降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

心のなかの箱庭

箱庭療法で人形とか家とか色んなおもちゃを箱の砂の上に配置していくとき、置いていくそのおもちゃには自分の心の世界のなかのそれに対応するリアリティが喚起されている。

 

自分自身として箱の中におくおもちゃを選ぶ時も、人型のおもちゃを選ぶ人もあれば、アヒルを選んだり、木を自分として選ぶ人もいるかもしれない。重要なのは、自分にとってのリアリティを喚起するものだろう。

 

選んだものをどのように配置するか。別のおもちゃとどのように関係を持たせるか。自分で変化させることができる。

 

生まれてから記憶され、自分の心の中に作り出されてきた世界を、仮に箱庭のような世界だととらえてみる。その世界でそれぞれのおもちゃの配置は決まっていて、各自その場所でとどまっている。記憶のなかにおいて、世界はもう何もかも場所が決定されている。ものや人に対する感じ方は、自分のなかで決定されているところがある。

 

その配置が更新されるのは、ある対象がもつリアリティを喚起されながら、それが動いたり、変化したりするのを見て、体験することだ。リアリティが喚起されない状態では、心の中の配置は変わらない。

 

昔、探偵ナイトスクープルー大柴似の祖父を亡くした孫が祖父を恋しがって泣くのでお母さん(祖父の娘)が探偵に依頼し、ルー大柴を派遣するという回があった。孫はルー大柴と料理を一緒に作ったり、お馬さんごっこをしたりした。娘が本当に楽しそうな姿をみる母親と祖母。母親にとっては厳しくあまり仲がよくなかった父、祖母にとっては夫だった祖父。そこでは、三者それぞれにとっての心のなかの祖父の「配置」が更新されていただろう。それほどフォーカスがあたっていなかったが、中学の娘という媒介を通して父と和解する母親の物語もそこにあった。

 

自分も四国遍路において様々な人に出会ったが、それらの人は、あとで振り返ればまるで自分にとっての祖父と生前とは別の形で出会ったようだということがあった。旅は自分の心の中の世界をめぐり再体験しているようなことでもあるのだろう。

 

人は、特定のリアリティを喚起させるものを媒介にして心のなかの箱庭の世界を変化させようとしているように思える。子どものころの無力さや、酷く刻み込まれた体験。そのことで心のなかにできあがった世界の配置を更新することが、たとえば何か仕事が出来るようなることや「成功体験」だったりするのではないだろうかと思う。

 

もちろん箱庭のようなものでもリアリティは喚起されるのだが、それでどんな配置でも自在に更新できるかというとそうでもないようで、心のなかに強固に出来上がった世界の配置を更新するためには、それに相応した強いリアリティを喚起させながらそれを移動させていく体験が必要であるように思われる。

 

心のなかの世界の配置を変えることは、やり直すことであり、生き直すことのようになる。それはとむらいの用でもある。自分と同じような苦しい体験をした人を助けること、そういう人に本来自分が与えられるべきだった尊厳を提供することは、自分の内の世界の配置が作られた時のリアリティを喚起させながら配置を更新していくことであると思う。

 

薬害エイズ当事者の川田龍平さんのように、自ら議員となり、制度を変え、自分が生きている社会そのものを変えていく存在になるようなことは、より深い水準で自らの内の世界の配置を更新していったということであると思う。それは自分にとっての社会、世界の見え方、感じ方を変えていく必要があったほどそれは深い苦しみであったということでもあると思う。

 

ある行動や活動にやり甲斐を感じ、別の行動にはあまりやり甲斐を感じない。それはもしかしたら前者の行動には自分の心の中の箱庭の配置が変わる可能性があるもの、配置が動くリアリティを喚起するものであるのではないだろうか。世間的な損得勘定とは矛盾さえするような活動、しかしそこに向き合い、閉じ込められた既知の世界から踏み出すとき、ゆっくりと動き出し流れてくる力がある。

www.nicovideo.jp