降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

応答としてのDIY 11/21南区DIY読書会終了

11/21日の南区DIY読書会が終わりました。

 

DIYは、主体を取り戻すための手段として意味があると思います。

 

主体を取り戻すといわれて、「ああ、主体を取り戻さなければいけないのか」と義務的に感じるでしょうか。感じるかもしれません。自分は主体を取り戻していないから、DIYしていって主体を取り戻さなければいけない、と。

 

そうすると、そのように考えている自分は主体ではないということになるだろうと思います。すると主体を取り戻した時に、その自分はいないことになるのではないでしょうか。

 

でもおそらくそのようには多分イメージしていないのではと思います。主体を取り戻したと思う時に、「ああ、自分は主体を取り戻したなあ」と実感する自分がいると想像しているのなら、それは単に「主体的である」と思わされ、憧れていた行動をようやく自分が取ることができた、ということなのかと思います。

 

しかしそこでは、行動は変わっても、特定のあるべき姿に自分はならなければならない、という強迫的価値観は変わっていません。

 

僕は、もし主体が取り戻されるというなら、するべきことができるようになったことではなく、そうしなければいけないと思っていたような強迫的価値観自体が消えたときに、主体が取り戻されていると思います。

 

そのとき圧迫され、かたまりきっていたプロセスが自律的に動きだし、やりたいことが出てきたり、やりたいことがこれまでとは変わっています。

 

何かすべきことをもう一つ自分に課するのではなく、既に課されたもの、内在化された価値観をほぐし、変化させるために世界と自分との間に直接の接点を作ることが重要だと思います。その接点を通して見えてくる世界は、自分がそれまで「現実」だと思い、ぐるぐると回っていた自分の頭のなかの世界、閉じた空間のなかにあるメリーゴーランドの世界を更新します。

 

すべきことをするのが主体的なのではなく、自分も知らなかったプロセス、よくわからないプロセスが動きだす状態があるとき、主体的な状態であると思います。そしてその未知なるプロセスを今までの価値観で邪魔したり干渉せず、むしろそのまま進ませるように、カーリングするような気持ちで周りの環境を整えるのが古いものとしての自分の役割かと思います。

 

動き出そうとしているプロセスを動かすために、あるいは動き出したプロセスを止めないために、環境を整えることがDIYの意義なのであって、モノづくりやるべきだとか、もっと主体的に動くべきだとか、自分のなかに既にある強迫的価値観をより上に置いて、自分のなかで動きだそうとしているプロセスを凍りつかせることは、真逆のことだと思います。

 

DIYとは、自分とともにありながら、まだ自分の知らなかった自律的なプロセスの蠢動を感じ、応答していくことであるといえるだろうと思います。その応答は世界の見え方を更新し、古い価値観や信念に支配されている自分をそこから解き放っていくものであると思います。