降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

非人間化と人間化 

有権者が直接議員になってほしいと求めたわけでもない比例当選の衆議院議員杉田水脈氏。議員になる前からこの人の思想と発言傾向は知られていたのに、自民党があえてわざわざこの人を選ぶことの意味。差別、ヘイト、暴言、不祥事で世間を溢れさせれば人はいちいち反応しなくなるのがよくわかる。自分たちの腐敗が見えないぐらいに人を馴らし、より鈍くさせ、共に腐敗させていけばいいのだ。選択は戦略的であって、その成果も明らかだ。

 

 

日本は人々の意識が高く、何かを学んだから民主主義国家になったわけではないだろう。澱のように底に溜まった意識は戦前のままだ。考えることなく、力によって押し流され、入れられた箱に適応せよと言われ従っただけ。事を荒立てない和、強いものが批判や序列の変化を押しつぶす事を共犯者としてみなで積極的・消極的に支持してきた。今の時代を生きて、元に戻るということがこういうことなのかと実感される。

 

パウロフレイレは、人間を非人間化するシステムとして、社会は作動していると指摘する。「人間化」などは空虚な理想論であるとして人は「現実」に順応する。そのことによってその「現実」を自ら再生産していく。

 

里見実は「現実」に順応することとは、その「現実」と私とが、すなわち客観と主観とが一体になる、ということだという。「私」は現実という名のマシーンの一部になり、その機能を代行する。そのことによって、私は自らを徹底的に没主体化、非人間化していくと。

 

フレイレは、主観性を抜きにして客観性を捉えることはできないとする。両者はダイナミックに相互作用し、現実は主体の働きかけの如何によって違った展開を示す。人間が動きはじめれば、世界もまた動きはじめる。

 

いわゆる「社会運動」の役割は今ある秩序や機構に圧力を加え、変えようとすることであると思う。そして多くの人がそれをしたくない。全体主義的な運動しか知らないから。個人が個として主体化していくことがどのように遂行されるのかを知らないまま、不幸にもそのことが一般化されないまま現在の状態があると思える。

 

社会を変えることは思考をもつ人がそれに従う人を一斉動員することによって達成されるのではない。多くの人が集まり、何かをするということがおこるのは、それまで育てられてきたものの自然な反映を基盤とすると考えるのが妥当であるだろう。

 

個人が個人として主体化すること、人間化すること、この私として回復していくこと。これらは同じことだ。このことをそれぞれの場所で進めていくことが必要だと思う。動員数の多寡ではなく、社会を構成する小さな単位としての人が質的に変容していくことが重要なのだと思う。

 

それは小さくとも自分たちの自律的空間を作り、そこで世界と自分との関係を更新していくことだと思う。提供されたプライベート(privateのvateは投票権vote、priveはdeprive(奪う)、つまり公的存在であることを奪われた(deprive)奴隷の時間や世界のことと聞く。)という部屋だけを自分の世界とし、そこに閉じれば閉じるほど、その部屋を構成する建物は腐敗していく。

 

人、世界と対話的関係性を作っていく。問題を個人の心のうちのこととしてはいけない。この世界、この現実と自分との関係がどうなっているのか。世界に働きかけ、直接変えて自分たちの場を世界から取り戻していくこと。その主体的な働きかけのなかで個人は回復していく。