降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

上橋菜穂子『物語ること、生きること』

整体の稽古に通わせてもらっている角南さんのブログで、上橋菜穂子さんが自分自身のこれまでのことを語る『物語ること、生きること』が紹介されていたので、これはと思って図書館でかりる。

 

dohokids.blogspot.com

 

 

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

 

お勧めされたり、第一印象で面白そうと思っても、読めない本は読めないなあと思うけれど、この本は読めた。

 

本のなかで上橋さんは、おばあさんから昔話をずっと聞いていたり、アボリジニの調査に行ったり、古武術を習ったりという実際の経験が物語を書くことの基盤となったというふうに基本的に述べていると思う。

 

その一方で、短く紹介される物語の文章をみるとき、同一人物とは思えないと感じる。何かとシンクロし、同調していて、そこで書いていると感じる。どこかにチューニングした状態で書いたものは自分をこえていると思う。物語は確かにその著者が書くのだけれど、その作家の基本的人格が書いているのではないと思った。

 

精霊の守り人のシーンの紹介がある。精霊の守り人では女用心棒のバルサが水の妖怪に狙われる皇太子チャグムの護衛をひきうける。チャグムは自分の数奇な運命を恨む。投げ込まれた容赦のない状況のなかでの行き場のなさの表現は、バルサにかつての自分自身の姿を思いおこさせたのだろう。

 

 

チャグムの口から、ふいに、堰をきったように悲鳴にも似た叫びがふきあがった。

「いやだ!いやだ!いやだ!」

涙がとびちった。

「くそったれ! なんで、おれなんだ! なんで、こんな目にあわなきゃ、ならないんだ! 死んじまえ、卵なんか! 勝手におれの身体にはいりやがって!」

 宙を蹴り、岩壁を蹴り、あばれくるうチャグムを、バルサが背後からかかえあげて、くるり、と投げた。草地に投げ飛ばされたチャグムは、受け身をとって起きあがると、わめきながらバルサにとびかかった。バルサの身体が沈んだ、とたん、チャグムはふたたび草地に投げられていた。とびかかる、投げられる・・・息がきれ、動けなくなるまで、チャグムはバルサにとびかかりつづけた。ついに起きあがれなくなって、チャグムは草地に仰向けになってたおれたまま、泣きつづけた。

 ひとしきり泣いたあと、のろのろと起きあがり、バルサを見て、チャグムはおどろいた。ーバルサが泣いていたのである。  上橋菜穂子精霊の守り人

 

 

凍った心。バルサが生き抜いてきた環境では、バルサの受けてきた過酷な経験をもう一度自分のものとして浮上させ、終わらせていくような機会はなかったのだろう。バルサは彼女自身の行き場のなさを凍らせたまま、持ちつづけたまま、生きてきたのだと思う。

 

チャグムを抱きしめるでもなく、投げとばしたバルサは、かつての自分自身がしてもらいたかったことをチャグムにしてあげたのだと思う。バルサは、行き場のない気持ちをぶつけるところを作ってあげたのだ。

 

どうしようもない絶望や怒りに駆られるまま、全力で、何の容赦もなくぶつかっていく相手はかつてのバルサにはいなかった。だが、今、自分の実力があれば、チャグムの攻撃を全て受け止めることができる。

 

弱く、脆く、何も頼るものもない、あの時の自分のようなチャグムに対して、その気持ちを受け止める場所を提供することは、バルサにとって、心のなかで凍ったまま存在し続けていた、かつての自分に対しての弔いだったのだろうと思う。

 

 

あと、いくつか抜き書きを。

 

 書いたところをくりかえし直していると、そこからまた新しい芽が出てきます。そして翌日になると、その新しいところをまた直すと、そこから新しい芽がまた出てくるので、それをまた直す・・・というのをくりかえしているのです。

 そうすると、あるとき、登場人物がなにかを言ったのがきっかけで、つぎの展開が開けたりする。その物語を生きている人間たちが、その物語のあるべき姿を生みだしていって、頭の中で最初に想定していたかたちじゃないところに、連れていってくれるのです。

 だから私は、直すことが嫌いではありません。

 毎朝、毎晩、何度も、何度も、くりかえし直しています。

 その作業は、考古学者がうずもれていた化石を見つけだすことに似ているかもしれません。

 たったひとつのシーンに、実は多くものが眠っているからです。

 そこにいる女の子の表情、着ているもの、窓から差し込んでくる光・・・生まれ落ちようとする世界がそこにすでにあるのです。それが見えるかどうかに、物語が書けるかどうかがかかっているのだと思います。

 

 

人がそれまでの自分を終わらせようとするのをみるとき、心が動く。

本当に納得したとき、それまでの自分を終わらせようとしはじめる。しがみつき、とどまるのではなく、手放す。そうでないと、変われないから。

 

 

 

いつまでも「夢見る夢子さん」でいたくないのなら、物語の中で旅をするんじゃなくて、靴ふきマットの外に飛び出して、本当の旅に出るしかない。

 そのことが常に頭の中にあったからでしょう。私は、文化人類学に心惹かれ、やがてフィールドワークに出かけるようになりました。

 ちっぽけな自分を、物語ではなく、現実の広い世界に放りこもう。

 物語を読んで、わかった気になるんじゃなくて、異国に行き、異文化の日常を生きる人々と同じ状況に、自分を置いてみよう。

 現実の世界で、生身の人間と向かいあえば、傷つくこともあるでしょう。それはわかっていましたし、実際、それなりにつらい目にもあいましたが、それはまた別の話。

 それまで、私は、たくさんの物語を読むことで、いろんな可能性に、目を開かせてもらいました。世の中にはさまざまな立場で生きる、さまざまな人たちがいて、その物語をいっしょに生きることで、その人たちの人生を泣きながら、笑いながら、感動しながら、体験してきたのです。それは私にとって本当に宝物のような、大切な体験ではあったけれど、自分自身では何のリスクも負わずに、美しいもの、豊かなものを受けとるだけ受けとってきたのです。そういう自分のことを、ちょっとずるいな、と思っていました。

 ここから先は、物語の中で体験してきたことの大切な部分を、生身の自分で体験してみよう。だから、そう決めたのです。