降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

回復と欺瞞的凝固 学び 対話的存在としての人間とDIY

3日の国際障害者年連続シンポジウム、裸のDIY、4日の京都ユースフォーラム2018私の学び みんなの学び、その後太鼓のワークショップをされている新川哲弥さんとの対話。回復、学び、対話というテーマについて多くの示唆をもらえた週末だった。

 

深く傷ついた人は深い回復にむかう歩みをはじめる。しかしそれはたどり着くことが約束されているわけではない旅だ。生活保護を3度断られ、認知症の母親と心中を図った男性は死に切れず、裁判を受け、そして彼の惨状は世間に認知されたにも関わらず、その後橋から飛び降り自殺したそうだ。裁判後の社会からの彼へのサポートはどのようなものだったのだろうか。

 

深く傷ついた人は回復のために他者と今まで違ったあり方で関わり、出会うことが必要になる。回復は一人の力では成し得ない。回復とは世界との関係性の紡ぎ直しであり、個人内で完結することはない。

 

逆にいえば、世界から傷つけられることなしに人は深い回復に向かうことができない。傷つけられることによって自分が持っていた痛みを知る。痛みがあるのにそれを無自覚に埋めて感じないようにしてしまうのが人の業であるように思う。ある程度の安定つまり無痛覚をつくりその状態に固まり、無理やりとどまろうとする。それは欺瞞的な安定であり、欺瞞的な凝固であるだろう。揺り動きや痛みを忘れた今の自分とは、もし深い回復という視点から見るならば欺瞞的凝固の状態なのだと思う。

 

生きものは、あるべきバランスを崩そうとする力に対して強く反発する。生きる力とはその力のことだと思う。屋久島の杉が大きく長く生きるのは、土壌の薄い岩盤という危機的状況で、それでも生きようと反発する力で根を伸ばすからだと聞く。肥えた土に植えられた杉はある程度の年月で腐るそうだ。

 

無理やりのバランスである欺瞞的凝固をひきおこすのもこの反発力の作用であり、同時に深い回復をおこすのもまたこの反発力の作用であるように思う。後者が欺瞞的凝固に向かわないのは、小手先のものではもはや通用しない欠落があるためであるのだろう。だがこれは危機的状況であり、生き続けることも挑戦となる。そのような人に対しては支えが必要なのだ。

 

そこでもし人間としての尊厳と必要な世界との出会いの機会を提供され続けるなら、長い時間や多くを捧げられた結果、周囲の環境とともに深い回復をおこす。それはその社会に一時的ではない質的変容をおこしうる。

 

学びの根源的動機も自身の深い回復に根ざすものであるだろう。人は自身の認識の檻のなかに閉じ込められている。そこから見える世界の風景は更新がおこるまで変わらない。それはメリーゴーランドに乗っているようなものだ。学びとは、そのメリーゴーランドから見える世界、感じられる世界を更新する出来事だ。

 

学ぶとは出会いに向けて対話をすることであるだろう。それは自分を開き今までと違った関わりかたで対象とやりとりすることであり、それによって認識の更新がおこる。対話が対話として成り立つためには、お互いがフラットであり、お互いが尊厳を提供しあっていること、お互いが相手に対して開かれていること、お互いがそれぞれ自分自身であることが必要であると思う。

 

裸のDIYには短い間しかいられなかったが、向井麻里さんがDIYによって調整し、自分の状態に本当にフィットするものは、ただ快適であるという以上の満たしをくれるという指摘をしていて、それが興味深かった。

 

人とは対話的存在であり、意識的、および無意識的な対話の反映として現在の自分の状態があるように思える。モノとしての環境があり、自分は無意識であっても、その影響を常に受けている。様々なモノがあって、それらのモノとの関係性の織り成しとして、それらの対話の反映として自分の状態が現れる。だから部屋やモノなどに対して働きかけ、変化させることによって如実に自分の状態に変化がおこる。

 

もちろん自分の状態はモノだけでなく、自分に内在する記憶や認識によっても影響を受ける。古い記憶があり、今までに構成してきた認識があり、人はそれら内的なものがどのようにポジショニングされているかによって大きな影響を受ける。そのポジショニングが変わることによって、認識は変わり、世界の感じられ方も変わる。DIYとは、直接自分の外のモノを変化させるだけでなく、自分の内的な認識を変えるところに大きな意味があるのではないかと思う。配置されたものとの対話の反映が、現在の自分の状態であるのであれば、その状態をよりよいものに変えるためには、直接的なモノとのやりとりが必要になる。そして内部の認識が変わったとき、自分はまた別のものになっている。

 

認識が更新されることによって、メリーゴーランドの周りの風景は変わる。だがその風景も固定的なものでありまた古びていく。自意識が認識できるものは固定的な記憶でしかないのだろう。学びという繰り返される更新によって、自意識は閉じた認識の檻に閉じ込められることから、世界との関係性を紡ぎ直すことができる。

 

新川さんとの話しで教えてもらったことは、世界や他者の存在は、傷つけ、深い回復へと向かわせるという役割だけでないということだった。太鼓の練習においては、自分一人でやるよりも他人との関わりのなかで一人だけでやるよりも速やかに自分のあり方や適性が発見されるという。ユースフォーラムで話しを聞かせてもらった生徒さんも、学びの森という対話環境に身を置くことで自分の輪郭を知っていったと述べていたのを思い出した。

 

新川さんはまた、アフリカに行かれた時、親たちが子どもの音感、リズム感に対して周りが全く干渉しない姿を見たという。子どもが自分のやり方で音を出している時、歪みやズレがあったとしても、子どもが自分なりに存分に様々なあり方で満足し、心ゆく音との関わりを続けるならば、やがて獲得された自分なりのあり方のバリエーションの一つとして、「正しい」とされるあり方に最も近づける音が出せるようになるという。子どもの存分な探究がまだない状態で周りからの干渉で苦手を矯正されることは、おそらくその子どもから多くを奪い、変化の次元を下げるのではないかと思えた。

 

対話的存在としての人がどのように学び、変化していくのか。あるいは欺瞞的凝固を乗り越え、回復していくのか。今までより少し見え方がはっきりしてきたように思う。