あまり音楽聞くほうでもないし、音楽のことを何も知らないけれど、何となく久しぶりに原田知世のシンシアをyoutubeで見ていて気持ちが揺られる。
顔を両手で覆うと、森の中から水辺や街などに場面が移る。着ている服も変わる。
それぞれのシーンは、思い出なのか、それともパラレルワールドなのか。
森の中や遺跡を歩くときの赤いドレスの原田知世は、ふと苦しい表情を見せる水辺や閉塞感のある街の彼女ではなく、伸びやかに解放されている。
森とドレスの取り合わせは、そこで長い日常を過ごすのなら折り合わないものだけれど、触るとすぐ壊れてしまうような危うさや繊細さを感じる。
完全に自分のイメージの世界だけれど、「現実」の原田知世は、水辺かあるいは街の人で、ドレスの原田知世は存在しない象徴的な存在にも思える。と同時に、ドレスの原田知世が実は「本体」であって、水辺や街の彼女のほうが、ドレスの原田知世の想像であるようにも。どちらが本体でどちらが鏡なのか、それもわからなくなる。
パラレルワールドは、どっちが実でかどっちが虚とか、そういうこともなくしてしまう。パラレルワールドという設定自体に、無情すぎる相対化、確かさの剥奪、残酷さがある。パラレルワールドで、人は儚く、意味がない。
無限の数の映画館があって、そこで誰も観客がいないままそれぞれの映画が上映されている。それだけ、みたいな世界だ。
しかし、そうであるからこそ、逆に生が鮮やかに浮き立つ。全ての意味を無化する世界に、永遠がある。そのたどり着けない永遠を擬似的に体験するのがパラレルワールドなのだと思う。
のび太のおばあちゃんとかエスパー魔美の高畑さんみたいな「人を信じるという事に理屈や証拠は関係ないんだよ」って台詞が年を取ると沁みて来てボロボロ泣いてしまう pic.twitter.com/QD9qGN9qLB
— 粉雪 (@conayuki) 2017年2月21日
おばあちゃん やっぱりそうかい。さっきからなんとなくそんな気がしてましたよ。
のび太 信じてくれるの? 疑わない?
おばあちゃん だれがのびちゃんのいうこと、うたがうものですか。
言葉によって、認識、構成される「現実」の世界。事実と事実でないものが分けられた世界。価値あるものと価値のないものが分けられた世界。だが、人間の原始的な心は、その言葉によって認識された死の世界が全てになってしまうことで、おおかた捨てられてしまうようだ。
『ペコロスの母に会いに行く』で、認知症になった母親が叫び声をあげるシーンがある。混乱の最中にあり、しかしこの現在が実は過去からみた夢であり、過去の世界で若い母親が叫び声をあげながら、はっと目覚める。過去の母親の夢として「現在」の認知症の母親がいる。
言葉によって構成される世界で、「現実」は決まっている。死んだ人には出会えない。だが原始的な心のなかでは、その人は永遠に生き続けている。過去、現在、未来は常に共にある。あるいは、そういう区分け自体がない。
空虚な「現実」、原始的な心にとっては、「死の強制」そのものとも言える「現実」に対して、原始的な心は絶望し、諦めのなかで生きている。カスカスの干物になって生きている。パラレルワールドにおける時空をこえた出会いは、その虚偽の区分けを想像的に一旦取り除いた状態を体験させる。
タイム・ファンタジーというのは、パラレルワールドの一種に入るのではないかと思うのだけれど、パラレルワールドを使った作品の多いことをあらためて実感する。
時空を行き来する人が、向こうの世界に行く通路が閉じたり変化することによって、行き来がだんだん難しくなっていく。その時体が幽霊のように薄くなっていくという表現は、『トムは真夜中の庭で』が最初なのだろうか?
- 作者: フィリパ・ピアス,スーザン・アインツィヒ,Philippa Pearce,高杉一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1967/12/05
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 141回
- この商品を含むブログ (26件) を見る
『ドラえもん』などは、もしもボックスやタイムマシンを使わなくても、道具の存在によって、毎回がパラレルワールド化するマンガであるといえるだろうなと思った。
子どもの頃から、多くのものが退屈だと感じていた。あまりに退屈なので、ちょっとでもそれが紛らわせるものがあれば、すごく面白いと錯覚するぐらい、死んだ退屈の世界にいる。