学びの森のユースフォーラムに出て、生徒さんたちが自分の軸で社会や自分自身のことを考えられることがとても印象に残った。
学びの森における教育は対話であると考えているとのお話しもあった。安心安全信頼尊厳を提供しあう環境においてもっとも学びが進むとは思っていたけれど、今、そこにおいて欠かすことのできない要素は自己一致ではないかと思うようになった。対話が成り立つ環境においては自己一致が深まる。
自己一致は、自分自身の感情や感覚の動きをある程度の深さ以上モニタリングできていることだと思うけれど、自分に無理矢理何かを強制したり、感じまいとしたりするということを続けると乖離が激しくなる。乖離が激しいほど自分が本当は何を求めているのか、自分の気持ちはどうなのかがわからなくなるし、そこに近づくのに時間がかかる。
自分が自分であることを維持することはとても難しいことだ。多くの人が自己一致の深さを失いながら生きざるを得ないことになっていると思うけれど、機械的にハードディスクにデータやアプリをいれていくような教育では、入れられたデータやアプリは自分に根付かず、整理もできず、統合がなく浮遊した残骸のようなものになる。
自己一致は、バラバラなものを統合する役割を果たすが、自己一致していないなら入れられたものは統合され方がわからないまま浮遊する。自分に統合されず、生きたものとして根付かせられることのないことの取り入れは学びとは言えないのではないかと思う。
今行っている整体の稽古では、視覚的に見える体と目をつぶった時に実感される体は別物とされる。目をつぶった時に両手を前に出すと、どちらかの手の方が長く感じたり、太く感じたりするということがおきる。そしてこの後者の感覚される身体の方を軸として体というものへの認識を再構成する。
右手が長く感じるのを左手と同じようにしなければと矯正対象にするのではなく、実感される感覚のもとで体を捉え直していくことで体が整っていく。視覚的な身体を軸とすると、体は整わず、むしろ乖離がすすむ。
乖離した状態で身につけたことは、学んだとはいえないものだろう。それはむしろいらない残骸のように余計なものとして体に居続けるだろう。
乖離の前の状態に戻ることがまずは学びのスタートラインに立つことなのだと思う。