臨床心理の学科にいた時は、なぜそこで得ている知見から他分野のものを見ないのかと思っていた。それをしないために自身の相対化もできない。次に文化人類学に移って心理的なことも踏まえたことを考えようとすると、「それは心理の話しでここでは共有されない」と言われる。
自分にダイレクトに必要なものは、横断的なところにあった。ある学問は関心分野と被っているけれど同時に半分ぐらいズレている。そして僕は別に新しいことを人に証明したいわけじゃなくて、自分に応用できる知見を発展させたかった。能力に溢れているなら、そのようであってもアカデミズムの世界でやれたかもしれない。しかし、そんなに色々できるわけじゃなかった。ダイレクトにできることでないと動機も強くでないし、エネルギーロスも多い。
だから自分の見たいものを見るために、考えを進めるために複数の分野に目をやることになった。絵本やファンタジーなど物語、浦河べてるの家などの福祉領域、林竹二などの教育領域、演劇とか身体系のこと、もともと関心が強かった生物的なこととか、宮大工の話ししとか、そういうものはバラバラの雑学として欲しいのではなく、ある分野で見えにくいことを別の分野でみて確かめ、ベースとなる考えをすすめて、自分が生きていく工夫をしていく。考えは道具としてあった。
ある考えが間違いであれば、自分が行き詰まり、停滞する。というか、ある意味、常に行き詰まりにあってその現状をちょっとでも変えるためにああだろうか、こうだろうかと考えている。この状況を少しでもずらしたり、更新するための道具として考えは常にアップデートする必要性がある。道具をより使える状態にするという動機は強い。現実をどう捉えたら妥当な向き合いができるのか。何かの方向性が導かれたとして、ではそれをどう現実化する方法にもっていくのか。端的にいえば考えているのはそれだけだ。でもそれを考えるためにその目的と自分に適合した色々な分野が必要になる。
アナキズムの話しと浦河べてるの家の話しに共通しそうなことを見つけた。キョートット出版代表の小川恭平さんのブログから。
ところで、私はマヌケ主義に反対はしていない。大賛成している。私の理解では、マヌケ=アナーキストだ。マヌケは、どこか世界共通で、一瞬で通じあうところがある。マヌケ、またはマヌケの作った場所は、出会うのが初めてだとしても、初めての気がしないものだ。それも一つの「ノリ」で、居にくい人もいるではないかと言われるかもしれない。でも、同質性をもとにした「ノリ」とは違う。それは、うまくいえないけど、インターナショナルで、オープンマインドなものだ。
小川さんの言及は、高円寺界隈で生まれている文化についてのものであるけれど、浦河べてるの家周辺の話しと通じているように感じた。
べてるの家では、個々人の価値観や感じ方に組み込まれてしまった「普通」(=「平均的」とか「通常の」という意味ではなく「社会が要請してくる個人が到達すべき水準」『みんなの当事者研究』)が外在化され、破綻するということがおこっていて、またそれを意図的にもやっていると思う。
べてるのソーシャルワーカーの向谷地さんがとんでもない傾向をもった人に出会って、「君はべてるに必要な選手だ」と言ったりするのは、別に表面的な慰めとか体のいいことを言っているのではなくて、通りいっぺんの認識で無難に済ませられていた日々の(偽りの)秩序をその人がもはや成り立たせなくし、その破綻の結果として場に開けが生まれることを知っているから、本気で言っているのだと思うし、たぶん実際にそうなるのだろう。
個人の認識に強固に組みこまれた価値観は、そこに妥当性がなく、成り立たないことをあからさまに直面したり目撃する状況・ハプニングを経なければ変わりにくい。
「マヌケ」は、条件を備えた人がようやく人として認められていた世界ではなく、その条件(強迫)が破綻したところにいる人たちの関係性や文化を呼ぶ言葉なのだろうと思う。もはや抜けているんだから自分一人では成り立たないし、周りの人も放っておくわけにもいかない。
そもそもの破綻、同質になること、自分が一人で成り立つことの不可能性を認められた人と人の間には開けがあり、それが空気を解放しているけれども、何かの共通性をもってまとめようとする時には違いや破綻性をみないための「ノリ」が必要になるのではないかと思う。