降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成過程2 回復と学びの区別

使っている言葉をあらためて整理する。

学びと回復はどう違うのか、とか自分でもパッと分けれなかったので。

 

回復とは、一つには自身、他者、世界の受容の過程と考える。たくさんの条件を備えてようやく自身を受け入れられる状態からだんだんにその条件を必要としなくなっていく状態への移行だと思う。生の意味づけ、世界観が変わっていくことによって自分とは何かが変わってくるだろう。他者を否定しながら自身を肯定することはできない。自他への信頼は同じものであると考えている。

また世界観の変容が伴わないが、単純に弱った体力が回復して元気になるようなこともまた回復とよべるだろう。そのように弱ったものが元に戻るような、既にある器に水が満ちるような回復と今までの器自体が変容するような深い回復がある。

 

人が持つジレンマは、生きものであることのジレンマであるかもしれないが、一人では今の器自体を変容させるような深い回復に向かいづらく、一人だと安定の固定化が優先となり、刺激や別の埋め合わせをしてしまい、回復に必要な自身の痛みや揺らぎを感じなくしてしまう。この間に合わせの安定は欺瞞的なものであり、不安定を感じつつ押し殺すようなことで、歪みを蓄積していく。その自分自身による疎外を破綻させる役割が他者や世界であり、人は世界に傷つけられることによって危機状態に陥り、場合によっては生命さえ失うかもしれないが、より深い回復の過程にも開かれる。回復してはまた傷つけられ、生きるバランスを崩されることによって、回復は深まっていく。

 

回復はこのような構図のもとにあるようなので、往々にして深い回復を遂げていくのは受難のような出来事にあい、向かいあわざるを得なかった人や生れながら深い傷つきと深刻なプレッシャーを抱えている人のような、いわば既に突き落とされてしまった人となる場合が多いのではないかと感じられる。だから個々の人や家族が自分たちだけに閉じ、また孤立するような社会、「他人に迷惑をかけない社会」では、全体として人は自己疎外に邁進していくだろうと思う。

べてるの家向谷地生良さんは、本など読むと、学生時代にこのままでは自分は救われない、ダメになる(←大意。)と思い、あえてアルコール依存症の方に関わるタフな現場に自分を投げ入れたようだった。しかしそのケースにしても単に強い意思や明確な理性でそうしたというよりも、既に深い実存的な危機に陥っており、その重圧にあったと考えたほうがいいのではないかと思うけれど。

ダルク女性ハウスの上岡陽江さんは、「回復とは回復し続けること」というふうに言われている。被支援者が回復し、支援者にまわることはある意味、到達した欺瞞的安定を破綻させるという機能もあるだろう。傷ついた人に関わることで、自身の欺瞞を破綻させられ、痛みを取り戻しながら回復の契機をもらう。当事者性、自身の痛みの存在を感じなくさせた支援者は、自身の痛みの上にさらに厚塗りをして感じなくするために人に関わるので、搾取的になる。支援するということ、その底にある動機に目をつむり、後ろめたさを持たずに誰かに関わることは何かを与えること以上に奪うことになるのだろう。

 

ゆるゆるスローなべてるの家―ぬけます、おります、なまけます (ゆっくりノートブック)

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一方、学びとは、パソコンのOS、オペレーティングシステムの更新のような出来事であり、世界の感じ方、実感のされ方が変わる事態だ。世界の奥行きが広がり、新鮮さが戻ってくる。学びのない生は、風景の変わらないメリーゴーランドに乗り続けているようなものだ。世界の見え方が変わることなど、回復とかぶるところは多い。回復と呼ぶ場合は、生への信頼の回復のことをさし、そこに直結しない世界の見え方の更新を学びとよぶことにする。

また学びは安心、安全、信頼、尊厳を提供される場でもっとも活性化する。よって学びの場はコミュニティを派生させる。派生したコミュニティはまた学びにとって整えられた環境となるので、また学びが活性化する。

 

しかしこの社会において、回復のためのコミュニティなどと銘打つとどうしても負の影響が出るような気がする。回復より学びのコミュニティとしたほうがその点はまだいい意味でドライになり、適切な距離感を持てるのではないかと思える。回復自体を目的化するよりも、最もいい学びの環境を追究することで、回復は派生してくると考えて設定するほうが健康的であるように思える。


学びがちょっと中途半端な感じがありつつ、今日はここまで。