降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

MAP哲学カフェ「話し合うとは」に行ってきた

MAPカフェの哲学カフェ「話し合うとは」に参加。

www.facebook.com


話し合うとはどういうことかを話し合う。


哲学カフェは初めての人もいて、テーマはとっかかりが難しかったようだ。話し合うということのなかで、話題があっちこっちに飛ぶ。自分の話しを延々とする人がいたらどうしたらいいか、それにどう対応すべきか、日常で話しの腰を折ることを懸念してずっと聴いてしまって疲れるからどうするか。「建設的」な話しをするときにズレた話しが出たときはどうするか、等々。



会議のような話し合い、町内会の今年の地蔵盆をどうするかみたいな話し合い、個人の内面的なものを表現する話し合い、1対1の話し合い。意図して場を持って話しをする場合とそうではない日常で偶発的に起こる話しをする場合。

 

 

文脈や趣旨の異なる個々の状況に対してどうすればいいかを検討しはじめてしまうとなかなか「話し合う」ということ自体を問えない。どこに焦点を当てればいいか、なかなか難しい感じだったけれど、2時間もやっているとそれなりにだんだんと収束してきた感じになった。

 

 

参加者のコメントで、昔、自分からなかなか話しをしなかったのは、自分が話したことで人が話すことを聞きたくなかったからだということに気づいたというものがあった。またある程度年齢を重ねると人が話しを聴いてくれるようになったという話しもあった。

 

 

振り返ってみて、他人事ではなく、自分ごととして記憶に残る体験、ある程度の強い思いがある体験が話されるとき、あるいは今の話し合いのなかではっとする鮮やかな気づきをしたとき、そのことが場に影響を与えていたと思う。場に散発的ではない自律的な方向性やムードが生まれる。

 

 

自分たちが哲学カフェ的な場をやるときは、A4の紙とマーカーを配って、一問一答的にやっている。「話し合うとは」というテーマなら、「話し合う」という言葉をきいて自分がまず思いつくこと、こういうものかなと思っているイメージを書く。全員がそれを発表して見渡す。その共有のうえで次の問いにうつる。それぞれの人が一旦自分の考えを整理し、吟味する。

 

 

僕は哲学カフェ的な場をやるにおいて、基本的な考えは林竹二によっている。自分のなかで曖昧なかたちで認識されているような概念・言葉(自立・成長・受け入れるとか。)に対する現在の認識が吟味され、その曖昧さや他のものとの不整合や矛盾が明らかにされ、自分がどう思おうとするかなどという意思とは関係なく、もはや以前の認識が成り立たず棄却されてしまうということが重要だと思っている。それが自分が更新される事態であり、学びであると思っている。「新しい知識」を得ても、それが古い認識の棄却を伴わず、ただの付け加えでしかないなら、それはまだ学んだとはいえないと考えている。

 

 

吟味が行われている時、探究が行われていて、気づきが生まれる。透明な湖があり、湖の底に何か模様が見える。湖の上から見ているとそれはZのようだと思っている。ゴーグルをつけて湖に潜り、その模様がなんであるかを確かめるために近づいていく。模様を確かめた時、その模様がZであるよりはAであると認識される。すると今まで何を考えるにも、Zという古い前提のもとで思考されていたのに、確かめられた後はいつもそれはAとして思考される。逆に言えば、ある言葉や概念に対する認識が古いZであれば、Zを前提にしている限り何をどれだけ考えても必ず間違った結論が導かれるということになる。

 

 

僕は自分たちでやる哲学カフェは、言葉を一つ一つ整備していくことをしていると思っている。言葉の疎外は根深い。「考えるな感じろ」というふうに身体の繊細な自律性を深く感じ取り、委ねることによって必要なことを満たせ、自分の状態を更新できるのは『バカボンド』の小次郎のような天才であって、普通の人が言葉を整備することなく感性と体に全部お任せでいいんだと高を括るのは危ないと思う。その感性だと思っているものが実のところ思考だったりする。

 

 

さて、今回の場では、話し合いが成り立つには「聴くこと」が重要なのではないか、今度は聴くことをテーマにやってみようというような話しになった。話し合いとは何か、対話を通して吟味が行われ、必要なもの、あらためて関心が向くことが生まれた。

 

 

話しをするとはどういうことなのか。話しをすることを通して何がおきていて、話している人は話すことを通してどこに行こうとしているのか。こういうことを考え、確かめられる場は圧倒的に足りないと思う。自分にとって重要なことを湖の上から見ているだけにしない。話し合うとは何か、対話するとはどういうことか、聴くということはどういうことなのか、水底に近づき、自分の目で確かめにいくことが必要であり、このテーマで哲学カフェが様々な場所でされることの意義は非常に大きいと思う。

 

終了後、その日は「おとな食堂」があり、美味しい野草の天ぷらをいただいた。

www.facebook.com

 

※林竹二は吟味のすえに古い認識が真に否定されることが必要だと考えていたが、『からだ=魂のドラマ』に収録された竹内敏晴との対談において、吟味は必ずしも口頭での話し合いによるものではなく、ただ会話するだけとか、みんなが色んな意見を言ったからよかったみたいなことは意味がないと指摘している。林の授業は準備に多くの時間がかけられており、人間とは何か、生きるとは何か、文化とは何かという根源的なテーマに対して、その授業構成自体によって、それまで持っていたような認識がもはや成り立たないところまで受け手をもっていってしまうことが企図されていた。

 

 

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために