ようやく人としての時間は流れはじめるからです。人でない時間は拷問の時間だからです。

 

社会や環境が質的に変容していくためには、人が人として扱われることが必要であり、さらにいえば、社会を質的に変容させる潜在的な力をもっているのは、いま強い抑圧を受けている人たちです。その人たちが回復していくとき、自ら損をかぶって、体や命をかけて社会と向き合います。なぜならこのように人であることを奪われている生なら、生きていくことは値しないと感じるまで追い詰められているからです。同時にその切迫した動機は自分個人だけに収束するにとどまらず、周りの社会や環境を回復させていきます。

 

社会をいい方向に変えてきたものは、そのように身体や命をかけて、人が人であることを求めてきた人たちの力なのだと思います。

 

あまり直接の抑圧を感じていない人は、その損やリスクをかぶるより回避する動機のほうが強いようです。必死で乗っているレールから外れるほうがこわい。いいことに賛同はしても、自分の体面を保つための援助ぐらいしかなかなかできない。

 

しかし、尊厳を奪われ、抑圧されている人たちに関わる度合いを深めるとき、自分自身に課していた抑圧が表面化し、そこから解放される機会も生まれてきます。パウロフレイレは人間はそのままでいつも人間であるのではなく、人間であることは常に問われていると指摘しています。

 

人であることは、生まれたから人であるとか、人間としての体をもっているから人であるというような静的なことではなく、今まさに回復のプロセスを派生させ、それを身をもって進行させている動的な状態、回復のさなかにお互いを投げ入れている状態であるのではないかと思います。

 

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

サトウアヤコさんの「回路と迂回路」へ

サトウアヤコさんの「回路と迂回路」に参加した。

 

回路と迂回路 – “学び”と”苦手”について考える – | 2畳大学

 

サトウさんは、学ぶこととは回路を作ることではないかという。「苦手なこと」をテーマにして、そこに「迂回路」という回路をつくってみようとする。ここでの「学ぶ」は、ある決まった対象に取り組んで習熟していくことを指しているようだった。

 

そこで苦手だというのは、そもそも自分のいつものやり方でやってダメで、別の考えつくやり方でやっても効果がないという状態を繰り返していて、そこへ取り組むとイメージするだけでも忌避感や嫌悪感が発生しているような状態なのだろうかと思う。

 

既に忌避感や嫌悪感、見たくない反応があるため、地について進んでいったり、工夫を見出していくような思考もおこりにくいという悪循環がある。

 

ワークで、何が苦手かというのをまず書き出してみると、頭のメモリーがその分解放される。自分のなかのものを見ながら解決方法を探るより、外に出た言葉が向こうから向かってくるほうが複数の対応方法がすっと浮かびやすくなる。頭のメモリーを占拠しているものを解放して、スペースを確保すると洞察がおこりやすくなると思う。

 

次に他の人がその苦手を乗り越えるためにやっている王道的方法は何かを書き出す。サトウさんは、苦手なことの解決方法について、自分がどこかに「正解」があると無自覚に前提してしまっていて、その正解を探している間は、習熟は前進しないことをが多いという。

 

直ちに鮮やかな「正解」を求めるというのは、苦手意識の反動なのかなと思う。1秒も考えたくない状態に陥っているので、直ちにそれが済む方法しか考えようとしない。だがその状態は既に回避にはいっている状態。精神は習熟ではなく、自動的に苦しみの逸らしに向かっていて、地に足がついた想像や歩み出しはおこらない。

 

日常で、苦手なものはそもそも思い出しもしないような状態になる。それは自動化する。見たくないものは自然に見えなくなっていく。次にその回避状態があるかどうかを書き出し、振り返ってみる。

 

その後、今まで書いた「苦手」「王道」「回避状態の認識」のカードをB4ぐらいの大きな紙におき、全てがひとまとまりとして意識に入る状態で、苦手であっても成り立つあらゆる状況を想像し、今度はカードではなく、大きな紙の空いたスペースに書く。その時間はドラえもんに道具を出してもらうなら、と楽しみながら想像する状態になる。

 

思考というのは、だいたい堂々めぐりをするものだと思うけれど、苦手なものは何か、それに対応する「王道」は何か、回避状況はどうなっているかという手順を踏むことで、思考のいつもの堂々めぐりができない状況をつくっているのかなと思う。

 

思考が往々にして通るプロセスをあらかじめそうさせないようにしておいて、最後に思い出すのも嫌で縮まっていたその苦手なものとの思考の接触面積を万能感をもってひろげる。そこに他の参加者のポジティブなアイデアの提供が重なり、そのことを考えることが楽しいような錯覚を経て、回避反応しかなかったものが変化し、その接触を維持できるようになる。するとできることを組み合わせてそこにたどり着くというような地に足のついた働きかけがおこるのかと思う。

 

さて、ここまで書いてきて、苦手というのは意識で強制的にやらされたことに対するうんざりした嫌悪の反応であって、もしそこまで強制的にやらされなかったり、やるべきものとか思い込まなかったら、回避反応をおこさずに必要ならいつか自然に習熟するようになるのではないかと思った。

 

サトウさんは、人の意識状態がどうであるのかということにとても意識的だなあと思った。どのような作業をするとどう意識状態になるのか、思考プロセスにおいて、何が停滞要因なのか、停滞要因をあらかじめ取り除いて思考するにはどうしたらいいのか、今まで書いたものを単に並べるだけではなく、大きなB4の紙におくことによって、それぞれのカードがひとまとまりのものと認識され、置いていく順番が時計回りになっていて、起承転結みたいになっていたり、最後は小さなカードではなく、大きな紙の空きスペースに書くのでより広がりのある発想になりやすかったり等々。

 

今回はアレンジバージョンだったとのことで、スタンダードなカードダイアローグの会もまた経験できたらと思う。サトウさんの折々の分析の言葉はとても面白かった。

学びと出会い 

『ヒモトレ革命』を借りた。

shimirubon.jp

小関:弱視の方にヒモトレを試してもらうと、目が見える人と明らかに反応が違います。特に頭の位置に関しては目が見える人より良いポジションをとっていることがわかりました。

甲野:認識することは便利ですが、情報が多すぎて判断に迷うことがありますね。山口さんは耳栓をしたりすることも有効だということでした。目を遮ったり、耳をふさいだりすることで、普段とは違う自分に出会うことができますね。

 そして、こういう”さっきまでの自分とは違う自分”に出会うことが、より本質的なものを学んで行くための方法の一つだと思います。そのために、いろいろ試してみて、その時は役にたつかどうかはわからない部品をどんどん作っておいて、感覚の貯蔵庫にストックしておくわけですよ。

 これは倉庫代もかかりませんし、将来、その部品が思わぬ場面で役に立ったりしますから。そうすると、それまでの自分では予想もつかない技の進展があったりするのです。

 

「役に立つこと」とは何か。

 

先日の投稿で学問が役に立つことのみを追究するならそれは既に知っていることに受動的に従うこと、閉じた世界にい続けることになると思うと書いた。

 

自分のなかに動こうとするプロセスがあり、それを世界と関わらせるということをやめた人間は主体としては仮死状態にあると思う。

 

プロセスは知らなかったもの、いつもと違うものに出会うことで活性化する。焚き火で、燃えさしをかき混ぜるとき、ススで覆われて空気にあたらなかった部分に空気があたる。いつも同じ環境にいては、燃えさしは燃えさしのままだ。プロセスが動き出すためには、ススが落とされ、空気に触れる必要がある。それがいつもと違うものに触れる、同じものとでも違う関わりをするということだ。

 

甲野義紀さんと小関勲さんの対談は、学というものがどのように発展を遂げるのかという視点からも受け取ることができるのではないかと思う。

 

一方、資本主義的な、有用性至上主義、個人からどれだけ有用性を搾り取ってやろうかというような視点からではなく「役に立つこと」とは何かと考える。

 

星の王子さま』で王子が自分の星を出て、地球に到るまで様々な星をめぐる動機は何かを学ぶためと、何か人の役に立つためだった。

 

落語家が笑いを取ることに喜びを感じるというとき、対象がお愛想ではなく本当に笑ったと感じ取ることなのだろうと思う。自分を一点に凝縮して相手に送ったものが確かに受け取られ、喜びとして応答された証拠が笑いなのだろうと思う。

 

星の王子さまが求める「役に立つ」とは、落語家と観客の間で笑いを通して本当の出会いをもつように、嘘や妥協のない、取り繕えない本当の気持ち同士でやりとりするということなのではないかと思う。その出会いがあったところでは、自分と相手はもう前と同じ状態ではなくなっている。

 

自意識としての自分と自意識としての相手とのやりとりは、お互いに相手を大切にする意図を持っていたとしても、いや逆に意図するからこそ本当のものが見えなくなるというジレンマを抱えていると思う。

 

本当のものと出会い、お互いが変わるためには、意図をこえた剥き出しのもの、本当のものと出会う必要があるのではないかと思う。「役に立つ」とはその剥き出しのもの、本当のものと触れることを覚悟したやりとりではないだろうか。

 

昔の新聞の投稿欄にこういう話しがあった。元気いっぱいの大型犬の子犬は散歩のとき、いつも飼い主を引っ張り気味に走っていた。あるとき、我を忘れた犬が思い切り走り、飼い主は思い切り転倒して綱を放してしまった。子犬は勇んで走ったもののの異常に気づき、振り返って転倒して痛がっている飼い主をみて、愕然とした表情を浮かべたという。自分がこれを引き起こしたのだという理解だったのかと思う。子犬はそれ以降、勇んで走り引っ張ることはなくなったそうだ。

 

この話しは、単に手放しで賞賛できる美しい話しではなく、子犬が受けた傷の話しでもあるだろう。だが飼い主は子犬がいかに自分を重要に思っていたのかを本当に知った。お互いの関係性はかつてとは別のものとしてみえている。そしてそこには震えがある。

 

本当のもの、嘘や妥協のない剥き出しのものと触れ、出会うこと、それは傷つきともいえるかもしれないが、それが人を人としていくのだろうと思う。資本主義的な意味ではない「役に立つ」はそういうことをいっているのかと思う。

 

星の王子さまは、かつての居場所にいれなくなって旅に出た。彼は自分が変わること抜きには、どこにも行けなくなっていた。だから彼は本当に自分が変わることを必要としていた。学ぶこと、誰かに役に立つこととは、自分が更新される事態を引き起こすということなのだと思う。

 

巡っていく星々で王子は大人たちに呆れ、彼らと関わることを意味のないこととして捨てていく。王子の情け容赦のない態度は大人たちに変化がはじまる傷を与えただろう。そして王子もまた自分がこの大人たちと同じように自分に囚われ、関わりで何がおこっていたのか何も見えていなかったことを知っていく。