ここ5年
繰り返すフラッシュバックの直接的な苦痛はだんだんと弱まっていったけれど、この自分が生きていけないという未来に対する恐怖が自分を圧倒していた。
生きていけそうにないけれど、生きていかなければならない。その感じは今は以前ほどではないけれど、なぜそれはあれほど強い感覚だったのだろうか。
生きていけるようにならなければいけない。しかし、生きていけるような状況に自分をもっていけない。恐れがあるのにその恐れに駆り立てられて動くのではなく、かえって疲弊し、緊張し、動けない。
強迫的にゲームやネットと気をそらすことばかりに向かってしまう。そして計画していたり、やろうとしたことができず、また一日が過ぎていく。次こそはと思い、朝起きれば今日こそはこれをしてあれをしてとノルマで頭がいっぱいになるが、結局だらだらと時間をつぶすだけでとりかからない。
思い切った気晴らしをする余裕がない。あれをやらねばこれをやらねばに圧倒されていて、気晴らしの方法を思いつかないし、気晴らしするならその時間をやるべきことに使うべきだという思考になっている。
そんな時間を馬鹿げているなと思いながらその轍から抜けていくことが難しかった。
鈴鹿に行ったりして、日常から抜ける機会を得て、整える時間、自分がどうなっているのかを見ていく時間をもらって、その轍から少しずれていくことができた。
自分ができないことはできない。それで生きていけないのなら仕方がないという感覚が浮上してきた。同時に自分が話しの場を持つということにまるで自信がなかったけれど、やれるのではないかという気持ちが出てきた。
当事者研究というかたちで、三ヶ所でやりはじめた。自分にとって自分の内面を語る場が必要だった。そのことにより、自分の感覚や感じかたは変わっていった。
多少のうまくいかなさもあったけれど、何とか持ち直して必要なことはやれた。内面を語る場、探究の場をもつことで自分は整っていった。
割りとさっと畑にいけるようになったり、気持ちに余裕ができ、強迫的なサイクルを繰り返すときにはできなかったことに手をつけられはじめたりできた。
整いは、新しい状況をもたらす。新しいことをするために新しいことをするのではなく、整いの結果、次にやることが出てくる。そこには今やっていることがつまらなくなる、割りにあわなくなるということも含まれる。
そうしていい意味で成り立たなくなるから、抜本的に考え直したり、次に踏み出さざるを得なくなる。
1年半で当事者研究をやめたのもそのためだ。今は当事者研究は「時間」のワークショップになっている。それぞれの「時間」の話しは、参加者同士に響き、それがまた「時間」を動かす語りを誘発する。今のところは「時間」のワークショップは自分のやりたいことにフィットしている。
整いとは不満足感を浮上させるものであるように思う。底に沈んでいるものを浮上させ、そこに必要なプロセスを与える。
昔からずっと自分のなかにあるのは、あまり何にもこころが動かない感じであり、体験されることが、どれもかすかすの食べものを食べているような感じだ。
かすかすのものを食べ、食べた満足感よりそこに費やしたエネルギーのほうが多いような感じ。手ごたえがなく、生気が抜けていくような感じ。
以前より相対的にはマシになったが、この感覚はいつも僕の基底にある。生きていくなら、これを取り扱っていく。このむなしさ、空疎感のもとを探っていく。