降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

防災畑と防災食堂 自律的空間づくりが内在化された価値観や行動様式を変える 

政権がどんなに腐敗しても、それを支持する4割弱の人がいるという。選挙にいき、自民党に投票する人が1700万人いれば国の運営や体制はこのまま続いていくのだろうか。4割支持のうちのそのまた半分の人が投票に行って。

 

約5000万人の選挙に行かない人がいた。その人たちに考えや認識をあらためてくれと色んな宣伝媒体を使って働きかけたらその人たちは「変わる」だろうか。

 

僕は四国八十八ケ所を巡る旅人たちのインタビューをしていた。転機にたった旅人たちは、それまでの自分の価値観を更新するために徒歩で全長1200kmにいたる旅を利用していた。内在化された価値観、行動様式を変えるためには自分のうちに出来上がってしまったリアリティを揺り動かす体験、リハビリが必要だと思う。わざわざ体を動かし、自分を不安定にする旅をするまでしないとなかなか変わらない。それが人間だと思う。

 

仕事と家以外の何がしかの第三の活動を確保、提供しないことには、ちょっと言ったり広報したりするぐらいで人はそんなに変わらないと思う。自我の防衛機能は「逸らす」ことであり、人は逸らすことを得意とし、自動化しているのだから。

 

人は社会から自分を主体だと教えられるけれど、自分の判断で自分を元気にし、環境に働きかけ環境を変容させていく存在になっている時に主体なのであり、決められたことに従うこと、そこから抜け出られないことは主体以前なのだと思う。どれだけの人が精神的な意味で自分の足でたっているだろうか。自分たちが主体以前であることを認めて、どうやったら主体化していくのか、自分で自分に責任をもち、更新していく存在になるにはどうしたらいいのかというところがスタート地点だと思う。

 

必要なのは、自分として主体化していくこと。そのリハビリには自律的空間を自分たちで作っていくということが適している。自分の価値基準はどうなっているか、自分の深い求めとは何か、そしてその求めはどのよう展開しうるか。自律的空間は「完成」以後に意味があるだけではなく作り始める時点でリハビリを提供する。そこで人は、それまで一体化していたリアリティから距離をもつことができ、そのリアリティを揺り動かし内在化されてしまった価値基準を更新しうる。

 

自律的空間づくりをどのようにスタートできるか。僕たちは子ども食堂ならぬ防災食堂をやろうと思っている。災害時や経済破綻時を想定し、その時期を乗り越えるにはどうしたらいいのかを共に考えられる学びの場もそこに併せて。身の回りで借りられる土地を借り、防災畑として自家菜園を作り、自らの備えを整えると共に、防災食堂で提供できるようにする。行政の代わりを担うような大ごとをするつもりはなく、防災という全ての人にとって関わりがある文脈のもとで、学びと交流の場、対話の場、社会に刷り込まれた自分の価値観を更新し、主体化していくちいさい場所を作る。重要なのは内在化し安定してしまった個々の価値観とそれに伴う行動様式を更新することなのだと思う。

 

全国に2000ヶ所以上あるという子ども食堂。もしそれぞれの場所の人たちがかりられる土地で自家菜園をして、少しでも自分たちの食料備蓄をし、文脈を子どもの貧困に限ることなく、市民が共に自分たちの明日を守る防災食堂と自分たちを置くとどうなるだろうかと想像する。自律的な場所は人の精神を主体化させ、全体ではなく、個人を基軸とした公共を生んでいくのではないだろうか。