降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

大阪七墓巡り お盆編 

陸奥さんの七墓巡りへ。
6月にいった七墓巡りは、たぶん今回のリサーチを含めて行われたものだったかな。夜はそのまま大阪に泊まって話して、あの時はとても楽しかった。あれからあっという間のお盆。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

JR環状線の福島駅に集合すると、陸奥さんが資料を配ってくれる。資料のなかの様々な文化集団の死生観や葬送の方法が面白い。

 

アフリカのモシ族は、誰かが死ぬとコミュニティのなかで公式に埋葬するまで「クリタ」と呼ばれる女性がその死んだ人の代わりに生活をする。死んだ人の家で、その人の服を着て、その人として生活する。その後、「クレ」と呼ばれる埋葬の日にはクリタが頭をそり、儀式を終了する。

 

北欧のヴァイキングは戦争こそが最大の喜びであり、人間の価値、生きがいという思想が強い。だから死んでも戦場に行って、そこで永遠に戦えるという。また昼は戦い、夜は主演で大騒ぎ。その戦場のことを「ヴァルハラ」と呼ぶ。

 

魏志倭人伝』によれば、3世紀の倭人は、「人が死ぬと棺の中に入れ、土で封して塚をつくる。その後、十余日は肉をたべない。喪主は号泣し、他人は歌舞飲酒につく」とある。

 

古代エジプト人は人が死ぬと魂が抜け、死者の国にいくと考えられた。魂は永遠不滅で、いつか再生することが可能とも信じられた。だから「ミイラ」を作って、いつか魂が帰ってきて再生することを願う。

 

イスラム教では、「審判の日」に大天使ガブリエルがやってきてラッパを吹くと死者は全員蘇ると固く信じられている。さらに復活後に「アラーの審判」があり、善行を積んだものは平安を、しかし悪行を積んだものは永遠の苦しみを与えられる。

 

ブラジルのヤノマミ族は、産み落とされたばかりの子供はまだ人間ではなく「精霊」とされる。子供を人間として迎えるか、精霊のまま天に還すかを母親が決める。子供を天へ送るときは、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、白蟻の塚に放り込む。ありが子供を食べつくすのを見計らい、塚を焼いて精霊になったことを神に報告する。寿命や病気などで民族(※)がなくなった場合も同じことが行われる。

(※ウィキペディアの引用だけれど民族→家族とかではないのかな?)

 

オーストラリアのアボリジニは人が死ぬと、まず土葬をし、10ヶ月位して土を掘り返し、白骨化した骨に残った肉を削ぎ取り、森に持って入り、親族で焼いて食する。死者の残った肉を食することで、その人のパワーを引き継ぐと考える。

 

フィリピン・マノボー族は、死んでも何も変わらない、「イブー」という死の国があるが、それは現世の延長線上にある世界という。そこで結婚したり、子供を産んだり、仕事をしたりして、日常の生活が永遠に続いていく。

 

エスキモーのイヌイット族は、肉体は滅びても魂は永遠だという死生観のもと、生まれてきた子に死んだ人の名前をつけ、死者の魂を再び宿らせる。

 

死生観とは何かなと思う。こころを平穏にするために、死に対し、肯定的な意味を与えるものだろうか。

 

陸奥さんはジプシーの死生観が好きだと言われていた。ジプシーはある人が死んだら、そんな人はそもそも存在もしてなかったということにする。土地も持っていないため、墓をつくることもできず、誰かが死んでもそこに置き去りにしていくだけらしい。

 

厳しい制限下にある暮らしのもとでは、そのようにするしかないわけだ。ジプシーの事例を聞かなければ、葬送とは人間の脳が本当に納得するようにするものかなと思っていたけれど、やっぱりそうではなさそうと思った。

 

死という言葉の意味するところが、脳に対してなるべくやさしいようにするということかと思う。なるべく負担のないかたちにする。考えてみれば、どのような葬送であれ、たぶん完全に納得などできるわけはなくて、あくまで負担を少なくするための代替のものなのではと思う。



以前のエントリーでもちょっと触れたが、脳は複数の層で構成されていて、ある現実はそれぞれの層によってそれぞれ別に受け取られるようだ。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

人の悪口を言うと、脳は自分がそれを言われたように反応し、同様に人を褒めると脳は自分が褒められたように反応すると。もちろん頭では相手の悪口を言っているのを知っているが、同時に脳のある部分はそれを理解できず、自分に言われたものとして受け取ってしまう。

 

脳のある層の現実認識では、自他に違いがない。それゆえ「他」に対する態度によって、自分自身がダメージを受けてしまう。それを防ぐには、他者(たぶん物にすら)に対してもやさしい認識や態度をもつしかない。詩人の工藤直子は、人の悪口を言うと自分の体調が本当に崩れてしまうため、悪口を言うことができなかったという。

 

生きるというサバイバル状況において、自分を成り立たせながら、相手にもやさしいものの捉え方をするのは簡単ではない。だが、相手に対して容赦のない否定をもてば、その刃はそのまま自分にもかえってくる。負担の蓄積という面から考えると、そう簡単にたどり着くものではないといっても、自分も相手も受け止められる捉え方に移行するほうが心にやさしい。

 

自他の違いがないというならば、自分の死は体験できないけれど、あの人の死というのも自分の死となる。よって、相手の死をどのように受け取るかで、自分へのダメージが変わる。

なるべくダメージのないように受け取るために、たとえば魂の永遠性や、死んでも別の世界に行くだけで生活は変わらないとかいう肯定的物語の創造や、そもそも死んだ人は存在してないことにするとか、死んだのは精霊だとかいう否定を使うのではないかと思う。

 

精神科医斉藤環さんのツイートで、以下のようなことが述べられていた。

回復に必要なのは、存在の真理ではなく、想像的な物語のほうである。理論的切断性は象徴的構造物なので、脳の自然治癒力に対しては時として阻害的にはたらく。大切なのは、抑圧や内省や否認など、病気をつくるような心の作用ではなく、健康を生み出す脳の作動を保護すること。想像の物語はその保護の役割を果たす。

 

pentaxxx: 問題は、分析はスムーズに批評に接続できるのに、必ずしも治療には接続できないという点。ここから先は私見。精神療法にはかならず自己愛の補強工事という側面がある。だから治療上必要なのは「存在の真理」ではなく「想像的な物語(ナラティブ)」のほうだ。

pentaxxx: 緻密すぎる理論はこうした「物語」の雑駁さや類型性にしばしば耐えられない。「ナルシシズム!」が批判の言葉になるのはこのレベル。でもナルシシズムで全然いいじゃん、と臨床家としての僕は考える。

pentaxxx: ポストモダン理論がオープンダイアローグに援用されてそれなりに成果を挙げているとすれば、それは理論の正当性よりは理論の「緩さ」の証明ということなのかもしれない。理論的切断性は象徴的構築物なので、脳の自然治癒力には時として阻害的にはたらくことがある。

 

pentaxxx: しかし精神療法において大切なのは、病理生成的な「心」の作用から(抑圧とか否認とか内省とか)、健康生成的な「脳」の作動を保護することじゃなかろうか。ナラティブが自己愛の補強を通じて治癒を導くとすれば、それは想像的なシールドによって脳の作動領域を保護することにはじまるのかも。

 

pentaxxx: いっぽう治療的であることと倫理性は必ずしも両立しない。もちろん治療者の倫理性には治療関係を守る以上の意義がある。しかし患者自身の「健康」と「倫理」は必ずしも両立しない。ヒトラー始め、独裁者のレジリエンス(≒健康度)は超人的に高かった。まあみんな最期は悲惨だけどね。

 

死と関わっても、肯定的な自分像(=他人像)が維持される想像の物語をつくりだすことによって、 死という意味(これも言葉であり概念だ。)が体に侵食して与えるダメージを相殺する。

 

大切なのは言葉を使ったり、思考を使うこと自体よりも、それらの行為に必然的に伴う副作用を打ち消す物語をつくりあげることのほうであり、生きものの体としては、まずこちらの土台があってはじめて言葉による分析やら思考などがあるのだろう。日常生活のなかでも人が論理とか「現実」より、ダメージを自身に与えないための想像の物語を優先するのは普通に見られると思う。

 

言葉や概念というものがそもそも脳にとって危ないものなのだ。そこで言葉によって物語をつくり、それらの危険を防御する。毒を持って毒を制するようなものだなと思った。

 

つくりだされた物語にそって繰り返し、行動することによって、その物語のリアリティを定着させ、強化させていくことができるのだろう。

 

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陸奥さんの七墓巡り

 

死者について。

菅笠に杖の格好の陸奥さんの後に続きながら、死者とは何か、あれこれと思う。

 

人間は自分を世界に投影することによって世界を理解していて、世界を自分として体験している。脳のある層で、生体に影響を与える水準でそのように体感されている。歩いているアスファルト、話している相手、目の前の車、使い古したお札、向こうのビル群、それらは自分と違うものと「頭」で認識されながら、同時に全ては自分の一部としても体感されている。

 

自分の心を世界に投影して世界の意味をつかんでいるということは、この世界のどのようなものであってもそれは自分の一面だということだ。美しいものも自分、汚いものも自分。全ては自分として受け取られる。

 

受け取りにくいもの、否定したいもの、見たくないものも自分だから、それらを否定していればいるぶんだけ、自分に負担がくる。受け取りにくいものを自分から乖離させれば、その統合を失っただけ人は断片化し、力を失う。ドラゴンボールで、悪の心を自分から追い出した神様は大きくパワーダウンした。多重人格者のビリー・ミリガンは、虐待から自分の心を守るために人格を乖離せざるを得なかった。犯罪を犯し、逮捕された環境でケアされ、徐々に分裂した人格は統合されていった。ケアされた環境で統合していくということは、統合された状態のほうがいいと体が判断しているからだ。

 

一旦否定され抑圧されたもの、くすぶっているもの、目を背けたままでいるものが、そのように扱われたのには理由がある。それらを統合したままその場をやり過ごしていくのが難しかったからだ。そのように一旦捨てられたものも世界に投影される。

 

世界から感じ取られた抑圧や恨みつらみ、救われなさとはそのまま自分のなかにあるもの。死者や無縁仏とは、共同体の価値から排除された自分自身。世間に否定され孤独で惨めな自分自身だ。人は生き残るために様々な側面をもつ自分をある時は積極的に、ある時は不本意に殺し、抑圧する。無縁仏や死者の気持ちを想像し、寄り添うことは自分で捨てた自分にもう一度目を向け、ケアすることに他ならないだろう。

 

今日の最後は、扇町公園だった。昔の処刑場だったとのこと。そこで手塚夏子さんのリードのもと、「あいだにあるもの踊り」をする。最初の人が何かのキーワードをだし、次の人はその正反対と思われる言葉を書く。そして3人目は、その二つの言葉のちょうど真ん中にあると思われる言葉を書く。そんな感じの作業を繰り返し、8つの言葉を出したあと、最初の2つの言葉を除外する。最初の2つは間にあったものではないからだ。3つ目の言葉から初めて間にある言葉になる。こうして場に残された6つの言葉は全て間から生まれた言葉になる。

 

次に6つの言葉に音楽をつけて曲にする。そして今度は動きをつくる。言葉を出したように、8つの動きを出し、最初の2つを除外する。また間から生まれた6つの動きだけが残る。それを言葉と曲にあわせる。

 

しゃらら しゃら 勝手に課金課金 岩盤浴の 焼き芋だね ぽわんぽわんぽわん・・・

 

よく意味がわからないが、わからないまま曲ができていって、最後みんなでそれを踊った。あいだにあるものだけでできた歌と踊り。