降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

状態と型

自我の確立、「人格」の成熟といったことが目指すべきところであり、そこに足りない自分の自我を自分で切磋琢磨していくのが人間の在り方なのか。「日本人」は自我の確立が足らないから、もっと確立しなければ、なのか。

 

中動態の話しとか、身体教育研究所の稽古やそこでの身体観に触れていると別のように考えられるのではないかとも思う。

 

今読んでいた文章で、操作できる自然、太陽の恵みなど感謝しうる自然ではなく、人の力を無力にする自然、圏外のものとしての自然があり、その圏外としての自然の前に佇むとき、詫び、錆びというような人間としての不完全さが実感されるとあった。

 

圏外の前に佇むときにもたらされる状態は、一種の集注状態であり、整体においても最終的に身体が「整う」のは圏外を前にして自分がしっかり立っているかだという趣旨のくだりがあり、面白いなと思った。

 

国分功一郎さんの『中動態の世界』が話題になったけれど、意思する主体による直接操作や、作り上げられ確立された人格によってではなく、何かの結果として生まれる「状態」自体が物事を遂行するし、確固たる自我を確立するというより、その「状態」を自分に招きいれ、身を置くあり方を身につけることへの意識の移行が個人の閉塞状態を展開するように思う。そのことは、アルコールや薬物依存者の当事者たちの知見の蓄積からも確認されつつある。

 

ヨガのポーズがそれぞれ別個の感情体験や経験を呼び起こすものと聞いたことがあったが、整体の稽古でも型というのは、ある「状態」をひきおこすものだ。その時の自分は動き方や感じることが変わる。

 

インプロ(即興演劇)指導者の今井純さんから聞いた話しで、仮面を作ってそれをプレイヤーに着けると、性格が変わり、食べ物の好みすら変わったという。

 

自閉症だった私へ』の著者ドナ・ウィリアムズも複数の人格を演じるために、特定の食物の大量摂取かあえての欠乏状態を作っていたというようなことを書いていたと記憶しているのだが、何かの構造(その内部でおこる関係性の相互作用のあり方を決定する枠)をつくるによってもたらされる「状態」は人格という水準まで影響するようだ。

 

自閉症だったわたしへ (新潮文庫)

自閉症だったわたしへ (新潮文庫)

 

 

 

その内部でおこる関係性の相互作用のあり方を決定する枠、つまりある特定の自律的なまとまりと自律的な動きをもった作用(エージェンシー)状態をそこに生み出す構造がある。

 

そう考えていくと、西洋的な自我の確立とは自分の内部に強固な殻をつくることであり、それを型として用いていると考えられるのではないだろうか。その殻はしかし、融通性が効かないところがあり、他者とのいい意味での同調をはねのけるものでもある。

 

一方、自我の確立が弱くて、場の空気に流される「日本人」とは、自分の内部ではなく、自分の外部に狙った構造や型をつくることによって状態を切り替え、律しているということなのではないか。それは、「人格」すら変わるような、自律的な動きやまとまりをもたらす「状態」を利用している。

 

だが、その「状態」をもたらすための型なのだということが、明治以後の西洋化による意図的な破壊によって、忘れられてしまった。もはやどの型がどの「状態」を導くのかが忘れられてしまった。しかも「状態」をもたらす型の伝承は、言語による意識的なものではなかったので、防ぐこともできなかった。

 

ごく一部で受け継がれているにせよ、一般の教育におけるような場では「状態」を導くための型を習得するのではなく、自分をコントロール可能な強固な自我を内部に確立するという方式だ。もちろん、この構造自体が型ともいえるのだが、型が結果としてどんな「状態」を導くかは理解されないまま(あるいは操作主体は理解していて権威や決められた枠組みに対して従う訓練をしているのかもしれないが)放置されている。

 

なんだかんだいっても自我の確立(内部の殻の確立)が弱ければダメなんだということではなくて、「状態」をつくる「型」という視点とその伝承が奪われていることが問題なのではないだろうか。もしある「状態」をつくる型を知り、それを切り替えできるなら、自分の内部に強固な型を作らなくても自律的であることができるのでは。自室で勉強できなくても図書館なら勉強できるように。

 

この「型」は、目に見えない構造にもあてはまる。たとえば、人間は閉じ込められた状況では自然と弱くなり影響を受けやすくなる。学校に9年間「行かなければならない」という型は、実質閉じこめる(ここから逃げることができないと思わされる)ことだと思うのだが、こうしてよびおこされた「状態」による影響が内部で固まって内部の型をつくるまで浸透し、力に対してより従順な人間が作られるとか。

 

それならばどうしていくか。一つ一つの型とそれがもたらす「状態」を発見し、それを生きた人と人の間で記憶し、増やしていくという何年かかるかわからない地道な作業をしていくしかないのかもしれない。ただざっくりとした型とそれがもたらす「状態」は知られている。それらの型を自分たちに取り戻していく。