降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ゾンビが人に呼び戻されるために

Dead & Buried(死と埋葬:邦題はゾンゲリア)というゾンビ映画。ある村の住人は全員がゾンビで、村に近づいた人間を惨殺し、ゾンビにして村人にする。現代の寓話だ。ゾンビがゾンビをつくっていく。

 

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フレイレは被抑圧者こそが社会を変える力を持つという。教育哲学者林竹二は、被差別部落定時制湊川高校の生徒たちに出会い、その変化の大きさに自らの世界に対する絶望の気持ちをあらためた。

 

生きる力とは崩されたバランスに対して反発する力だ。死に向かう方向への反発。生きることは、死に切れなさに駆られている。何がなんでも死ぬわけにはいかないという強く盲目的な動機が底にある。それは危機が去った状態では現状を前提として自身をそこへより細かく一体化させていく。一方で、危機的状況では、最も弱い部分を強引に補うような強い力を発動させる。

 

草は風に揺れる部分を刈られると伸びることを抑える。伸びることが不利に働くと認識するからだ。一方で、地際で切られると強く反発して伸びようとする。激しい危機に対しては、強く盲目的な動機が動く。

 

人間もそうなのかもしれないと思う。揺れる部分を伸びたらその度に刈られると、揺れる部分を作らないようになる。草が伸びないのは人間には都合がいいが、人間はそんなふうに扱われるとゾンビになっていく。従順でそして自分と同じでないものを憎むゾンビに。

 

いや、人はその度に刈られなくても、ごく自然とゾンビになっていく傾向をまず持っていると僕は思う。強いものに身を委ね、弱いものの抑圧に加担する。そのことに気づいているかいないかに関係ないほど、ごく自然に。生きることが最優先という生きものであることの呪い。揺れる先端の部分だけを細かく刈ることはその傾向をさらに促進させるということなのだと思う。

 

強く抑圧された人たちは、地際で切られた草のようだ。従順さなどもはや選択肢にはなくなる。荒い根を張り、ちっちゃなバランスや整い、さしあたっての生きやすさなど関係なく、強く反発する。しかし、そのとき同時に、ごく自然にゾンビになるという人の傾向すら壊すのだと思う。地際で刈られたために息も絶え絶えだけれども。

 

強く抑圧された人たち、強い危機に遭遇した人たちは、そうでない多くの人がごく自然にゾンビになってしまうのに対して、人間になる可能性も持っている。そしてゾンビのなかの人間の部分を呼びおこす力も持っている。

 

人間になる力を持った人たち、ゾンビを人に呼び戻す力を持った人たち。半ばゾンビになった人たちも、危機にある人が人間として回復していくことに関わることによって、人として呼び戻され、人の割合を増していく。

 

強く抑圧されている人、危機にある人は、人を人にする潜在性をあわせ持っている。彼らを助けることは、自分自身を人間として呼び戻してもらうこととなるだろう。救われ、助けられているのは自分のほうだと知れるだろう。

フレイレの現代性 里見実『パウロ・フレイレ「非抑圧者の教育学」を読む』

里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』


遠い外国のことではなく、身の回りの社会にそのまま当てはまるようだ。旧支配層が温存された戦後の日本、男尊女卑、セクハラ、ネット右翼の思考パターン、ワタミ的経営者たち、歪んだ体制ではなく、声を上げる人、人として回復するために支えを求める人自体を迷惑として嫌う人々、マイノリティへのバッシング、東京オリンピック、相模原事件・・。

 

しかしほんとうに対立関係が克服され、解放された被抑圧者たちによって新しい状況が樹立されても、かつての抑圧者はしばしば自分が自由になったとは認めないものだ。逆に自分が抑圧されていると感ずるようになるのである。抑圧者としての体験のなかで自己を形成してきたかれらにとっては、かつて自分が持っていた他者を抑圧する権利を奪われることは、なにごとによらず、己れにかけられた抑圧なのである。

 

彼にとっては、人間としての個人は、自分だけだ。ほかの人間は「物」にすぎない。彼にとっての権利とはただ一つ、自分が安泰に生活する権利であって、それは他人の最低限度の生存権にたいしてすら優越している。彼は被抑圧者の生存権をおそらく承認しているわけではないが、ただ仕方なしに許容している。彼らが存在するためには、そしてみずからの恩恵を誇示するためには、とにもかくにも被抑圧者が存在することが、なんといっても必要であるからだ。

 

かくして人間としての存在証明は、結局は「物」の所有に還元されていく。それは、排他的な権利、あるいは世襲的な属性として、何かを所有することなのだ。人間として存在することができるのは、持てる者だけだ。ほかの人間が、彼と異なる階級の人間が、人間であることを主張することは、とりもなおさず、体制破壊行為なのだ。そうした人間が人権を主張するのは、分をわきまえない反逆行為であって、自己実現とはみなされない。

 

自分だけが排他的により多くを持つということは、けっして非人間的な特権ではないし、他人に対しても自分にたいしても、なんらやましいことではない、それどころか、それはひとつの不可侵の権利だ、ということになる。この権利は、精励努力して、あえて危険をおかした勇気の賜物として、「我がものとなった」権利であって、その他大勢がーあのヤッカミ連中がー何も持たないのは、かれらが無能であり、怠惰であるからにすぎない。おまけにわれわれの慈悲深い行為にたいして、あのならず者たちは忘恩を持って報いることしかしない、というわけだ。忘恩と妬みを抱く者たちであるがゆえに、非抑圧者は常に潜在的な敵とみなされ、不断の監視と警戒が必要な人間たちと考えられている。

 

所有への渇望に己れを委ねて、人をもふくめた万物を生命なきものと化していくこの抑圧者の習性は、あきらかにサディズムと重なりあうものだ。フロムは言う。「他者を(そして他の生命体を)思いのままに支配することに歓びを感ずるのは、サディスティックな衝動の本質そのものである。同じことをこうも言い換えることができよう。サディズムの目的は人間を物に、生けるものを死するものに変えることであると。余すところなく管理し統制することによって、生命はその本質を、すなわち自由を失うからである」(『人間の心』)。かくして抑圧者の特徴のひとつであるサディズムは、世界のとらえ方に置いて、きわめて死屍愛好的な傾向を示すことになる。彼の愛は倒錯的な愛、生命ではなく死せる者への愛になっていくのだ。

 

より徹底的に支配するために、抑圧者は、生の特徴ともいえる探究意欲、反抗、創造力を抑え込もうとするが、それはまさに生命の殺戮なのである。

 

かれらはまた、この目的に資するためにますます学問を利用するようになるし、抑圧的な秩序を糊塗したり維持したりする手段としてテクノロジーを駆使するようになっていく(マルクーゼ『一元的人間』『エロスと文明』参照)。

 

彼らの思考のなかでは、非抑圧者は対象にすぎず、ほとんど物といっても過言ではなく、したがってその行為に目的意識性はない。抑圧者が彼に与えた目的、それが、すなわち非抑圧者の目的でなければならないのだ。

 

 

腐敗に対して

腐敗はどこからとめることができるだろうか?
もちろん足元からだということになると思う。

 

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対話がおこりうる環境を作っていく。

 

人の話しを聞くということがどういうことなのか、一般には理解がないので、どこへ行っても話しの勢いの強い人が場を支配する。衝動が強い人同士がパン食い競争みたいに相手を押さえて自分が自分がといくので、せっかく人が集まっていても他の人たちがどのように感じているか、考えているかはなおざりにされる。

 

あるいは、相手の話しがどういう意図なのかを確認することなく、違う理解をして勝手に怒りだしたりして、話しが進むどころかむしろスタート地点より後退していく。ネイティブ・アメリカンが木の棒で順番を決めるような、そういう簡単な仕組みであってもあえて話しの場に導入するところにあまり出会わない。話しをすること、対話をすることへの配慮は一般には無視されているといえる水準だと思う。特にグループの場合、飲み会すればいい、懇親会すればいいという以上のことはもう考慮されない。

 

いつも懇親会でなくて、たまには哲学カフェ(哲学対話)をしてみるのはどうだろうか。話しあうとはどういうことか、ちょっとそこの人でやりとりしながら確かめてみるのはどうだろうか。あるいはたまには懇親会にファシリテーターを入れてみては。自分がどんなパターンで相手と話しているのか、相手を支配しているのか。それに気づく機会が必要だ。

 

一人一人が話しをするとはどういうことか、対話はどのようにおこりうるのか。それはつまるところ場を支配する強いものが支配するままにさせないという仕組みの導入と個々人の学びによる変容によると思う。

 

お互いが変わっていくとき社会が変わる。自分一人が同じ思考、同じ態度のまま知識やスキルを蓄積してマッチョになっていっても、周りの人はそのますますの殻の強化ぶりに、あの人はやっぱりあかんという意識を強めて遠ざかってしまう。

 

一人一人が今のままで、集団をつくり、社会に働きかけていくことに展開があるようには思えない。一人一人が現実に変わっていく学びの場が必要だ。

喫茶ランドリー 対話的存在としての人間

ある言葉を確かめていくと、その言葉に関わっているあれとこれの動きが関わり、これとそれの動きが関わるということがおきてくる。そこに一つの自律的な体系がある。地下茎を切らずに手繰っていくように引き出していくと、現れてくる。

 

「対話」ははじめは話しをすることだと考えていた。が、そこでおこっていることのエッセンスは何かと考えていくと、対話は、変容をもたらすやりとりやそのあり方、変容が進んでていく過程のことであるのかなと思えてきた。それは話しをすることだけに限らない。

 

対話がおこるとは、その場所に潜在していて動き出すことを求めてはいるが、それができない力の動きや高まりが動きだし、そのことによって動きだしたものが、その場自体とそれを構成するものをともに変容させていくことだろうと思う。

 

一階にコインランドリー、家事室、喫茶スペースを併設した喫茶ランドリーの事例。最初毎日コーヒーを出して人を招き、呼びかける。やってきた年配の女性たちが喫茶スペースではなく家事室で歓談をはじめる。家族の忘年会をやらせてほしい、事務スペースでパン作り教室をさせてほしい、パンを焼く機械は近所の自分の家にあるから大丈夫といったことがおこったという。

 

毎日のコーヒーの招きいれは、来た人が自分の日常に喫茶ランドリーを位置づける接点、通路づくり。またこの場がよくある他の場所が持っているような規範によって構成されている空間ではないことを知ってもらう。

 

ある場にコミュニティのようなものが派生するとき、ある場は漁礁たり得たのだと思う。勝手にやってきたものたちの体が、この場所を自分が持っていた求めを展開させるために適すると感覚し、活動をはじめる。体が勝手に動くような場所とは、不安や恐れ、内在化させた規範による自己抑制が打ち消される場であり、暗黙に強制される規範を読み、それに従う必要がないと感じさせる場であるだろう。

 

体は自意識にも気づかれないような、自然な逸脱の機会を求めている。場の構造を感じとると、体は勝手に動きだす。年配の女性が、本来であるならばそこに移動すべき喫茶スペースではなく、家事室で歓談をはじめた。自然な話しの展開は、ここで話しなさいと言われてるような場所ではおきない。ある場所(ここでは喫茶スペース)に設定された明示的なコンセプトは、その空間に入った人の意識や行動をあらかじめ縛っている。そこに何かのコンセプトがあるとみなすだけで、人の思考や言動は既に規制されてしまう。

 

友人が帰るときに玄関口で話しはじめたら話しが終わらないというようなことがある。ある場とある場所の境界は、ここはこういう場所だとして、内在化されていたコンセプトを打ち消す。結果的に人は自由になる。縁側、街角などはそのような境界だ。その場が何であるかというコンセプトは内在化され、自動的に振る舞いが固定されてしまうのだが、そのコンセプトや前提を打ち消す仕組みや設定をもうけることで、自律的な動きが間隙を縫って現れてくる。

 

喫茶ランドリーのエピソードは、勝手にやってきたものたちがそこをどんどんと自分たちの共有のものにして、日常の規範の内在化によって雁字搦めになっていた自分から逸脱し、自分たちの生態系をつくっていく姿を見せてくれる。閉じ込められていた規範から逸脱していく媒体を人の体は求めている。

 

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喫茶ランドリーを対話という視点で捉えたらどうなるだろうか。ここでは、社会で人が「常識」として暗黙に求められる抑制が打ち消されている。そういう心配をしなくていい。普段あるような不安や恐怖、強迫が取り除かれた場所では、人は体の求める自律的な運動をおこすようになる。そして世界や周りの人に対して硬直していた関係性を弾力のあるものにj変容させていく。

 

対話がおこるためには、まずそこに関わりややりとりの必然があることが前提だと思う。そして潜在している不安や恐怖、強迫が打ち消される場の構造の設定が必要だ。自律的なものが動きだすことを止めているような見えない恐れを打ち消していくこと、取り除いていくことが対話をおこす。

 

これはオープンダイアローグのような話しの場においても変わらない要素だと思うが、話しの場の場合はもっと自分が揺り動かされるような事柄が扱われるのでより繊細な恐れの取り除き、場の否定的影響の打ち消しが必要になるだろう。どのように人の話しが尊重されるかということが追究された場の設定、技法が用いられる。押しの強い人やある特定の話題だけが場を支配することを打ち消すリフレクティング・プロセス。2人ではなく、多人数で行うことによる支配関係や強すぎる言葉の影響の除去など。

 

自由とは、つまるところ、自意識がしたいことをやるところにあるのではなく、自意識の間隙を縫って自律的なものが動きだし、自分自身や周りの関係性を変容させていくところにあると思う。それには整った環境や設定が必要だ。自律的なものが動きだすためには、普段はその場を支配しているもの、つまり強いものの統制支配を打ち消す必要がある。その強いものとは普段の自分の自分に対する、自意識の統制支配も含む。

 

人の普段の状態は、別に理想的な状態ではない。人は常に自分の社会の規範を内在化した自意識の統制支配を受けている。その安定は擬似的安定であり、欺瞞的安定である。対話や学び、出会いの必然性はここにある。欺瞞的安定の殻、否定するために同じパターンを繰り返す防衛反応が動き出さないような設定や環境を自らに与え、自律的なものを動き出させ、その力によって自分を変容更新させていく。その時、人は対話的存在だといえる。対話的存在であるとき、人は人足り得ているといえる。

 

「ありのまま」はその時点の状態の認識や評価を固定化したり、正当化することではない。それはまだ気づかれていないが、こうであらなければならない強迫的なものを取り除くための打ち消しを意図している。「ありのまま」は動いている。私はこうだと固定化したものは既に「ありのまま」ではない。

 

誰しもが自分の変容更新をもたらす対話をはじめる必要を持っている。対話は、それがおこりうる場を整え、設定し、自分に提供することによって派生的におこる。日々、呼吸し、食べ物を取り入れ排出することを必要とするように、対話を必要とする存在が対話がおこりうる場を自分に提供し、対話的存在として生きていく。対話的存在は、他者とのやりとりとプロセスと共にあるとき、対話的存在足りうる。

逸脱と対話の必然

里見実『「非抑圧者の教育学」を読む』のなかで、里見がフレイレを批判している場面がある。フレイレがたびたび動物と人間の対比をしながら人間というものの価値を見出すところだ。

 

パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む

パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む

 

 

フレイレは、動物が過去や未来を持たず、単に今の目の前のものに対して反応しているのに過ぎないのに対して、人間は現在だけに閉じ込められているのでなく、過去や未来という歴史的な尺度を持った時間を生きているとし、それを人間ならではの価値とみなす。

 

里見は数日間姿を消していた隣の猫が帰ってきて、その冒険を里見に伝えようとしていたエピソードを紹介し、動物が現在と目の前のことだけに生きているというフレイレの安直な対照化を批判する。

 

自分と違うものに対して、自分たちの尺度を勝手にあてはめ、劣等性をつくりだし、それに対して自分たちが優れているとするやり方は、かつて貴族が自分たちをもって人間とし、奴隷と対比して自分たちが自由な存在だとしていたこと何ら変わらない。

 

またこれは里見が批判したことではないが、過去と未来を含めた時間を生きているということが人間というか自意識の根源的苦しみであり、強迫的に生を所有しようとする暴走を生む源だろう。過去と未来を獲得したと同じかそれ以上に人間は疎外され、喪失している。今ここしかないリアリティを過去と未来という二次的現実に奪われてしまったのだから。

 

12歳で海のマイクロプラスチックを除去する仕組みを発明した人の話しがシェアされていたが、強制的に教育された後に何らかの立派な価値を身につけるというのは管理に都合のいいだけの神話に過ぎない。天才かどうかということではなく、一斉画一教育でない、その人に適した学びの環境をつくること、そちらが本来だということだ。そこに過去と未来は内包されている。結果的に不可知な未来に向けて生きる力を大きく獲得する。

 

今ここを過剰に奪われてしまったからこそ人間の疎外状況がある。僕は、決まったかのように見える状況を逸脱していくということが人間を含めた生きものの生きものたる求めであり、喜びであると考える。人間は過去と未来を持っているのだと誇ることは「病気」を自慢するようなものだと思うが、だがその病気もまた一つの逸脱の媒体として求められたものだ。戻るのではなく、さらに状況を逸脱する。「改善」「成長」みたいな、過去の正統化から始まる押し付けがましい言葉を使うのではなく、そのような現象は現在の状況からの逸脱なのだととらえる。

 

鳥は飛ぼうとして進化したのではなくて、当時の大気の濃度の低さをカバーするための肺構造の発達が結果として飛行に繋がったという。必要に迫られた肺構造の変化がスピンオフし、求めていなかった逸脱の獲得が、鳥を一つの安定的類型として位置づけた。「成長」も「発展」もまた神話だ。それは連続しているようにみえても、別のものなのだ。ただ現在の状況に対してより望むかたちの逸脱があるだけだろう。

 

人間は対話的存在であるときに全うになる。権力が腐敗するのは、力で変わらない自分を押し通せるようになったことによって対話の必然を失うからだ。生は必要最低限で生きようとする。自分の殻を厚くする。その保守性は不安定で容赦のない厳しい環境で生き延びるための性質だ。だが人間として生きることは、その前提、デフォルトの体勢を逸脱し、対話的存在として常に更新されながら変わっていくことだ。それは文化であるといえるだろう。自然林ではない人工林(文化)は放っておけば荒れていく。文化のほうに逸脱した以上、放置せず、自ら考え、工夫し、ケアすることは宿命づけられている。

対話 学び 出会い それぞれの言葉の含み

対話、学び、出会い。

 

これらの言葉は共通する要素を持っている。これらは自分の認識が更新される事態に関わる言葉だ。だがそれぞれに含まれているニュアンスはやや異なる。何が異なるのか。

 

対話は、更新に至る過程、あるいは更新にいたるためのやりとりのあり方や態度、手段についての言葉であるように思われる。

 

モノづくりの時、モノとの対話という表現が使われる。もちろんモノはしゃべらない。ただモノとしてあるだけだ。一方、人間のほうはそこに何かの意図をもって関わっていく。モノは人間が何かの意図をもっているか関係なく、ただそれ自身としてあり、いかなる譲歩も妥協もしないために、人間はモノに対して自分の意図を遂行するためには、そのモノの理を知っていくことが求められる。そして遂行が困難であればあるほど、モノだけでなく、自然のあり方や、そこへの自分の関わり方、そして自分自身について知っていくことが必要になってくる。

 

そこに厳然としてあり、行き先を阻む壁に対して、人は自分のいい加減な認識、思いこみ、怠惰さ、投げやりさといったものに対峙し、それらを取り除いていく。自分と世界との応答的な関係を阻害していたものに気づき、それらを外していく。その時に、モノのあり方は変化する。それはあたかもモノが応えてくれただけでなく、導いてくれたような感覚も生むだろう。モノはあたかも自分を深く導くためにそのようにあったかのように。

 

このようなモノとの対話のあり方を踏まえると、対話というのは、相手を知ったり理解するためには、まず無自覚だった自分のあり方に対峙し、関係性を阻害していた認識や態度に気づき、それらを取り除いていくということに力点がおかれるものだということが見えてくるように思える。今の自分がもつ認識のまま、もっている力で状況を無理矢理に変えようとしたりすることを「努力」と錯覚しがちだが、気づきを後退させることは、状況を拗らせ、停滞させることに繋がるだろう。

 

状況を停滞させている要素をいかに取り除いていくか。それは自分以外の場の構造についてもそうだが、自分のなかに内在していて無自覚なものに対して、いかに気づきを向ける状況を作れるのかという試行が必要だ。話しの場における対話とは事実上、お互いに探究しながら、そこにある停滞要因を一つ一つ発見し、取り除いていくこの試行の作業のことだろう。対話を「する」ことはできない。対話は「おこる」ものであり、そこにあった阻害要因が取り除かれていくことによって、自律的なものがそれ自体の力によって浮かび上がり、場と人が更新される事態だ。

 

先に、仁藤夢乃さんの投稿のシェアした際に、既に上から目線だったり、暴力を振るってもいい相手だと認識しているようなこと自体が既に対話を不可能としているという指摘があったが、対話を「おこる」ものと考えるときは、そのような無自覚な認識自体も気づき得るような場の設定が必要だということになる。対話ということを想定するとき、そこで自意識ができるのは、無自覚なものに気づき得る場の整えであり、そのための試行のことである。それは狩りをするような周到な意図と一つ一つの吟味を必要とするものであるだろう。


 

以上のことから、対話という言葉は基本的に、変容がおこりうる場の設定や手段、相手とのやりとりの試行を指していると考えていいのではないかと思う。

 

学びという言葉には、意図され、ある種の方向性をもって繰り返される更新、そしてその結果として、世界に対してより豊かな関係性が開かれることといった含みがある。対話という言葉に比較して、継続性、個人の意図的な方向性をもった更新といったニュアンスがある。意図や継続性といった側面に力点がおかれた言葉なのかと思う。

 

出会いという言葉は、シンプルに更新自体を指すものだろうと思う。対話が整えと試行によって阻害要因を取り除いていった結果、出会いがおきる。学びという意図的、継続的な関わりのあり方が重ねられていった結果、出会いがおこる。学びの場合も、蓄積ではなくて、吟味の末の棄却が重ねられることによって出会いがおこるということだと思う。

 

対話は「する」ものではなく、「おこる」ものといってきたが、実際に「おこる」のは出会いである。出会いは意図できぬ事態であり、予想しない変化である。このことを踏まえ、人は整えと無自覚なものを明らかにしていく試行しかできないことを理解するとき、それは対話と呼ばれるものになり得るということだと思う。

非人間化と人間化 

有権者が直接議員になってほしいと求めたわけでもない比例当選の衆議院議員杉田水脈氏。議員になる前からこの人の思想と発言傾向は知られていたのに、自民党があえてわざわざこの人を選ぶことの意味。差別、ヘイト、暴言、不祥事で世間を溢れさせれば人はいちいち反応しなくなるのがよくわかる。自分たちの腐敗が見えないぐらいに人を馴らし、より鈍くさせ、共に腐敗させていけばいいのだ。選択は戦略的であって、その成果も明らかだ。

 

 

日本は人々の意識が高く、何かを学んだから民主主義国家になったわけではないだろう。澱のように底に溜まった意識は戦前のままだ。考えることなく、力によって押し流され、入れられた箱に適応せよと言われ従っただけ。事を荒立てない和、強いものが批判や序列の変化を押しつぶす事を共犯者としてみなで積極的・消極的に支持してきた。今の時代を生きて、元に戻るということがこういうことなのかと実感される。

 

パウロフレイレは、人間を非人間化するシステムとして、社会は作動していると指摘する。「人間化」などは空虚な理想論であるとして人は「現実」に順応する。そのことによってその「現実」を自ら再生産していく。

 

里見実は「現実」に順応することとは、その「現実」と私とが、すなわち客観と主観とが一体になる、ということだという。「私」は現実という名のマシーンの一部になり、その機能を代行する。そのことによって、私は自らを徹底的に没主体化、非人間化していくと。

 

フレイレは、主観性を抜きにして客観性を捉えることはできないとする。両者はダイナミックに相互作用し、現実は主体の働きかけの如何によって違った展開を示す。人間が動きはじめれば、世界もまた動きはじめる。

 

いわゆる「社会運動」の役割は今ある秩序や機構に圧力を加え、変えようとすることであると思う。そして多くの人がそれをしたくない。全体主義的な運動しか知らないから。個人が個として主体化していくことがどのように遂行されるのかを知らないまま、不幸にもそのことが一般化されないまま現在の状態があると思える。

 

社会を変えることは思考をもつ人がそれに従う人を一斉動員することによって達成されるのではない。多くの人が集まり、何かをするということがおこるのは、それまで育てられてきたものの自然な反映を基盤とすると考えるのが妥当であるだろう。

 

個人が個人として主体化すること、人間化すること、この私として回復していくこと。これらは同じことだ。このことをそれぞれの場所で進めていくことが必要だと思う。動員数の多寡ではなく、社会を構成する小さな単位としての人が質的に変容していくことが重要なのだと思う。

 

それは小さくとも自分たちの自律的空間を作り、そこで世界と自分との関係を更新していくことだと思う。提供されたプライベート(privateのvateは投票権vote、priveはdeprive(奪う)、つまり公的存在であることを奪われた(deprive)奴隷の時間や世界のことと聞く。)という部屋だけを自分の世界とし、そこに閉じれば閉じるほど、その部屋を構成する建物は腐敗していく。

 

人、世界と対話的関係性を作っていく。問題を個人の心のうちのこととしてはいけない。この世界、この現実と自分との関係がどうなっているのか。世界に働きかけ、直接変えて自分たちの場を世界から取り戻していくこと。その主体的な働きかけのなかで個人は回復していく。