降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

逸脱する主体 水道民営化への反応とフランス燃料税への反応

フランスのデモは政府を変え、燃料税の来年中の引き上げは断念されました。

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一方、日本の水道民営化は、そのまますすんでいるようです。水道が民営化された英国では、水道料金が高くて貧困家庭がトイレの水を流すことができないといったようなことを招いているとも聞きました。

 

 

政権のやっていることをみると、「国」というような単位の考え方すらも放棄しているように思えます。国、というより、彼らのリアリティでは、単に勝ち組としての支配層と負け組としての被支配層があるだけのようで、アメリカから戦闘機を2兆円で買おうが自分たちに限れば懐はむしろ肥えるだろうからよいようです。

 

 

水道民営化を否定した北橋市長を「人の税金で大学に行った」と批判した麻生太郎氏ですが、その人の金というのは、自分の金、俺の金という意味で言っていますよね。だから腹が立つのでしょう。自分の金を自分に利さないこと、「浪費」することは許さないという怒りなのでしょう。

 

 

支配する層は自分に影響のある東京付近で原発が爆発でもしないのならば多分それでいいのでしょう。何なら集めたお金を持って海外にいけばそれですむのかなとも思います。

 

 

さて、「国民」というほうも、技能実習生の制度が実質の奴隷制であるのに、そんなことは一部の変わった人、空気を読まない人が反対しているだけで、多くの人にはあまり問題ではないようです。そしてさらには自分の首をしめるようになってきていても、そんなに反応がおこっていません。

 

 

空気を読むということも、実質その場の強い人の言うことを聞いて自分を出さないということであり、場の健全性はそのことによって下がっていくということは問題にされません。いうならば、支配されることを前提として、そのなかでより多くを得ようという発想です。

 

 

無自覚であるかもしれませんが、多勢のメンタリティは、自分を支配されるものとして規定していて、その保身によって、支配する人からより多くのものを得よう、あるいは奪われまいとすることになってはいないでしょうか。そのとき、分け前を奪う「敵」は支配者ではなく、自分の周りの人になってしまいます。

 

 

だからこそ、「一般の人」が海外で人質になった人たちに対して猛烈に激怒し、バッシングしたり、政治家や官僚の汚職より、生活保護を受給する人たちに抑圧を向けるのだと思います。自分を支配するものに対して、意識的に従順な良い子であることを自分に強いて、安全と分け前をより多く得ようとしているのに、潜在的に自分にくるはずの分け前を「フリーライダー」たちが奪い、自分の安定を壊そうとしていると感じるのだと思います。

 

 

多くの人が差別はいけないと聞いていても、そもそも人権とはなんであるのかにはまるで無関心であり、人権侵害に対して鈍感で、「迷惑をかけない」という「道徳」の方が優先なのは、人権がそもそも支配層が支配する者を自分の道具として位置づけて扱うことに対して、人格を持った個人というものを認めさせる反逆であるからだと思います。自分のいる安定をおびやかす反逆などそもそもしたくないのです。

 

 

人の変化とは何か、それがどのようにおこるのかを考えてきて、現状を変えうる反逆者はマイノリティであると思うようになりました。既に疎外され、享受できない人たち、価値を認められない人たちは、我が身の保身よりも世界を変えようとする力がとても強いのです。希望はマイノリティと共にあること、それはひいては抑圧していた自分自身のマイノリティ性を生きることになると思います。

 

刷り込まれ、内在化した価値観は強固です。ときに外の世界を変えるより、自分の内在化した価値観を変えるほうが難しいかもしれません。内在化した価値観に大きく影響を与えられてしまう自分がいます。しかし、そこから逸脱していくこともできます。自分のマイノリティ性、抑圧し、無いものとしていた痛みに対する応答として、自分の周りの環境に働きかけていくとき、それは奴隷としての自分の檻のなかの分け前を守り、溜め込むことではなくなり、自分と周りの人を救っていく働きかけとなります。

 

 

応答は、自分に内在化された価値観に対しても反逆的ですが、自分が解放されていく軸となります。DIYや自律的環境をつくっていくことの意義は、既に内在化されてしまった抑圧的価値観から自分を解放し、周りの人を解放していくことにあります。既知の世界、既知の枠組みに閉じようとすることから、逸脱していく。既知の自分自身という牢獄からも逸脱していく。応答とは、逸脱する主体を取り戻していくことです。