降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

アズワン・コミュニティ 「自分を知るためのコース」に出る

鈴鹿で6泊7日の合宿。

「自分を知るためのコース」というのに出る。

コースは8種ぐらいあって、他は「人をきくためのコース」とか「内観コース」とか色々ある。

鈴鹿でおこっている人の変化のあり方に興味をもち、自分もとりあえず一通り入ってみるかと去年から時々入り始めた。前も書いたけど、コースは哲学カフェをずっとやっている感じ。「知る」とはどういうことかとか、「感覚とは何か」とか、テーマが出されてその場を囲む人で吟味していく。

 

kurahate22.hatenablog.com

 


アズワン・コミュニティのあり方を垣間みた僕の最初の感想は「へー、哲学カフェをずっとやってたら実際の感じ方や認知という水準で認識が変わるんだ」というものだった。哲学カフェって本当に意味ある効果を持っているんだ、と哲学カフェの再認識みたいな感じだった。

名前のつけ方とか、言葉遣いはちょっとどうかなあと思いつつ(「人生を知るためのコース」とか、人生って言葉がそもそも恣意的な前提を含む言葉だよなとか、知るっていいすぎやんなとか。話しをきくと「ための」というところが強調点らしく、あくまで考える契機を提供する場ということだったけれど。)、とりあえず体験してみようと入った。やっていることは自分の現在の認識をさらに吟味していくということで、最後に答えが出るわけでもなく、押し付けられるわけでもなく、自分としてのびのびと考えられる場だった。

アズワン・コミュニティの特長は、話し合いや対話ができなかった状態をできる状態にしていったというところにあると思う。なぜ対話ができるようになったのか。それは自己観察によって、自分に瞬時に感情反応を引き起こす自動的認識を見直す仕組みを体系立てたことによる。相手が絶対おかしいと否定したくなる強い気持ち。相手の言動から引き起こされる怒り。そういうものはどういうからくりでつくりだされているのか。

観察によって、そのからくりを時間をかけ明らかにしていく。
自分の受け取ったことはあくまで頭のなかで判断されたことであり、実際とは違う。どこまでいっても受け取ったことは頭のなかのこと。観察を続けるなかで、そのことが理解されていく。

このことは自覚と呼ばれていて、この自覚がはっきりとしてくるにつれ、自動的な感情反応に左右されることはなくなっていく。話しによると、自分の頭のなかのことだということが明確にみえるとパーンと認識の仕方がかわるという人もいる。

 

その体験を霧が晴れるようだとか、認識と認識の間がひろがって、あるパターンの刺激に対して、条件反射的に直ちに感情に圧倒されてしまうような感じがなくなっていくというような感じとも表現されていたように思う。

 

「自分を知るためのコース」は、その自覚を得ていくための基本的なコースと位置づけられている。


アズワン・コミュニティでの体験をふくめて、自分の経験を振り返ると、感情の自動的

反応は決め付けによる意味の重なりでおこっていた。

 

たとえば

たたんでない毛布がやや見苦しい=A という認知があり
毛布が見苦しいのは自分がだらしないからだ=B という決め付けがあり
だらしないことは強くダメなことだ=C という決め付けがあるとする。

 

Bの毛布をたたまないことが自分がだらしないことに紐づいていることは無自覚。

 

Bが意識化されていない状態では、たたんでない毛布を見ただけで自動的に強い反応がおこる。

 

観察によってBの紐づけが発見されると反応が消える。


この場合、ABCのどれかが変化すれば毛布をみても反応は起きない。まず見苦しいと思わなければ起こらないし、「だらしない」のがだめだという認識がなければ反応はおこらない。

 

自分は、毛布以外の場合でもこのB(=無自覚な紐づき)を発見することにより反応をとろうと考えるのだが、そもそもAの段階で毛布が「見苦しい」のは自分の認識だという自覚ができれば、Bの紐づきなどあっても反応はおこらない。そもそもの初動の段階で反応から離れられる、らしい。

 

ふーん、そういうことがあるのか、みるということがちゃんとできればそういう状態にもなるのかなあと思いつつコースを受ける。

 

見ているものがまず自分が受け取ったものと認識しておらず、自分の受け取りと関係なくそこにあるものというリアリティのなかにいる。それが人であれば自分が受け取ったその人ではなく、そこにいる人から実際のものが感じられていると認識する。

 

リアリティは、現実っぽさという意味でのリアリティ。フィクションであってもリアリティがあれば条件反射的に感情反応がおこる。このリアリティは非言語なので、逐一の意識的把握が難しい。日常では言わばこのリアリティに翻弄されるわけだ。よく考えてもそんなことはないのに、圧倒的なリアリティが自分の前にたちはだかって圧倒され、行動ができないようなことは珍しくない。この受け取られる現実っぽさ、心的現実こそが現実だと感じてしまう。

 

漢の皇帝の話しがある。初代皇帝の仲間たちは荒くれ者で、身分が高くなっても言動が変わらず、皇帝に対しても礼儀がない。そこに礼節という仕組みが導入される。皇帝に対してはこういう言葉遣いで話さないといけないとか、ここではこういう行動をしなければいけないとか。それが徹底されたとき、荒くれ者たちが言った言葉は、「皇帝の偉さが初めてわかった」だったという。

 

ここには錯誤がある。荒くれ者たちが感じているリアリティは、彼らが守らなければいけない作法によって作り出されているのだが、彼らはそれを意識化できず、「皇帝が偉いから偉い」と感じてしまうのだ。

 


無自覚に「これはこうだ」となっている認識は、リアリティを派生させる。その認識はフィルターのように、認識の構造を投影したリアリティを派生させる。

自分が受け取ったものからリアリティが生まれ、この人はこういう人だというリアリティが迫ってくる。たちが悪いのは、言葉で迫ってくればまだわかりやすいし対応がしやすいと思うのだが、非言語でリアリティだけがせまってくる。把握しようとすると、そのリアリティを言葉にしなおさないといけない。意識化できないまま次々にくるリアリティに翻弄される。

 

ある人の見かけや言動、人一般に対してこれはこういうものという意味が投げかけられており、自分が投げかけているのに向こうの実際のリアリティだと受け取られる。

 

 

人にどのような意味を投げかけているだろうか。人から受けるリアリティは当然になっているがあえて言語化してみるとどんな感じだろうか。あらためて感じてみると、まず一人ひとりが存在感あるなあと思う。リアルに存在している。リアリティにちょっと圧倒され、押される感じがある。これは恐怖といえるだろうか? 恐怖という感じではないかもしれないがリアリティにちょっと、たじ、となる。

 

これが自分の人間観、人一般に投げかける意味によるものなのか、それともこれが自分の生物的なデフォルトの状態なのかわからないけれど。

 

しかしたとえばそれがパートナーとかになると、圧倒感はなくなる。これは意味付与によるものなのだろうか。でもここから想像すると意味付与によって他の人たちの圧倒感もなくなるかもしれない。またその圧倒感が「大きいもの」という意味から来るものであれば、逆に他人ではなく自分に対して「小さいもの」という意味付与をしている結果として他人がそう感じられるのかもしれない。


人一般ではなく、個人に対してはどうか。
ある人に対して頑迷そうだという印象をもったとする。頑迷であることは、対応が難しい、何かのはずみで何かのとばっちりを受けそうだとか、色んな紐づきを持っている。紐づきは無自覚なものも多く、自動的な反応、認識におびやかされる。その人の言動によって意味付与が更新されていくとせまってくるリアリティも変わってくるのだが、それはしばらくかかる。

 

もし初見の段階でこれは自分の投げかけたイメージでしかないと認識できるなら大分関わり方も変わってくるだろう。

 

さて、コースを受けながらああかな、こうかなと見方、意識の焦点の向け方を変えたりしてみたが、劇的な変化がおこったということはなく、まあ一足飛びを期待せず、事実化のメカニズムを日々の観察のなかで地道に気づいていくということかなと思った。

 

自分を知るためのコースは実は2回めなのだけど、1回めのときは、まだどう受けたらいいかがわかっていなくて、特に意味なくぼーっと時間を過ごしてしまうときが割と多かったが、最近はそういう時間は少なくなったかと思う。テーマも一年前とちょっと違うのもあったかな?と割と新鮮に受けられた。

 

と同時に、コースというのはある程度まんべんなく一通りをやるものだと思うのだけれど、特に自分に必要なところに焦点をしぼってやったらもっと進むということもありそうだなと思った。コース出たあとで何か自分で工夫してそういうことができないだろうかなと思った。