降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

逸脱と対話の必然

里見実『「非抑圧者の教育学」を読む』のなかで、里見がフレイレを批判している場面がある。フレイレがたびたび動物と人間の対比をしながら人間というものの価値を見出すところだ。

 

パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む

パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む

 

 

フレイレは、動物が過去や未来を持たず、単に今の目の前のものに対して反応しているのに過ぎないのに対して、人間は現在だけに閉じ込められているのでなく、過去や未来という歴史的な尺度を持った時間を生きているとし、それを人間ならではの価値とみなす。

 

里見は数日間姿を消していた隣の猫が帰ってきて、その冒険を里見に伝えようとしていたエピソードを紹介し、動物が現在と目の前のことだけに生きているというフレイレの安直な対照化を批判する。

 

自分と違うものに対して、自分たちの尺度を勝手にあてはめ、劣等性をつくりだし、それに対して自分たちが優れているとするやり方は、かつて貴族が自分たちをもって人間とし、奴隷と対比して自分たちが自由な存在だとしていたこと何ら変わらない。

 

またこれは里見が批判したことではないが、過去と未来を含めた時間を生きているということが人間というか自意識の根源的苦しみであり、強迫的に生を所有しようとする暴走を生む源だろう。過去と未来を獲得したと同じかそれ以上に人間は疎外され、喪失している。今ここしかないリアリティを過去と未来という二次的現実に奪われてしまったのだから。

 

12歳で海のマイクロプラスチックを除去する仕組みを発明した人の話しがシェアされていたが、強制的に教育された後に何らかの立派な価値を身につけるというのは管理に都合のいいだけの神話に過ぎない。天才かどうかということではなく、一斉画一教育でない、その人に適した学びの環境をつくること、そちらが本来だということだ。そこに過去と未来は内包されている。結果的に不可知な未来に向けて生きる力を大きく獲得する。

 

今ここを過剰に奪われてしまったからこそ人間の疎外状況がある。僕は、決まったかのように見える状況を逸脱していくということが人間を含めた生きものの生きものたる求めであり、喜びであると考える。人間は過去と未来を持っているのだと誇ることは「病気」を自慢するようなものだと思うが、だがその病気もまた一つの逸脱の媒体として求められたものだ。戻るのではなく、さらに状況を逸脱する。「改善」「成長」みたいな、過去の正統化から始まる押し付けがましい言葉を使うのではなく、そのような現象は現在の状況からの逸脱なのだととらえる。

 

鳥は飛ぼうとして進化したのではなくて、当時の大気の濃度の低さをカバーするための肺構造の発達が結果として飛行に繋がったという。必要に迫られた肺構造の変化がスピンオフし、求めていなかった逸脱の獲得が、鳥を一つの安定的類型として位置づけた。「成長」も「発展」もまた神話だ。それは連続しているようにみえても、別のものなのだ。ただ現在の状況に対してより望むかたちの逸脱があるだけだろう。

 

人間は対話的存在であるときに全うになる。権力が腐敗するのは、力で変わらない自分を押し通せるようになったことによって対話の必然を失うからだ。生は必要最低限で生きようとする。自分の殻を厚くする。その保守性は不安定で容赦のない厳しい環境で生き延びるための性質だ。だが人間として生きることは、その前提、デフォルトの体勢を逸脱し、対話的存在として常に更新されながら変わっていくことだ。それは文化であるといえるだろう。自然林ではない人工林(文化)は放っておけば荒れていく。文化のほうに逸脱した以上、放置せず、自ら考え、工夫し、ケアすることは宿命づけられている。