降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

酵母を満たして ちいさな学びの場をつくること 当事者研究大会のミーティングに行ってきた

当事者研究大会の実行委員会の初回ミーティングに参加させてもらう。

 


2016年の大会は別の予定があって参加できなかったけれど、大会の雰囲気やあり方自体に衝撃を受けて強い関心を持った人も少なくなかったようだ。ミーティングでもそういう感想がちらほら聞かれた。

 

 

去年は、実行委員会のミーティングの雰囲気がそのまま大会の雰囲気に移行していたような感じだったそうだ。

 

 

ミーティング、1時間ずつの休憩も参加者に優しいと思ったけれど、雰囲気がまさにいい感じだった。こういうふうな場の状態を表す言葉として、一般的には「ゆるい」ぐらいしかないなあと思う。

 

場に対する世間のボキャブラリーの少なさは、一般の関心の低さのあらわれなのか。場がどうであるかよりも、やり方、方法の方が重要で、そちらの方ばかり意識がいくのだろうか? 

 

「ゆるい」だけではすくい取れないものが多すぎるなあと思う。

 

場は、単にどのような価値観でもどうでもよくて、言いたいことが好きに言えればいいという感じでは不十分だ。そういう場はどこか虚しさや人との距離の方が募るのではないか。

 

成熟した場では、どのような自由な発言があっても、お互いがキャッチボールする気がある。「自由な」発言する人も、気持ちのキャッチボールを前提として投げている。

 


これは「そうしなければ」というルールを自身に課しているという感じではない。ルールを自分に強いると緊張がおこり、自分から見た「ルール破り」の人にも苛立ちがおこる。

 

成熟した場とそこにいる人をたとえるなら、見えないけれど、場に満ちている酵母を自分にも満たし、その酵母の動き、求めを感じ、動けば気持ちいい、というようなイメージ。自分ではなく、その酵母が持つ自己増殖の自律性にゆだねられるように、場を整え、酵母が育つ感じをメンバーが共有する。

 

そういう状態での「自由な」発言は、場の風通しをよくし、明言されてなくても、見えなくても、なんとなくみんなが守らなければいけないような気になっている場の規範を破綻させる。

 

当事者研究大会に関わる人には「支援者」側の人も含まれているのだけれど、「支援者」という役割の強固さはしかし、あらためて根深いなあと感じる。降りるのは、他人じゃなくて、自分なんだけどなと思う。自分が降りていく人が発する雰囲気、「酵母」の方が、人にとって「支援」的だし、「援助」的だということが少しでも多くの人の感覚になればいいなと思う。

 

ミーティングに参加してみて、関西という地域だけでも、多くの場所で、当事者研究がされていることを知る。何年も続けられてきた研究の知見、成果を伝えたいという発言も聞かれた。

 

非常に重要なことだと思う。当事者自身が見つけたやり方の方が実際的で、知恵にとみ、通り一遍の専門家のアプローチや考え方を超えている場合はあり、むしろ福祉やケアの常識やパラダイムを塗り替えるものだってある。

 

シェアしていいものは、積極的にシェアされたらいいと思う。そこで「鵜呑みにする人」の存在が問題視されるかもしれないけれど、当事者研究する人同士、学ぶ人同士が知見をシェアするぶんには構わないのではないだろうか。学ぶ人は、知識や認識を更新する人であって、提示されたものを自分で吟味する人だ。

 

独創的な知見がシェアされることで、これまでやりとりが薄かったグループにも人の交流がおこり、循環が活性化するだろうと思う。大会だけでなく、それぞれに研究成果を発表する場を定期的にもうけるならば、学びはまた多くの人に伝わっていくだろう。そのことによって、個々のグループだけでなく、全体としての盛り上がりが生まれるのではないかと思う。

 


僕は、当事者研究の一つの大きな意義は、それが精神障害発達障害などの特定の「当事者」に限られたものではなく、「福祉」の領域に限定されたことでもなく、すべての人、生きている当事者が専門家や権威が必ずしもいなくても、自分たちで学びの場をつくり、学びを進めていけるという事実の提起であると思う。

 

福祉に限らない社会問題、政治問題、資本主義の問題、それらの根本的な向き合いに必要なのは、それぞれの場所で自分たちのちいさな学びの場をつくることであると僕は思っている。