降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

続・自己一致について

先に自己一致について書いたけれど不十分だった。自己一致は単に自分をモニタリングしている状態にとどまるものではなく、応答を伴わなければならない。何かを感じていても、それに対して応答をしなければそのことによって、まるで感じ方の構造が変えられてしまうように不信状態に陥る。自分に感じられるエネルギーは弱まり、自分は小さく受動的に感じられる。

 

日々の一瞬一瞬で選ぶこと。それによって自己一致の深さは変わってくる。リスクがほとんどない状態では、ある程度までの自己一致の深さを得ることができる。だが、それ以降は周りや社会に直接対峙する必要が出てくる。摩擦のないところまでいっぱいになったあとは、摩擦がある世界しかない。

 

否定されたり、抑圧されたり、傷ついたりするリスクを負い、それでも自分として生きる。より自分自身であることは簡単にはできない。しかし、その選択をしていった人たちの後ろ姿をみることはできる。

 

ある程度回復したり、元気になったりした後、なぜ停滞するのか。リスクを負うことをしないからだということになるだろう。より自分自身であるためにそこからリスクをおかして自分の求めに対して応答していくことが必要になるのだ。

 

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(ガンジー