降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

徳島の住民運動 姫野雅義さんの文章

90年代の徳島で、吉野川に人工の可動堰が作られる国の公共工事計画を市民が止めた。


国が一度決めた公共工事を市民が止めたのはこのときが初めてだったという。かつて長良川で同様の計画が実行され、川がヘドロのたまる場所になってしまったとき、大きな反対運動はあったのものの、その広がりは生まれず、止めるには至らなかった。

 

沖縄の高江に行った時に聞いた話しがある。官僚は失敗から学び、同じことを繰り返さないが、各地の住民の運動は過去の事例の知識の共有もされていないので、それぞれの場所で同じやり方で国に負けていくと。

 

だが長良川の経験は生かされた。その反省を引き継ぐ人たちがいた。反対派になるのではなく、事実を淡々と明らかにしていきながらそれを市民に伝え、限られた人ではなく、市民の誰もが自分の思いを表現できる場をつくることに心を砕いた活動がすすめられ、当初7人の釣り人から始まったムーブメントは徳島市全域に広がっていった。

 

規律の行き届いた、一致団結した大きな組織が力を持ったのではなく、徳島では普通の市民が特に誰かに指令されたわけでもないのに、それぞれの場所で勝手に、同時多発的に可動堰の問題を周りに伝え、思いが共有されていった。

 

徳島方式とよばれたこのあり方に学ぶところは、現在においてもとても大きいだろうと思う。しかし、あまりにも知られていないのが残念だ。沖縄で聞いた話しがいつも思い浮かぶ。過去のことだけれど、ここにはまだ解き明かされていない新しさと可能性があると思う。

 

住民投票を受けたこの可動堰の取りやめを国が保留にしたままで10年がたち、ようやく計画は当時の民主党政権の大臣によって中止が確約された。リーダーの姫野雅義さんは、長い間断っていた釣りを初めてしに吉野川に行った際に、脳卒中か何かによって行方不明になり、亡くなった。

 

姫野さんが書かれたものがあった。

 

■「徳島方式」と呼ばれた住民運動
可動堰建設に住民が初めて疑問の声をあげたのは1993年9月、いまから8年あまり前のことです。たちあがったのは吉野川が大好きな主婦や釣り仲間のグループ、吉野川シンポジウム実行委員会でした。

 

住民運動とはあまり縁のなかったひとたちです。このグループは「反対」を主張するデモや決起集会のたぐいを一切やりませんでした。問題をせっかちに賛成反対の世界に持ち込むのではなく、住民ひとりひとりが自分の問題として自由に議論できる環境を作りたいと思っていたからです。

 

とかく人は「推進派」とか「反対派」とかレッテルを貼りたがり、それで問題を理解したと思いがちです。まして、国の公共事業は、地方の行政や政界、経済界に深くからまって複雑な人間関係を作っています。

 

国に対する「反対派」という構図は、問題をタブーにし、住民を問題から遠ざけるおそれがある。そして結論へのこだわりは住民同士の正義の押し付け合いになりやすい。というわけで、ぼくたちは「反対あり」でなく「疑問あり」という姿勢でずっとやってきました。

 

大切なのは住民が気づくことです。その気づきのチャンスを作るためには主張を押しつけるのではなく、住民への問いかけに力を入れるべきだと思ったのです。そのために私たちは精力的に活動しました。

 

ひとつは吉野川がすばらしい自分たちの川だということを住民に気づいてもらうことです。「あなたがたはイベント屋か」といわれるくらい吉野川でのイベントに力をいれました。


もう一つはすべての情報を住民に知らせようと、徹底的に建設省に食い下がったことです。情報公開と話し合いを求め続けました。しんぼう強く科学論争をおこなう私たちの活動は「徳島方式」と呼ばれ注目を集めましたが、とりわけ独自に洪水の水位計算をおこなって可動堰がいらないことを証明したのは象徴的な出来事といえるでしょう。

 

なお、今年の情報公開で私たちの主張を裏付ける模型実験データを旧建設省が隠していた事実がわかりました。やはり洪水対策として第十堰を撤去する必要はなかったのです。