降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

防災畑と防災食堂 自律的空間づくりが内在化された価値観や行動様式を変える 

政権がどんなに腐敗しても、それを支持する4割弱の人がいるという。選挙にいき、自民党に投票する人が1700万人いれば国の運営や体制はこのまま続いていくのだろうか。4割支持のうちのそのまた半分の人が投票に行って。

 

約5000万人の選挙に行かない人がいた。その人たちに考えや認識をあらためてくれと色んな宣伝媒体を使って働きかけたらその人たちは「変わる」だろうか。

 

僕は四国八十八ケ所を巡る旅人たちのインタビューをしていた。転機にたった旅人たちは、それまでの自分の価値観を更新するために徒歩で全長1200kmにいたる旅を利用していた。内在化された価値観、行動様式を変えるためには自分のうちに出来上がってしまったリアリティを揺り動かす体験、リハビリが必要だと思う。わざわざ体を動かし、自分を不安定にする旅をするまでしないとなかなか変わらない。それが人間だと思う。

 

仕事と家以外の何がしかの第三の活動を確保、提供しないことには、ちょっと言ったり広報したりするぐらいで人はそんなに変わらないと思う。自我の防衛機能は「逸らす」ことであり、人は逸らすことを得意とし、自動化しているのだから。

 

人は社会から自分を主体だと教えられるけれど、自分の判断で自分を元気にし、環境に働きかけ環境を変容させていく存在になっている時に主体なのであり、決められたことに従うこと、そこから抜け出られないことは主体以前なのだと思う。どれだけの人が精神的な意味で自分の足でたっているだろうか。自分たちが主体以前であることを認めて、どうやったら主体化していくのか、自分で自分に責任をもち、更新していく存在になるにはどうしたらいいのかというところがスタート地点だと思う。

 

必要なのは、自分として主体化していくこと。そのリハビリには自律的空間を自分たちで作っていくということが適している。自分の価値基準はどうなっているか、自分の深い求めとは何か、そしてその求めはどのよう展開しうるか。自律的空間は「完成」以後に意味があるだけではなく作り始める時点でリハビリを提供する。そこで人は、それまで一体化していたリアリティから距離をもつことができ、そのリアリティを揺り動かし内在化されてしまった価値基準を更新しうる。

 

自律的空間づくりをどのようにスタートできるか。僕たちは子ども食堂ならぬ防災食堂をやろうと思っている。災害時や経済破綻時を想定し、その時期を乗り越えるにはどうしたらいいのかを共に考えられる学びの場もそこに併せて。身の回りで借りられる土地を借り、防災畑として自家菜園を作り、自らの備えを整えると共に、防災食堂で提供できるようにする。行政の代わりを担うような大ごとをするつもりはなく、防災という全ての人にとって関わりがある文脈のもとで、学びと交流の場、対話の場、社会に刷り込まれた自分の価値観を更新し、主体化していくちいさい場所を作る。重要なのは内在化し安定してしまった個々の価値観とそれに伴う行動様式を更新することなのだと思う。

 

全国に2000ヶ所以上あるという子ども食堂。もしそれぞれの場所の人たちがかりられる土地で自家菜園をして、少しでも自分たちの食料備蓄をし、文脈を子どもの貧困に限ることなく、市民が共に自分たちの明日を守る防災食堂と自分たちを置くとどうなるだろうかと想像する。自律的な場所は人の精神を主体化させ、全体ではなく、個人を基軸とした公共を生んでいくのではないだろうか。

宇沢弘文 社会的共通資本のお話しを聞きに

 

社会的共通資本 (岩波新書)

社会的共通資本 (岩波新書)

 

 

社会的共通資本のお話しを聞きにいく。宇沢弘文さんという経済学者の方が提起したものとのことだったけれど、初めて知った。

 

メモ。

 

投資と投機の違い。投資は社会的事業に対して行うものであるのに対し、投機は利ざや稼ぎをするためのもの。

 

ミルトン・フリードマンの名が出てくる。英ポンドの切り下げの際に先に得た情報から空売りし、それに批判的だった人に、儲けられる時に儲けないものは紳士でない、といったエピソードも。

 

大恐慌前の経済学は新古典経済学。その特徴は政府が介入しない自由放任、どの資本も必要ならすぐ別の形態に変わって生産し始められると考える移動可能性(マリアビリティ)、所得配分の公平性の無視など。

 

大恐慌は、銀行までが投機を行う自由放任主義のなれの果て。

 

それに対して現れたケインズ経済学は、自由放任の新古典経済学の主張である、マリアビリティの不可能性(一旦作った設備が売れなくなったからといって直ちに他に転用できるわけもない)、投機が横行することにより市場は不安定になり、バブル崩壊がおこるということも証明した。

 

1933年ルーズベルトが大統領に就任。グラス・スティーガル法によって、公共的な存在である銀行の投機を規制。

 

(その後この法はビル・クリントンにより撤廃され、規制を解かれた無秩序な投機によってやがて2008年リーマンショックがひきおこされる。

 

トランプは富豪だが、軍産複合体のようなエスタブリッシメント(既成の権威的勢力)とは独立している。一方、ヒラリーはそこにどっぷり浸かっている。

 

トランプは2017年のインタビューのなかで、投機を制限するグラス・スティーガル法を復活させる検討に着手したと発言。トランプは、北朝鮮の融和、ロシアとの友好など、既成の権威的勢力にとっては好ましくない動きも行っている。)

 

ケインズ政策は、財政出動にとる有効需要の創出と完全雇用の達成、社会基盤への投資を大きくし、経済的な活況を目指した。第二次世界大戦後、国内に戦争被災がなかったリードをもつアメリカは世界経済の中心に。

 

だがベトナム戦争により疲弊。1971年に金とドルの交換に耐えきれなくなり、交換を停止したドルショック、1973年にはオイルショックがおこる。

 

ケインズ主義の限界と行き詰まり。アメリカはピノチェトのクーデターを通して、市場原理主義の導入の実験をチリにて行う。

 

さらに並行して、ベルリンの壁崩壊など、社会主義の崩壊がおこったため、資本主義とせめぎ合うものもなくなり、一気に市場原理主義が浸透する。

 

市場原理主義は、公共事業はや公共サービスを大幅に削減し、弱者を切り捨て苛烈な自由競争を妥当とみなす。代表的な指導者としてレーガンサッチャー、中曽根。中国はこの頃資本主義経済に加わったためあからさまな市場原理主義体制に。

 

アメリカはレーガン政権時代に独占禁止法規制を解除。食という生命に直結する資源であっても一私企業が生産から販売まで一手に握ってしまう「垂直統合化」の動きが推進。代表的企業としてウォルマートなど。貧困層に提供されるフードスタンプウォルマートの商品の購入するものとなっている。

 

オバマは食業会の腐敗や保険問題の打開をうたったが、メスを入れることはできず。

 

市場原理主義の進展によって、医療破産の激増、中流階級の崩壊、医師たちの疲弊、劣悪な公的保険、返せない学資ローン(破産しても免れない)、刑務所の商業化(受刑者を第三世界の労働者より安価な労働力として利用。罪の軽重に関わらず3回の有罪で終身刑になるスリーストライク制の導入。)などがおこっている。

 

「民営化」の実態は、私有化であり、公共性を担保しない個人が自由勝手にインフラを握ることになる。アメリカに十分な鉄道がないのは、自動車会社が鉄道敷地を全て買取り、鉄道の発展を許さなかったため。力を持つものが自分への利益を誘導するために公共的なものに対して介入してくる。日本国鉄民有化も、資産として付随していた一等地が狙いにされていた。朝日をはじめとする大手マスコミの本社所在地も国鉄民営化の際に手に入れられたもの。

 

新古典経済学、ケインズ経済学、市場原理主義社会主義をこえた体制としての社会共通資本の導入。

 

社会的共通資本とは、全ての人が豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を継続的、安定的に維持することを可能とするような社会装置。

 

具体的には
自然環境 大気、水、森林、河川、湖沼、海岸、沿岸、湿地帯、土壌など
社会的インフラ 
制度資源 教育、医療、金融、司法、行政など
農の営みと農村、都市なども社会的共通資本

 

例1 香川県満濃池(ため池)
ため池は紀元前にスリランカで作られた技術。水をためるだけでなく、どう分配するのか、平等を保証するのかが「技術」として伝えられた。これが大乗経典に書かれ、仏教僧が日本に持ち帰り役立てた。親子でも水は別と言われるように水は根深い争いの要因。水争いを治めるためのため池。

 

例2 筑後川山田堰
ペシャワール会、中村医師が支援先で同じものを作る。堰によっておこったトラブルも筑後川山田堰の記録に記されているものと同じパターン。対応の仕方もその記録を参考にした。

 

次回は、日本における市場原理主義の具体例の紹介がされる予定。その後の懇親会の際に、それぞれ活動している人が自分の活動や考えを発表する場にしては、と提案する。

里見実 『「被抑圧者の教育学」を読む』

里見実さんが難解と言われるパウロフレイレの「被抑圧者の教育学」を解説してくれる本。序章からしてよかったので一部を転載。


対話とはおしゃべりではなく、自分が投げ込まれたこの世界について話しあうことなど、本質が掴まれている。僕は問題を個人の心のうちのこととして閉じ、社会の歪みを問わない臨床心理学へ疑問を持っているが、そういうところもきちんとこえられていると思った。

praticaという言葉を、フレイレは意識的な「実践」という意味で使っているようですが、しかしこの言葉は、そればかりではなく、惰性的な行為、つまり「慣行」や制度化された行為を意味する言葉として、昔から使われてきました。

「慣行」としての教育はまさに「抑圧」の行為であって、私たちは通常そういう「教育」に馴染んでいます。「ほんとうの教育」などとよく言いますが、抑圧こそが教育の「ほんとうの姿」なのかもしれないと、私などは日ごろ疑っています。「教育」とか「教育する」などという言葉に出会ったら、ちょっと身構えたほうがよい、と

 しかしその「抑圧」を本質とする「教育」という制度を、その本質とはずらした実践の場、自由と解放の行為に転換していく可能性をフレイレは信じていて、その「反転」の契機を探っているのです。

 彼が求めている「反転」の条件は、(略)『伝達か対話か』の題名として示されています。この本の原題はextensión o comuniucatiónで直訳すると「普及か、コミュニケーションか」となります。

「普及」という言葉は私たちの周辺でもよく使われます。商品の普及とか知識の普及、(略)フレイレが亡命先のチリで主要にかかわったのは、こうした農業技術の普及員や民衆教育に携わる人びとでした。こういう人たちがおこなっている「普及」という仕事の在り方に、彼は根底的な疑問を投げかけたのです。普及という概念には、以下のような意味あいがふくまれているというのです。

 伝達、能動的な主体すなわち伝達し・教育する者たち、伝達され教育される受動的な客体、伝達される内容の優越性と伝達される側の劣等生、伝達内容が伝達者側によって一方的に選定されること、またその内容の固定性、交付行為、メシアニズム(救済観念)、機械的注入、文化侵略

 伝達や普及は、結局のところ、抑圧の行為です。抑圧の行為として機能している教育を解放の行為に変えていくための手がかりは、普及をやめてコミュニケーションをつくりだしていくことです。コミュニケーションというのは、場のなかの行為ですから、コミュニケーションを創出するということは、伝え合いと相互思考の場をつくりだす、そういう人間の関係性をつくりだすということです。

 フレイレが対話やコミュニケーションと言うとき、それはモノやコト、つまり現実を媒介にした対話なのであって、とりとめのないおしゃべりのことではありません。それは自分たちが投げ込まれている世界についての対話なのであり、間合いをおいて世界を見つめ、それに向かって問いを発し、様々な考えをおたがいに出しあいながら、考察を深め、問題解決のための行動を模索する「意識化」の実践なのです。

 大劇場やマスメディアの華麗なスペクタクル、役者たちの巧妙な演技は、しばしば観衆を受け身の「観客」にしていきます。人々が主体であることを放棄したときに生まれてくる文化を、フレイレは「沈黙の文化」と呼んでいます。沈黙といっても、何も言わないということではありません。口をついて出てくるのは、すベて他者の言葉、主人が、先生が、専門家が、テレビのコマーシャルが、世間の「みんな」が言っている言葉、それが「沈黙の文化」なのです。

 人びとが沈黙の文化を乗り越え、世界を対象化しつつ、それを現実の行為によって変えていくためには、自由のための文化行動、「解放の実践としての教育」が不可欠です。しかし、それをおこなう主体は人びと自身であり、全ての主体の行為がそうであるように、それはみずからの経験、自らの世界認識から出発して、それをふまえつつ、しかしそれを乗り越えていく「学び」の過程として組織されるものでなければいけません。厚く閉ざされた現実のとばりの向こうに、ありうべき未然の可能性を探る、知的な長征でなければなりません。

「もし他人もまた考えるのでなければ、ほんとうに私が考えているとはいえない。端的にいえば、私は他人をとおしてしか考えることができないし、他人に向かって、その他人なしには思考することができないのだ(『希望の教育学』P163)」

 フレイレの名は何かを志向している人たちのあいだで語り交わされていると先ほどは述べたのですが、何かの困難に立ち向かっている人たちのあいだで、と言い直した方がよいのかもしれません。芸術家の実験的な作品は、それを受けとめる読者や観衆との出会いによって、はじめて作品として成立します。出会いによって公衆はそのつど生みだされるのです。芸術だけのことではないでしょう。話すことも、考えることも、作品を創造することも、民衆との対話を志向する全ての知的創造は、成否の定かでない一瞬一瞬の賭けであらざるをえないのです。

 

地域における対話とは 

地域について、哲学対話について、対話する場へ。

 

ある程度物理的な広がりをもつ対象を想定するとき、対話という言葉を狭い意味での具体的な話しの場のこととしてだけとらえるのではなく、広い意味にとらえることが必要だと思っている。

 

広い意味において、対話がおこることとは、その場所に潜在していて動き出すことを求めてはいるが、それができない力の動きや高まりが動きだし、そのことによって動きだしたものの力が、その場自体とそれを構成するものをともに変容させていくことだと思う。

 

自律的なものが動きだすことを可能とするバイパスをつなげること。吟味すべき焦点はそこにあると思う。この場においてバイパスとは何なのか。そこから考える。力の流れはバイパスを使って循環し、場を更新し、そこにエネルギーを充たしていく。

 

関わる相手のことを理解し尽くすこと、知りつくすことはできない。むしろ理解したと思えたならそれは関わる態度としては後退している。どんなに知っても理解しても、何もわかっていない。

 

正解、保証、責任といったものを確実に提供することなどできない。関わりが裏目に出て、思わぬ損害をこうむることもありうる。人間関係というのは、そういったことを含めながらしかしお互いをそこに賭けることによって閉じたものを開いていくということなのだと思う。

 

人に関わる時、それがいいように働くとは限らない。だからそこに持ち出せるのは、必然と必然しかない。相手に必然がなければ変容をおこす関わりにはそもそもなり得ない。そして自分に必然になければ相手に関わり続ける力を持ち得ない。相手を自分の関わりの理由をすることは、自己放棄であり、無責任な態度だ。

 

対話とはお互いが異質なもののやりとり。お互いが異質なもであるものが、回避や抑圧という安易なあり方ではなく変容をおこすのは、必然と必然とのぶつかりあいである必要があると思う。

 

ある地域に引っ越してきたこと、親の介護が必要になったこと、小さいころ疑問に思っていたことに向き合う機会をもつこと、自分として生きていくために必要なこと。そういうものが人に必然を提供する。保証された結果などない。しかしやらなければいけない。お互いにそうだ。異質なもの同士の持続的な関わりを担保する理由はお互いの必然しかない。自分の必然とは何か。それを知ることは相手に対して尊厳するということであり、自分の力の源泉を知ることでもあるだろう。

日常と非日常 琵琶湖沖島哲学ツーリズム

日常と非日常をテーマに旅をしながら考える哲学ツーリズムに参加。

場所は滋賀県沖島というところだった。琵琶湖に浮かんでいる島。

 

moori.musyozoku.com

 

バスで港まで行こうとするが、先日の大雨の土砂崩れの影響で行くバスがなくなっている。タクシーで行く。


バスが通っていないのも非日常と言えば非日常だなと思うが、普段と違ったり、初めてのものなら全て非日常なのか。何でもかんでも際限なく非日常となっても仕方がないので絞っていく。


タクシーでもしお金を持ってなかったらどうなるだろうと考える。かなり嫌だが、これも非日常といえるだろう。自分を大きく揺るがすような日常性の喪失というのもある。だがそんなものは別に求めていない。その一方で、自分が求めている非日常というものがあるように思える。洞窟だったり、少し怖そうな神社とか。

 

今回は、後者の感じの非日常を考えてみようと思った。わくわくするような感じをもたらすもの。退屈ではない別の世界に誘ってくれそうなもの。当初は、普段との違いがその感覚をもたらすのかなと。だがそうでもないようだ。小さいがずっと続いていくように見える一本道や分岐点に引き起こされる感覚がある。特定のパターンの風景が現れた時はそれを非日常的なものとして感じるようだ。


自意識にとって、基本的に世界はメリーゴーランドのように認識されると思っている。違うところにいっても、認識のされ方は同じ。自意識は認識の牢獄のなかにいてぐるぐるとそこをまわっている。それは退屈で倦んだ世界だ。だから自意識をもつ人は感覚のされ方を新鮮なものにしたいという求めをもつと思う。その世界認識を更新するものは、出会いであり、学びであると思う。その時倦んだ風景はまた一新される。やがてまた古びるにしても。

 

日常とは決まった繰り返しであり、同じ規範のもとにある。そこでは固定したり、停止したり、引き戻したりする力が優先になる。一方、非日常的な感覚を引き起こすものは、自分の感じ方を変え、状態やモードを変える。非日常的感覚を引き起こされる時、人は不安定になりつつ別の可能性にも開かれる。

 

非日常的な感覚を引き起こされることで、自分に何らかの自律的プロセスが発生する。それは過去、日常ではなかったような、選ばなかったが起こるかもしれなかった別の可能性を遂行するような動機をもっているのではないかと思う。そして何らかのカタルシスに向かおうとしているようにも思える。

 

非日常は、自分のなかに眠らされていた別の可能性を呼び起こすものとして働いているように思う。もしかしたらその別の可能性が本来だったのではないかと思えるような感覚がおき、ふらふらと動かされる。動かされた結果がそれまでの日常を破綻させるようなこともおこりうるのかもしれない。なにせ自意識はこのメリーゴーランドに倦んでいるのだから。

 

旅は、型にはめられた日常を奪うことによって人を不安定にし、感じ方を変える。旅のなかで人は、自分のリアリティをもう一度手探りで再確認しているように思える。これはこういうものだったのか、あれはああいうものだったのか、と。一つ一つのリアリティを再編していった結果、その集積としての思考や認識もまた再編されうるのかと思う。

 

 

対話を簡単にいうならば

開かれゆく対話の文化祭ミーティング。対話という言い方自体が高いハードルになっているのではないかという声がでる。

 

確かに一般の人に「対話に関心がありますか?」と訊いて、「はい、あります。」と直ちに答えてくれるような感じはしない。対話は日常語ではなく、自分のいつも使っている言葉に変換しなければ意味がわからない。え?対話ってどういうこと?あらたまって対話と言われても、どういうつもりで言ってるかわからない。何か無理やり喋らなければいけないのかとか、向き合わなければいけないのかみたいなイメージは出るが自分のものとして対話ということが何であるかわからない。

 

対話という言葉は自分とつながっていない。ではどういうふうに言えば自分のものとして繋がるだろうかと考えてみる。

 

誰かと対話するとイメージしてみる。「会話」でなく、対話という言葉を使う以上は、普段は放っておけばそれほど話さない人や事柄について話すということだろうと感じられる。お互いの間柄にどこか問題を抱えていてそれを解決するために対話する。問題解決のための対話。対話をするという以上は、必然的に普段よりは高い緊張感が生まれ、誰かや自分の内の何かと対峙する感じがする。

 

次に対話の結果として何がおこるのかイメージしてみる。対話の結果としておこることは、人同士の場合は相互変容であるだろう。主張や意見が2つあって、どちらかの主張、あるいは妥協案が選ばれるというのは対話ではない。対話がおこったということは、既に知っているものではない新しい感覚や意識が生まれるということだ。世界、相手や自分の見え方、感じ方が変わることなく、そこに対話がおこったとは言えないだろうと考える。

 

対話を「する」ことはできない。対話は「おこる」ものだ。にも関わらず、世間一般では「対話をする」という言い方もする。「対話をする」というふうに言われることが実際にはどういうことなのかを考える。世間の「対話をする」は話しをするということ、そして普段と異なる他者とやりとりをしてみるという試行のことだろう。

 

誰かと話しをしたところで、相手も自分もまるで変わらないという経験もあるだろう。いや、むしろそんなことばかりだ。そのほうが多い。すると対話は不成立だったと言われる。だがそれは対話自体をしているのではなく、対話がおこるかもしれない試行をしているのだ。世間の「対話をする」は、変容がおこるかもしれないことを願いながら相手と話しをする試行のことを言っているのだ。

 

世間で言う「対話をする」も、変容がおこるかどうかというところに要点がある。しかし「対話をする」には、余計な力みがある。この力みは、相手は説得されなければいけないとか、自分たちは和解しなければいけないとかいうものであることが多く、余計な強迫感を場にもたらすだろう。

 

対話が「おこる」ものだと考えるとき、人は自分が直接に結果を導こうと考える傲慢さを放棄する。傲慢さは思うようにならない焦りや苛立ち、相手への非難を派生させる。しかし自分ができることとは、自分を含めた場を整え、余計な強迫が場に持ち込まれるのを打ち消すことだ。

 

対話の技法とは、普段の話しのやりとりなら消すことが難しい強迫の打ち消しの技法であり、また普段とは別のものとして、相手と出会う角度を提供するものであるのかと思う。変容がおきるために必要なものは打ち消しだ。

 

対話を「する」ことはできない。しかしそれでも「対話をする」と言うならば、それは強迫の打ち消しのために吟味され、整えられた場で、話者がお互いに尊厳を与え合うことによってさらに強迫を打ち消しあいながら相手の話しを聞くということになるのではないかと思う。対話が「おこる」ためには、そこに結果や成果への強迫が入り込むことは阻害要因として働く。あくまで整えがされた結果として対話は「おこる」ものだ。

 

最初の問いに戻る。日常づかいしない対話という言葉を自分の言葉としていい直すならば、それは自分と相手が余計な懸念や心配をすることなく、構えのない気持ちであれるよう、場や時間の選定から話し方まで全て含めてケアをするということ、そして恐れがあったとしても、自分にとって必要な踏み出しをすることであるかと思う。話しのなかで構えのないありようが現れ出る時、それは相手の構えを変え、それがまたこちらの構えを変えていくということがおこりうる。

 

対話を簡単に言うならば、自分と相手が何かを心配することなく、お互いを大切に聞き合い、必要なことを話すということになるだろう。そんな大げさなことではない。相手と自分を大切にするということにはどこまでも奥行きがあるけれど。対話を学ぶとは、話し方や特定の技術を学ぶことではなく、相手と自分を大切にするということがどういうことかを学ぶことであるだろう。

8/4、5 開かれゆく対話の文化祭

8月4日、5日のイベントです。

開かれゆく対話の文化祭



関わるそれぞれの人がアイデアや自分の知っていることや関わりを持ち寄って企画しています。僕は修復的司法という対話の手法に関心があったので、その紹介をしてくださる方をお呼びしました。

 

対話するという言い方をしますが、対話は「する」ものなのか、「おこる」ものなのかと考えると「おこる」ものだと思えます。「する」こととは間接的な整えと位置づけるのが妥当だと思います。何かを「しよう」としすぎている人はむしろ自然な変化から遠ざかるように思います。自分はやっているつもりでも、はたから見ると、しようとしている目的からも遠ざかっているというジレンマがあるなと思います。

 

素人からみると「対話ができる人」になるために色々なファシリテーターの資格をとったりしても、「する」ことにムンムンしている人、こうしなきゃと一途に思いつめている人は自分のあり方や達成度のほうに意識がいっていて、「ふつうにきく」を失っている人が割といると思います。技術があるのはいいけれど、そのせいで「ふつうにきく」を失っているなら、それは後退であって、聞かれている人は居心地悪いと思います。自分だったらどういう聞き方をされたら自然に心がひらくだろうとはもう想像したりしなくなっているのかな?と思います。

 

対話を「する」のではなく、対話が「おこる」と捉えるとき、人は謙虚になって、余計な力が抜ける。ムンムンさが消える。エッツの絵本『わたしとあそんで』では、女の子が自分の好きに生きものと遊ぼうとするとき、どの生きものも萎縮して遊んでくれませんが、女の子がそうっと静かにしているとそれぞれのあり方で動きだし、関わってくれます。

 

それぞれの自律的な動きを萎縮させているような力や動きを打ち消すこと。それが手法というものを持ち込むことの意義なのだと思います。ふだんは打ち消されにくい何かを打ち消すために手法がある。手法によって打ち消された状態が訪れると自律的なものが動き出す。「する」意識が強いときは、手法が物事を遂行するのではなくて自律的なもの自体が遂行するという信頼がないときだと思います。そうなってしまうと手法はむしろ強迫的なものを場に持ち込み、自律的なものを停止する本末転倒の機能を持つことになるのではないかと思います。

 

色々な手法に触れることの意義は、その手法を媒介することによって、何が大切にされているのかを感じとることなのかと思います。何もかも身につけてマッチョになるのではなく、当事者として、自分がほどかれるということがどのようにやってくるのか、来てくれる人たちがそれを感覚できる場となればいいなと思います。

 

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「開かれゆく対話の文化祭」
日時:2018年8月4日(土)10:00~15:30
8月5日(日)10:00~17:00

懇親会:8月4日(土)15:30~20:00

場所:宝塚大学梅田キャンパス 401号室(定員120名) 
日曜日は、加えて他の教室を使うこともできるようです。
http://www.takara-univ.ac.jp/kango/facilities/

参加費:1日目のみ参加 1000円 
    2日目のみ参加 1000円
    両日とも参加 2000円

    懇親会参加費 1000円

学生は半額の1日500円で、懇親会も500円。保育ボランティアで参加してくれた方は、全て無料。子どもの参加も無料。生活が困窮していて、支払いが困難な方も無料です。

参加のお申し込みは、集計の必要のため以下のこくちーずにてお願いします。一次締め切りは7月14日。当日飛込参加もOKです。保育のニーズをお聞きします。参加費は当日お支払いください。

参加申し込みはこちらから

https://www.kokuchpro.com/…/dcaa06f31cb3b823841fecf…/326646/

対話に関心のあるどなたでも参加しやすいように参加費設定をしていますが、不足分が生じた場合、友愛のお気持ちでカンパやドネーションを頂けると助かります。

【企画主旨】
2018年8月4日5日の土日に、宝塚大学の梅田キャンパスをお借りして、対話に関心のある全ての方が参加できるフォーラムを企画しています。『リフレクティング』の著者、熊本大学の矢原隆行さんを招いて、多分野の人たちと集い、様々な事象について話し合う会を企画しています。

対話の文化祭では、精神保健福祉のみならず、地域作り、環境問題、政治・経済、貧困、難民、外国人・移住問題など、日本に生きる、人と人のあいだに生ずることについて、様々な仕方でつなぎ、丁寧に聴くことと話すことを折り重ね、新たな流れを生み出す場を作りたいと思っています。気が付けば、色んな生物がそこに集える大樹のごとく、年を重ねるごとに豊かに多様な森になるような文化を、みなさんと作りたい。

今回は、そのための小さなステップをみんなで踏み出せる場にしたいと思っています。多種多様な分野が交流できるリフレクティング・プロセスや未来語りのダイアローグの手法を使って、ひとりひとりの思い描く、よき未来を一緒に分かち合ってみましょう。この祭りを通して、対話と助け合いの文化のネットワークが生まれることを願っています。

内容

一日目(8月4日)
10:00~10:30 イントロダクション  

10:30~12:00 修復的司法について 小松原織香さん
基本的なお話と対話風景のDVDを観る

修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。
「被害者加害者対話」は、犯罪の被害者と加害者が対面し、事件について話し合う取り組みです。現行の司法制度だけでは解決できないさまざまな葛藤を、当事者同士が気持ちを伝え合うことで互いの精神的な回復や立ち直りを図り、償いの方法などを模索します。米ミネソタ大学の調査では、こうした対話を経験した被害者の8割以上が満足し、加害者の再犯率が約3割減少したといいます。

12:00~13:30 昼食(福祉事業所などによるお弁当の販売を予定しています)

13:30~15:30 「リフレクティング・ワークショップ」
リフレクティングは、「文脈」と「間」,「場」,そして,「ことば」に対する深い洞察に 裏付けられた,まったく新たなコミュニケーション空間の創出方法です。聴くことと話すことを分けて、丁寧に折り重ねて映しこみ合っていきます。『リフレクティング』の著者矢原隆行さんと訪問看護ステーションKAZOC三ツ井直子さんのペアでの、体験型ワークショップ。
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b243700.html

これと同時に、子どもも大人も参加できるワークショップを企画しています。

15:30~20:00 「開かれゆく餃子ロード」:国をまたぎ、文化を超える、世界各地の餃子たち。シルクロードを渡り、交流を経て、姿を変えてきた餃子は対話の象徴。餃子を一緒に作りながら、誰でも異文化交流。みんなで粉からこねて、初対面でもすぐに打ち解け、胃袋満たせば世界平和が近付く。

二日目(8月5日)企画中なので変更もあります。

午前の部(10:00~12:00)

A「太鼓でオープンダイアローグ」:言語を介さない身体的な楽器での交流。ドラムサークルなど。新たなコラボが生まれる。16時頃、有志でデモに出発します。

B「入国管理局収容所センターでのリフレクティング・プロセスを構想する」 日本のアバルトヘイトである入管・難民施策。外国人・難民の排除・対立を乗り越えるプロセスについて、話し合う。

C「パーマカルチャー」生きることを、ひとりひとりの手に取り戻す。植物や環境とのやさしい対話。

D こども主催のワークショップを企画中

E 未定

12:00~13:30 ゆっくりランチ

午後の部
テーマ「人がいて、集まり、対話すれば、何ができる?生まれる?」

手法:「オープンスペーステクノロジー」(OST):各人が問いを立て、関心があるトピックに集まり、小集団で話し合う。5人から2000人が参加できる対話法。

この集いを通して、それぞれの暮らしの中で対話が必要とされる時に、必要に応じて仲間が集まることができるようなネットワークができればと考えています。それは、どんな形を取るのか分かりませんが、場や文脈に沿った色んな可能性があると思います。たんにお互いを知るだけでも素晴らしいですが、仕組みとして対話の生活協同組合もありえるでしょうし、グラミン銀行のような対話を促進するファンドやトラストの可能性について話し合ってみてもよいかもしれません。

16:00~まとめからのデモ:ストリートに開かれた何がしか:
会場から大阪市役所に向けて、楽器を打ち鳴らしながらデモします。people powerを賛歌しながら、それぞれ言いたいことを言いましょう

注:以上は案なので、準備のプロセスのなかで変更していく可能性はあります。全く別物になることもあるので、ご了承ください。

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www.kokuchpro.com