降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

培地へ エージェンシー、自律的な力の作用をアーカイブする

培地へ。

 

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記録映像をみた後、その活動をしている方達のトーク
興味深く、色々と考えることがあった。

 

まず、大学生の時点で、多くの人は他人から望まれるあり方を内在化してしまうという問題。

 

思い出すのがNHKのようこそ先輩という番組の話し。国境なき医師団が先生としてきた時、等身大の小学生達との対話は大変実りの多いものだったという。その何年か後、高校生になった彼らと医師団がまた出会った時、高校生になった彼らはもはや優等生的な答えしかしないようになっていたという。

 

鶴見俊輔は「親問題」「子問題」という概念をつくった。親問題とは、この場合は実の親がどうこうという話しではなくて、人がその生涯において投げ込まれ、それを探りあてようとして、取り組むことになるはずの「自分の問題」であり、子問題とは、言ってしまえば学校など社会が要求する「いい子」になるための問題のことだという。

 

自分を抑え、社会の体制を内在化させてしまった人たちに必要なのは、その自分を縛っている内在化させてしまった価値観をまず解体することであり、鶴見俊輔は、それを「学びほぐし」とよんだ。

 

一旦自分の中に内在化された体制の上に自分を作るのではなく、体制を解体しながら「自分の問題」を取り戻していく。これはなかなか一筋縄ではいかないことだ。

 

ハックルベリー・フィンの冒険」の主人公ハックが、黒人の子と付き合う自分に「罪悪感」を感じるくだりがある。ハックのような自由人でさえ、社会の価値観は内在化されてしまっていて、後ろめたく思ってしまう。

 

このように内在化されてしまった自分に抑圧的な価値観から出ていくためには、何が必要なのだろうか。

 

ゲストの佐藤知久さんは「培地」という言葉を使われていた。そこからは特定の微生物がシャーレのなかで培養液にひたって増殖できる環境を整えられたようなイメージを受ける。

 

佐藤さんは3月に行われた対談で培地について「記録者同士が自分のつくった記録を見せ合う場を作ったり、プロもアマチュアも同じ地平で話すことができる場をつくったり。そういう場で、規制の評価軸とは異なる独自の価値観を育てているんです。このような場を「培地」と呼びたい」と述べている。

 

培地とよばれる、規制の評価軸とは異なる価値観が育つ場では、鶴見俊輔のいう学びほぐしが可能となる場なのではないかと思う。

 

人の変化に必要なのはまず安心安全信頼尊厳が提供される場だ。僕の考えでは、これらは有用性や能力の高低など人を商品のように評価することから離れた場で生まれる。競争を刺激するような場は不適当だ。

 

ゲストで来られていた岡啓輔さんが面白いことを述べていた。岡さんがあまり気に入らないのは、多くの催しの場で、その場にきて欲しくない層の人を値段設定その他で巧妙に排除しようとしていることだという。

 

岡さんの場所には、飲んでいるばかりのように見える人など、社会では「ダメな人」のように見られる人が普通にきていたという。しかも今回のゲストも毎日岡さんの場所に行っていてそれで今の自分があるというふうに述べられていたように思う。

 

岡さんは『バベる!一人でビルをつくる男』という本を出版されたが、糸井重里氏によってつけられた「一人でビルをつくる」というフレーズには寂しさを感じられたという。岡さん自身は、むしろビルは多くの人との対話によって作られていったと実感しているという。

 

 

 

 

 

一方で会場からは、自分がやる催しにあの人は絶対来てほしくないと思う時はあると正直な意見が吐露された。いい場だと思った。信頼関係がないとゲストの言うことの反対を言えたりしないだろう。

 

僕も正直、場を運営する人の許容能力をこえることをやっても破綻するだけだから、自分の力量の範囲で場を持てばいいんじゃないかと思っている。あちらかこちらかではなく、岡さんのような場もあり、自分に程よい場もあればいいのではないかと思う。

 

ともあれ、岡さんが作っていたような場はまさに「培地」と呼べるものだろう。そこで培養液に浸されて生まれた菌を体に満たした人たちは、その菌をさらに増殖させるような面白い活動をやりはじめる。

 

もう一つ面白かったのは、アーカイブについてだ。インドで建物をつくるプロジェクトをやった方は、アーカイブというのは単に映像や音楽や文字記録だけでなく、そのプロジェクトで人と人がやりとりしたこと、作った建物そのものなど、それらが全てアーカイブなのではないかと指摘していた。

 

その考えを聞くと、自分のなかでそれまではそこまで反応がなかったこの言葉が生き生きと面白みを帯びてきた。アーカイブということがどういうことなのか。

 

それは一つは、蓄積され影響を与えるものになるということではないかと思う。この建物をつくる作業一緒にしたという経験は、この経験をしたかしないかで、その後にされる村の人の会話は明らかに変わってくるだろうと思う。影響を与えるものとして、いわゆる一般的な記憶媒体だけでなく、場や人に蓄積され、それが人に影響を与えることもアーカイブなのだ。

 

身体教育研究所の野口裕之さんが興味深い考察をしているのを思い出す。昔の急須は、把手を持つと小指が余る。3本の指で急須をもち、お茶を淹れる動作は、腰に微妙な反りをもたらす。この微妙な反りは精神状態も同時にもたらしていて、野口さんによると、日本人はこの腰の反りがもたらす状態を「佳い」とし、この腰の反りをもたらすように、道具や着物や履物など日常のあらゆるものがデザインされているという。

 

動法と内観的身体(野口裕之

http://keikojo.com/koukaikouwa_schedule_files/1993_doho_to_naikan.pdf

 

野口さんは、文化とはこれが「佳い」という共通感覚のことであるという。その共通感覚はまさにアーカイブといえるものだろう。共通感覚があることによって、自然と作る道具や着物なども、それに適合するものになる。それはリズムのようなものかもしれない。全てのものを共通したリズムにすることによって、人は自意識で頑張る以上の力を発揮することができたりするのではないかと想像する。(野口さんは、残念ながらこのような身体感覚は明治維新時に徹底的に破壊されたというが。)

 

さてここで、僕は人に影響を与える力のことを何とか別の名で呼べないかと思った。影響を与える自律的な力や作用それ自体のことを。(以前読書会でagentかagencyという言葉が出ていたけれど、作用という意味がある。agentは人のことなのかな? ではagencyという言葉を使って考えてみたい。)

 

agency
【名】
代理店、取次店、あっせん所
取り次ぎ、周旋、仲介
代理人、仲介者◆【同】agent
〔政府の〕機関、局
《the Agency》〈米〉中央情報局◆【同】Central Intelligence Agency
〔力の〕作用、働き
《法律》〔依頼主との〕代理関係
言語学》〔動作主の〕動作主性
〔哲学や社会学における〕行為者性、行為主体性

 

 

つまり、人と人がやりとりしたり、対話することによって、作用するもの=エージェンシーが変化したり新たに加わったりする。アーカイブとは、作用するもの=エージェンシーを更新したり、加えたりするものではないかと考えられるかと思う。

 

以前、裸のDIYという催しで大工をされている向井麻里さんが、自分に必要性にあわせて作ったものは単に必要にあうという以上のものを自分にフィードバックしてくるという趣旨のことを言われていたと思う。自分で作ることによって、独特の、おそらくエネルギーを与えてくれるような、エージェンシーが、そのDIYしたものから常時、自律的に発せられるのだ。

 

野口さんの例でいえば、例えば急須に初めて触るような子どもは腰の反りも何も関係ないだろう。だが他のことも全て腰の反りが入るようなエージェンシーが設定されているから、その環境で子どもはそのエージェンシーによって、自然と腰の反りを軸とするリズムを体得(アーカイブ)する。すると今度はモノづくりをするときも、自然とアーカイブされたそのリズムが出てきてそのリズムに適合したモノを作ってしまう。

 

ドキュメンタリーで、coccoが、あなたの音階は沖縄の音階だと指摘されて、自分を知ったという話しをしていたのを思い出す。幼少期から繰り返し体にアーカイブされていくエージェンシー(作用)は、表現や創作にも自然と現れる。これはある意味自意識を超える力であり、このような力が高度な技術を問われるような場合は必要なのだろう。宮大工も子どもの頃から親の動きを見ることによって、知識以上のリズムの調合を手に入れているのではないだろうか。

 

ここで、アーカイブ(取り入れ)は無意識に行われている。そしてアーカイブは無意識にも作用(エージェンシー)をもたらす。アーカイブは何がしかのエージェンシーをもたらす。

 

もう一度、培地に戻ろう。培地に対して僕はその場で佐藤さんに応答した。人が規制の価値観と異なる独自の価値観を育てるような場所を培地というのはわかる。と同時に、この社会では、多くの人が否定的な意味での培地に浸かっているのではないかと。それは先に子問題として紹介したように、社会の価値観を内在化させる培地に多くの人が浸けられているのではないかと。

 

また佐藤さんは、口伝のような口承伝統の力強さを認めつつも、いわゆる記録映像等に残すようなことが重要であり、口承だけでは今の社会に飲み込まれてしまい、対抗できないというように考えられているようだった。これは、口伝による作用(エージェンシー)だけでは足りず、いわゆる一般の記録媒体によるマスメディア的なエージェンシーも必要であるということだろう。

 

一方で、人に必要な変化というのは、マスメディアによる頭だけの作用ではなく、先に紹介したような、岡さんのいる場に毎日行って何かのエージェンシーやリズムが体の中に刻まれ、アーカイブされていくようなことなのではないかと思う。

 

エージェンシーは、凝縮されるものでもあるように思う。岡さんが多くの人と対話して出来上がったビルやまたそのことを書いた本には凝縮されたエージェンシーがあり、それが強く人に影響を与える。芸術作品なども、凝縮され、強度のあるエージェンシーを持っているものなのだろう。

 

(作用のことをわざわざエージェンシーとか、持って回っていう必要があるのかという感じだが、自律的な力の動きや自律的な作用の感じを出したい時、ちょっと作用という言葉では足りない感じがする。エージェンシーという時は、その力自体が主体的であるような感じがあったので。)

 

ウィークエンドカフェの話しも面白かった。知らなかったが、そこではセクシャル・マイノリティの人が多かったらしい。コーヒーは百円だったとか。どのような人でも、誰でも好きなだけ居れて、スタッフは最後の客まで付き合っていたそうだ。ここももちろん培地であっただろう。評価の強迫が消える場所では、学びほぐしは促進する。培地では、そこに満ちたエージェンシーが身体に内在化(アーカイブ)されていくだろう。そして内在化されたエージェンシーはまたその人の周りのものに作用していく。

 

エージェンシーは、単一のものではない。音とか、人とか、温度とか、空気の濃度とか、全てのものはエージェンシーだろう。それを全て把握することはできない。だが、向井麻里さんが自分が作ったものに何か充たされるように、把握できるエージェンシーもある。エージェンシーは自律的なものであり、意識で操作する必要がないので、どのようなエージェンシーを利用すればいいのかを知っていくことにより、状況を肯定的に変えることはできるのではないだろうか。個人の能力によるファシリテーションから、その場にあるエージェンシーを利用するファシリテーションというようなことも考えられるだろう。