降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

三好春樹『関係障害論 老人を縛らないために』 

大阪のオムツ外し学会の時に買った三好春樹さんの『関係障害論』、年末年始の時間で読みました。

 

 

デイに来る必要がないくらい軽度の人に対して「何でこの人が来るのだろう?」と疑問をもっていた時、その人の家にいく機会があり、家族のその人への日々の態度が冷たいことを著者が知った時、ああ、この人は来たほうがいいと思い、それ以降心から「いらっしゃい」と言えるようになったというエピソードが心に残りました。

 

職を転々としていた著者が、偶然の流れで介護の仕事に出会い、そこでの仕事が今までいたような効率主義、進歩主義の職場とはまったく別のものを感じたということ、関係性を抜きにして人を物体として扱う科学主義、衰えるものの価値を認めない進歩主義が支配するこの時代にあって、そこに反逆し、アカデミズムの硬直性からも抜け、生きた介護のあり方を確立したことは、一人の人間の生き方という部分でもとても興味深かったです。

 

実践が先にあり、その困難を解いていくために、様々な知見を自分なりに取り入れ、組み合わせていくブリコラージュという考え方は、介護分野に限らず、在野において、生きた関係、生きた世界に向き合い、探究している人たちにとって共通するものだと思います。

 

三好春樹さん、武術家の甲野善紀さん、環境改善の矢野智徳さんといった、自分自身の感性に根づいて、時代の硬直的な思想を抜けていく実践家がいると思います。でも、おそらくそうした高い水準の感性や実践のあり方が受け継がれるということはなかなか難しいのだろうなと思います。

 

実際に効果があったり、素晴らしいものであるということだけでは、世間に認められ、受け継がれていくには不十分なようです。それが世間の仕組みなのですね。いいものであっても、そういうものは、一部の人だけにしか見向きされず、もともと力を持っていて自らを正当化する「主流派」に押しやられていくようです。

 

権威、権力というのは時間を止めるもののようです。古いもの、本来であればもう更新が必要なものをそのままに維持するのが権力なのだと思います。

 

フィンランドの対話の手法オープン・ダイアローグにおいて、その対話実践が「政治的なものである」と言われるとき、「政治」とはそこにあって構造を固定化している権力、力の流れを打ち消す働きかけを指しているものだと思います。本来「政治」の意義とは、放っておけば強いものによって抑圧されたままになってしまう新しい可能性が展開することを守ること、やさしさを生むための力の流れのコントロールであるのではないかなと思います。

 

『関係障害論』では三好さんが選んだ本が幾つも紹介されていました。竹内孝仁さん、浜田寿美男さん、西本多美江さんなどの書かれた本です。次はそれを読んでいきたいと思っています。

 

医療は「生活」に出会えるか

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ほんとに保健婦

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