降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

魂の檻から抜け出ていく カフェパラン アンソロジージン投稿転載


ここ6、7年ほど、週に1、2度夜勤のバイトをしながら、畑で野菜を自給し、話しの場を作ったりするなどの暮らしをしています。ネットなどをみると、農という字は「林」と「貝」から成り立っているらしく、貝をうちかいて木の先につけた農具で田を耕すことなどと書かれていました。

 

僕の実家は農家ではありませんが、祖父と父はずっと畑をやっていて、それをたまに横でみていました。虫や小動物に関心があった僕には、耕され、日にさらされた土の上にはあまり生き物がいないので、面白みのない退屈な風景だなと思っていました。

 

農には関心がありませんでした。その自分が京大農学部の近くにあった「畑のみえるカフェ おいしい」の糸川勉さんに出会い、彼の自給の思想と農法に触れ、畑をはじめました。自給の視点に、行き詰まった自分のあり方や世界の見方を変えていく手がかりを感じたからです。 

 

農は元々の狩猟採集生活から移行して定着したものです。その日限りの不安定な生からまとまった食料を自分の周りに育て、安定を確保するあり方。それは、農地というナワバリの防衛や作物が取れる状態の維持のために費やす労働や葛藤などの代償をもって、生きることを「買う」こと、「所有」することでもありました。

 

農は富を蓄積させ、社会が大きな権力を持つものと支配されるものに分かれていく構造の基盤にもなりました。農的生活が人の本来の、本質的な生き方のように言われるときもありますが、僕は農のもつの罪深さや強引さを踏まえず正しいあり方のようにみなすことには疑問をもっています。

 

その見方は組織やシステムのために弱いものや環境が犠牲になることに無感覚になっていく社会の心性と繋がっているのではとも思えます。そして現代においては、農「業」となった農は、資本主義経済の理屈で、車の輸出調整のために犠牲になったり、市場の下請けとして自律性を失い、本来は国や社会などのシステムが背負うべき大きいリスクを個々に背負わされる不当な隷属的地位に置かれています。


 現代は普通の生活をしているだけで自然にそのお金が個々人に見えにくいかたちで、暴力の源になっている多国籍企業に吸収されてしまう社会構造を持っています。そして力を持ったものが近代焼畑農業のように環境や人の再生産する余力まで絞りつくして構わないと高を括れるような様相です。


糸川勉さんは学生時代にそのような農業の現状に絶望し、農から一旦離れ、その後また有機農を学ぶことを通しながら、自給というあり方を発見しました。食べるものを直接作ることは、生きることに自律性をもたらすことにつながり、資本主義経済が暮らしの丸ごとを規定している状態からスライドしていくことを可能とする基盤をつくります。

 

山口県祝島原発を作らせないための運動が30年以上続けられている背景の一つには、食べものに加え、家や船までも自分たちで作れるという住民の高い自給度・自立度があったとも聞いています。この社会で、自分が自分であるため、自分たちが自分たちであるためには、身体的・精神的に生きていくために欠かせないものは、自分たちでつくりだすことが必要だろう。祝島の事例から僕はそのように思えます。
 

 

ただ、環境問題でもそうですが、このような話しをするときに、食料とか資材とかインフラとか、モノの循環構造だけに話しが収まってしまい、そこに生きる個々の人間が何を求め、どう生きたいのかというようなことが消えてしまう傾向があります。明言はしなくても無自覚であっても理想的な構造のために個々人は誰かが考えたあり方に従順に、節制的に従っていればよいというような。それはつまり理想的な構造のために人をモノとしておいているということではないかと思います。

 

環境とは自分以外の周りのことであり、自分がどう生きるかということをあらかじめ除去している言葉です。そこには「個人」とか「自分」とかはない。専門家によってイメージされる「全体」のために個がどうすべきかしか提示できない。「エコ」は、あたかも人がどう生きるべきかを提起しているようにもみえて、実のところ、モノと同じく個が消されたモノとしての人しか対象にしていない。「エコ」は思想でも哲学でもなくデータ。どう生きるかは「エコ」や「環境」を主語にせず、それぞれの個々が考える必要があります。
 

 

僕自身の社会問題への関心は、PCB汚染などの環境問題からはじまりました。人がやっていることの非道さ、そしてそこに荷担している自分に対して、そこがどう変わるのかという問いを持っていました。そして自分なりに確かめていくなかで、人が変わるということは、人が回復するということであり、人としての回復なしに、自然環境の改善などはないのではないか。まず人としての回復があり、それがあるところに環境改善は派生的に生まれるのではないか。

 

そう考えたとき問うべきことは、人としての回復とは何か、そして回復はどのようにおこるのかになりました。
 回復や変化がおこる状況を探っていくと、人は自分に内在化させている、誰かにとっての自分の有用性、利用価値から解放されるときに回復し、変化がおこるということがみえてきました。常にその有用性と利用価値に強迫される場から離れた場を整えると、解きほぐしがおこり、自分も無自覚だったような、自律的な回復への動きが浮かび上がってくる。その自意識をこえた自律的な動きを派生させるための環境づくり、環境の整えが必要なのだと思いました。

 


誰かにとっての有用性や利用価値をもって自分に価値があるとなっているアイデンティティをスライドさせていくことは、そのまま個として生きることに繋がっていきます。個として生きることは、堆積され、固まっていく自分の内外の既成の秩序に対しての反逆としてあると思います。

 

既に決められているもの、強い力で維持されているものに対し、反逆し、相互作用をおこして、別の秩序を生み出していく。かつて好き勝手な徴税や生殺与奪の権を持った権力者に対して反逆し、強い波のように押し寄せてくる過去の秩序へ戻してしまおうとする力を押し返し続けながら生み出され維持されているものが個人であり、人権であると思います。

 

個として生きるということは、ある力の理屈によってかたちづくられていた既成の秩序に対する、あるいは同じく力によって今かたちづくられていく秩序を変えていく反逆だと思います。
 自給とは、食料やモノの流れだけに焦点をあてた「循環型社会」の話しではなく、この世界に別の秩序を生み出し、重ねていく営為です。

 

自給は、現代社会のなかで個々人にあてがわれる身体的檻から脱していく基盤づくりであり、その実践自体がこの社会構造のなかで内在化された価値観、今の自分が入れられている精神的檻から脱していくリハビリです。用意された環境に当てはまることから、自分がデザインする過程に生きていく。振り返れば、生きものは元々の生息場所である海から陸へ上がり、空へと展開していきました。生きること自体も、自然や社会という環境自体を自らの関わりによって変質させていく反逆だった。自給はその生き物としての反逆性を取り戻す営みといえるかと思います。

 


Sting -The soul cages (1991)