受難によってこれまでの自分を深く壊されることで、人間としての深い回復の契機を得るという話しをしていました。
深い回復というのは、収入をより多く得たり、うまく生きるということと同じことではありません。適応と人間としての回復が同じものとして語られていることは多く、確かにそのようなこともあると思いますが、人間としての回復と適応は別々のことだと思います。逆に、人間としての選択をしようとするとき、うまくやることとは決別するような選択をするほうが多くなるのではないかとも思います。
受難によって、人間としての回復がおこるとしても、それは世間的な基準ではまるで割りに合わないものだと思います。
例えるなら最低賃金が882円の京都府で一時間働くという代償を払えば、882円はもらえるのが当たり前ですが、回復を労働にたとえるなら、一時間働いて1円ぐらいたまるようなものだと思います。その1円は減らない1円かもしれませんが、それにしても、24時間で24円。一週間で168円といった具合。そのお金で何が買えるでしょうか。回復の話しは、役に立つといったような水準の話しではないと思っています。
これをやったからこうなるはず、といったようなギブアンドテイクの考えはこと回復においては成り立ちません。何の役にも立たないけれど、世界の見え方が変わった。今までより世界の奥行きを感じられるようなった。だからといって、この社会により適応し、うまくやれることとはそれほど関係がない。世間的なとりかえし、とりもどしと回復は別のことであるのだと思っています。