降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

神田橋さん 援助者と当事者性 虫籠のカガステル

以下は2014年の8月に書いた文章。前から同じことをなんども言っている。けれど今はそういう感じでは書かないこともある。ちょっと変わるものだなと思う。神田橋さんの話しとかブログの方にも残したかったので、転載。

神田橋條治さんの本のなかで、自分自身がうまく感じ取れない概念を治療者が扱うのは誤りだという指摘がある。「見捨てられ抑うつ」という概念の感覚を自分のものとして少しも感じてないのに、その概念を使って治療しようとしている行為の実態は、むしろ自身の「見捨てられ抑うつ」に対する高度な防衛だったりするというのは共感する。

 

心理学科の学生だったころは、相手を治したいんじゃなくて、自分が自分に変化をおこしたいというのがそこに関わる動機だった。自分が「患者側」だとある意味開き直っていた。そういう時に、周りに対するもどかしさがあった。なぜ、自分でなく人を治そうとするのか。人をケアしようとするのか。その状態は普通の人より更に強く防衛して、自分への意識を逸らそうと層を厚くしている状態で、自分の身体がしたい変化の準備が整う前の前の段階と思っていた。

 

人がどういう状態でも人の勝手なのだけど、自分にとっては、変化の準備が整い、そのプロセスが今おこっている人には周りの人のプロセスを進める力があるので、そういう人のところに行きたかった。そういう力の恵みにあずかるために探して出かけていったりすればいいのだけど、当時はわかってない。

 

自分が何かに参加者として参加するだけでなく、場を設定しだすことを始めれば、自分にプロセスがおこる環境を与えることができる。プロセスの火が冷えないように、とどまらないようにするためには、プロセスを主人にして、自分は世界との調整役となり、プロセスに完全に価値を捧げることが必要になってくる。結局それが、自分に古い習慣のままいることだとか、外の世界との対峙しないのを許さないということになってくるのだと思う。

 

耳を澄ませて、ある選択が自分に力を与えているのか、損耗させているのかを確かめる。これか?あれか?と赤ん坊にその求めるところをきくみたいに、進めていく。プロセスと自意識は一方的な関係。得たいものが欲しいならそうしなさい、というのがヒントしてあらわれるのを自意識は自分でわかるように確かめ、必要なことが起こるために、粛々と外の世界の調整し、はい、全部やらせていただきますという関係になる。

プロセスを進めることが、「自己実現」を進めて行くように見える。でも、自分を昂らせ、高揚させることが目的になっていると、プロセスは停滞すると思う。高揚、興奮は直接求めるものではないと思う。ズレる。反動がきて落ちる。高揚や興奮を「求めなければいけない」のは、何か認めたくないものを麻痺させることにすり替わっていると思う。

個人的には、プロセスに対しての妥当な距離は、「弔い」をするという距離だと思う。そのとき、「自己実現」の自分や他者に対する暴力性が大分中和されると思う。

身に刻んだことを本当に代償することはできない。失われたものをそのままに取り返すことはできない。将来の幸せで、今の不幸せをギブアンドテイクしようという考えは誤りだ。変わらない。どこにもいかない。しかし、その生を引き受け、生ききることで届けられるものも生まれる。それは今を生き苦しむ誰かへの大きな弔いとなるだろう。興奮、高揚へはいかない。傷もそれ自体としてはそのままだけれど。

「必然性を探したって 生物が生まれ持つものは 果てるまで生きる宿命だけ。望んだように生きられるわけでもないし 望まれるように生きる必要もないわ」

「あなたがお父さんに望んだものも 私があなたに望んだものも 手に入らなかったけれど なら一体どうすれば良かったのか。私には 見つけることができた」           -----「虫籠のカガステル」------

 

ざっくりな考え

いつも書いていることは、気になったことをテーマに置いて、そこから言葉を使って見えるものを押し拡げようとしている感じだ。細かく細かくなっていく。

 

細かくみたことがバラバラとあってそれらをひとまとまりにしようとすることがないので、今回は今まで考えてきたことがざっくりどうなのかということを書いてみようと思う。

 

自分のフラッシュバックがきつかったり、対人緊張が強かったり、正社員みたいなのに就職してやっていくようなことは考えにくかった。どう生きたらいいのか、今の閉塞状態からどう自分は移行していくことができるのかを「フィールドワーク」を通して考えてきた。

 

最初は変化を「成長」のように考えていた。だがやがてそこにあるべき姿のような恣意的な前提があることがわかった。また何かを価値あるものとすることによって、心は緊張してむしろ硬直するということがわかってきた。「成長」しようとか、「回復」しようとか思うことが逆にそこへの移行を遠ざけるようなところがある。何かがただ良いものであるとき、それは単に強迫であって、自分を硬直的にさせる。

 

それがわかったので、やってきたことの一つは世間で価値あるものとされているものを相対化して捉えることだった。「成長」「進化」「自立」「発展」「自己実現」とか、そういういい意味しかない言葉や考え方を相対化してきた。生きることにあるべき姿はないし、意味はないというのを吟味してきちんと確かめる。これはネガティブに受け取るということではなく、相対化なのだ。パッとしたきらびやかな概念は、人を高揚させるがその高揚は現状を麻痺させ、抑圧するためにある。

一貫した位置から世界を捉え直して相対化する。人は価値や有用性の評価にさらされている時、次の状態へ移行することができない。いつも自分を強迫している価値や有用性が打ち消されたとき変化がおこる。「人と人」というのは、意味や有用性が一時的ではあれ、打ち消されるやりとりを贈りあう関係性のことだ。その時、人には変化がおこる。

 

使う言葉、考える言葉の言い直し。強迫をもたらす変な言葉を吟味のうえ成り立たなくさせる。一つはそれをやってきた。

 

一方で、自分はなかなかよくある仕事につくようことは耐えられない。多くの環境への適応力はない。感じ方や価値観が違う。世間の人が面白いと思うこととかが、全然面白くなくてどうでもいい。発達障害的な冷たさもあって、人の不幸に冷淡で、人にあまり愛着を持たない。非人間的だし、機械のようだと感じる。これはなかなか生きていく際に不都合だ。この自分がどうやったら生きやすくなるのか。生きていけるのか。そのあり方を知りたい。その求めは強い。それも確かめてきたことだ。

 

自分の関心ある領域で企画とかやってみて、新しい人に出会い、刺激を受け、またそれを基盤として、世界との関わりを拡げていく。これは実践的にやってきたことだ。関連領域に出向いたり、自分が面白いと思った人を講師にした場を作ったり。これはずっとやっていることだ。自分に必要な経験があって、その経験を自分に与えることによって、次の状況と状態がやってくる。自分が生きられる環境とは何かを考えながら同時にそれが可能になるような環境を結果的に作ってきた。生きるということがどういうことなのか、自分自身を実験材料しながら確かめてきた。

 

既知のものと未知のものの境界に位置どり、未知のものとの関わりに踏み出していく。その境界への位置どりに必要なのが、その境界が何なのかを直感的に把握する感覚の培いと自分で環境を調整できる裁量だ。自由な時間、自分が自由に使える媒体、必要な人たちとの直接的な繋がりがあること。これらが自分の裁量で調整できないと人は自分自身を更新していくことが難しくなる。

 

言葉を吟味していくことと、自分の活動は循環的な関係にある。人間は既にある強迫を打ち消していくことで自分を更新できる。どうすれば強迫的なものを打ち消していけるのか。必要な更新に自力で近づき、プロセスをすすめられること。強迫的な言葉を相対化した思考を持つと同時に言葉上の理解だけでなく、実際の感覚を更新していく。世界の見え方、感じ方を変える更新を自分に与える。

 

今の自分の世界観や生命観。

生きる力とは、それぞれの生きもののなかで前提されているバランスが崩れることに反発する力だ。どんなに食料を得るのが困難でも、いったん得れば苦労以上の喜びを感じるように、生きものはバランスを崩されている。言葉をもった人間の場合、心の奥底に根源的な苦しみがあり、それに反発することには力が湧き、喜びや充実が生まれる。この根源的な苦しみに対する反発の力を使うことがこの世界でのサバイバルに有効だ。この根源的な苦しみは言語をもったことによる。そのことによって世界との一体性から追放され、自己の惨めな価値づけという矮小化が行われる。よって最終的には言語がもたらす現実からの脱却に向かう。自意識は言語によって構成されているが、言語獲得によって失った世界との一体性を求めている。だがそれは自意識によっては経験されない。何しろ自意識自体がその一体性から分離することによって自己認識しているからだ。

 

アニメ「君の名は」で主人公の二人は同じ世界にいれない。愛するものとは、失った自分、別の可能性を生きている自分である。それと一体化しようとするのが恋愛だが自分という自意識を世界から分離することによって自己認識ができるので、自己認識した瞬間世界と必ず分離している。自意識として世界との一体性を獲得することはできない。

 

だがここまで知れば、自意識が勝手にリアリティを作って誤解しているだけで、自意識が働かないところでは世界との一体性は回復されているということがわかる。であれば、別に既に回復しているのだから何をやったところで何も変わらず、別にやらねばならないことなど何もないのだ。根源的な求めは実質的には既に達成されている。

 

だが自意識の実感としては、全然そんなこと感じないし、古いものに支配されているから、そこから少しでも脱却したいし、それによって充実を感じるから、生きているならそっちへ向かうかというぐらいのものだ。何をやっても意味はない。既に達成されているから。また何も失っていない。ただ自意識が作り出すリアリティによって喪失が感じられる。

 

ということで何の意味も達成もないのだが、自意識が見る風景は古い認識に依存するので、更新がなければ同じ風景を見続けるメリーゴーランドみたいな生になり、倦む。それを更新することは世界をもう一度新鮮に感じることであり、喜びになるだろう。

自意識は言葉を使って体を乗っ取っている。時間を止める体制が自意識だ。だがそれに支配されている状態は辛いので、人間はそこから逸脱しようとする。自意識を一時的に停止するもの、一時的に打ち消すことによって、人間は楽になったり、何かのパフォーマンスを向上させたり、自分の認識の仕方を更新することができる。

 

社会については、強いものが支配している荒野だと思っている。サバイバルの世界ではより鈍感でえげつないことができるほうが勝つ。こう生きろ、人間とはこういうものだと社会は自分の支配に都合のいい物語を提示して迫ってくるだろう。

寿命が数ヶ月の人もいるし、何年、何十年も生きる人もいる。明日死ぬこと、しばらく生きるかもしれないことをふくめて、自分がなるべく納得いくように生きればいいだろう。

 

殻という考え方で人間を捉えている。殻は自分に取り込んだ自動的なシステムのようなものだ。殻は他者によって壊されない限り、同じパターンを繰り返すし、保守的で変化を及ぼそうとするものを抑圧する。

だからグローバリゼーションの席巻する世界では、人は力をもつが保守性という殻のほうが強くて、強いものがより強い力をもち、反省もせず行けるところまで行って周りを巻き込んで自滅するだろうと思う。だが局所的にそのような社会に対するアジール(「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」)のようなものを作ることはできるだろう。人類が滅亡するから悲観的になるとか、そういう「人類」みたいなファンタジックな物語を真に受けることはないと思う。生きることはそもそも自分でコントロールなどできないのに。

 

抑圧された人たち、殻にひびが入ったり、壊れてしまった人たちの回復する姿には、殻と一体化したものではない人間というものをみることができるだろうと思う。とりあえず自分もなかなか今の社会にあわない人間なので、そちら側で人間や変化のありようなど新しいものを発見しながらあれればいいのかと思う。

 

 

 


Cyndi Lauper - Who Let In The Rain

 

 

 

 

 

 

 

「成長」と「発展」の欺瞞

生きづらさや生きることの苦しさをもつ人にとっては、日常という世界の見え方や感じ方が更新されることは必要なことであるし、願いでもあると思う。

 

そのような人たちは自分の殻にひびが入った状態であって、痛みと苦しみの圧迫によって自分の状態が変わる方向へ近づこうとする。それは変わる力をもっているともいえるだろう。

 

だが、アマゾンみたいに殻をどんどん厚くして感じなくなった人たちのほうがサバイバルの世界では有利なようだ。その人たちは自分を変えるのではなく、環境や他人に圧力をかけて変えようとする。同じ信念、同じ感じ方、同じオペレーションシステムのまま、アプリをいっぱいいれて自分を強化していくようなことをする。彼らはその状態で困っていないので変わる力を持てない。

 

殻のせいではあっても、痛みを感じていない人、苦しみを感じていない人が、自らの殻にひびをいれることができるだろうか。自分から傷つくようなところに近づいていくことができるだろうか。

 

殻が壊された人は質的に変わる力をもっているだろう。変わる力とは耐え難い痛みであり、苦しみであると思う。そんなものを自ら招きいれられる人はいない。もし誰かがそれを自ら招きいれているように見えるなら、傍目にはわからなくても、その人には相応の生きている苦しみがあるのだと思う。

 

僕は生きものというのは、出会う危機をやり過ごして生きているものだと思う。殻とは生きていくなかで学んで取り入れて一体化している体制だ。生きものはやり過ごすに十分な殻を手に入れれば通常はそれで済ませるものだと思う。

 

「成長」や「発展」の欺瞞は、馬の前に人参を釣るみたいにしておこす高揚をもって、人を騙し、もともとの生きているありようを否定するところだと思う。もともとは、やり過ごすのに十分な殻を身につければそれで変わらずに済んだのに、「成長」や「発展」が人間の価値だとされたために、その度に殻を壊して生きなければいけないという無理を背負わされた。

 

「成長」や「発展」を煽る人は誰だろうか。人々にきらびやかさをみせ、人がそう動くことによって自分の懐が豊かになる人たちではないだろうか? 美しい鶴の織物は自分の毛をむしって作られている。光としてどこかから一点に集められたものは、それが届かない場所の闇をより深くしている。

甲野善紀さんのツイート 自意識の統制と自律性の関係性

甲野善紀さんが、技が「表の意識が干渉しない状況下でないと発現しない」と述べているくだりがあるけれど、表の意識というのが統制を敷いている状態とそれがとれた状態ではおこること、感じられることなどが変わる。

 

通っている整体の稽古では、意味と意味の境目である腕と手首の境界に意識を向けることにより、境界において自意識の統制は緩む。表の意識の統制を打ち消すようなことをする。そのことによって引きつった表面的な筋肉緊張ではない動きになる。

自意識は戒厳令を敷いた国のように、言葉をもって体から支配権を乗っ取っている。しかし、戒厳令を敷かれた体は自然に変化することが難しくなる。また自意識の直接のコントロールは身体的にも精神的にも負担が大きいし、パフォーマンスが落ちる。支配の代わりに失うものは大きい。

 

基本は自意識で体を統制しているのだが、必要に応じて、自意識の統制を相殺したり、打ち消すことを意識的・人為的にやっているのが自助グループのような変容に関わるような場所だったりあるいは究極までサバイバルを追究する武道だったりする。統制状態を一時的にでも打ち消せられると、体に眠る自律性が間隙を縫ってプロセスを始動させ状態を更新しはじめる。

 

綾屋紗月さんの「したい性」と「します性」から

自閉症は知覚の解像度の問題と。

realkyoto.jp

高い知覚の解像度をもつ自閉症者はその解像度によって多すぎる情報の侵入に感覚が占拠され、それをまとめあげることができなくなり混乱したり、行動が取れなくなる。綾屋さんが「お腹が空いた」がわからないのは、空腹がおこすサインや情報が圧倒的に多すぎて感覚の溢れかえりに占拠され、それらを「お腹が空いた」と大雑把にまとめあげることができなくなっているためだと。

綾屋さんはお腹が空いても、自分でお腹が空いたとわからない状況に対処するために、たとえば「12時になったらご飯を食べます」と決める。「します」という決まりごとを設定することで、多すぎる情報をまとめあげてコントロールするのではなく、ルール自体に自分を明け渡し、多くの情報に翻弄されることから自分を切り離すことができる。

 

ここで、綾屋さんが代替的な自分のコントロールをしているとみなして、本来であれば主体として意思をもって行動がとれるのに、という見方がされるかもしれないが、本当に主体とかその意思というものがあるだろうかと思う。

 

ツイッターで、アスペルガーであることをアカウント名に冠している人が「(発達障害でない)定型発達の人の特徴は、理解しなくてもできる」ことではないかとツイートしていた。一方「私たちは理解しないとできない」と。

 

彼女と同じようなアスペルガーの人にとって、理解とは、感覚の溢れかえり状態に対して、それをシャットアウトし、言葉の連続性(理屈の流れ)に自分を明け渡すことによって、自分を動かす役割を持つものではないかと思う。

 

一方、定型発達の人は理解しなくても大雑把に「それはそういうもの」というリアリティを作り上げる(捏造する)ことができ、そしてそれに自分を明け渡すことによって、行動を遂行することができる。それは一般に主体的な意思による行為だとみなされるのだが、意思とは切断や停止の機能であり、意思は動かすことできないのではないか。

 

既に動きをもった自律的なものにゆだねることによって、動きがおこるのではないか。意思による操作とは実のところ、切断による、自律的な動きの切り替えのことであり、動きのコントロールとはもともと自律的なもの、動きを乗っとるものを利用して可能となっているのではないかと思う。

 

「したい性」と「します性」は共に受動であり、その違いは情報を遮断しながら、その場ででっちあげたものにゆだねるているのか、あらかじめ仕込んでおいたピンポイント(12時)に連動された決まりにゆだねることによって侵入してくる情報を遮断するのかという違いなのかと思う。

動くというのは、自意識でやっていると思う場合でも、主体とか意思自体がやっているのではなく、意思は切り離しや切り替えであり、実際にはそれ自体が動きをもつ自律的な「状態」を作り上げたり、設定したりして、それにゆだねることによっておこるのだと思う。

アートと生存 アートエリアB1へ

釜ヶ崎芸術大学のお話しを聞きになにわ橋のアートエリアB1へ。

 

上田假奈代さんに初めてお会いしたのは2007年の田植えの時だったと思う。ココルームでスタッフをされていた横山千秋さんと前年の島根の全国こどもワークショップフォーラムで出会い、その時活動させてもらっていた宇治の田んぼに興味を持ってもらって、スタッフ合わせて3人できてもらった。

 

休学していた大学院をこのままやめようかと考えていたけれどある人の言葉を受けて思い直し、田んぼの活動のことを書くことにした時期。だがそれまで自分の変化を求めてずっとやってきたと思っていたことが、結局自分を見ないためにやっているのだと気づき、動機が内部から崩壊していた。

 

今までそれだけが動機だったことがなくなると、次に行くところが見えなかった。前のように強いエネルギーをそこに一気に傾けるようなことがもうできなくなっていた。

 

中学以来また廃人みたいになっていたが、お世話になっている方に声をかけてもらって、宇治で家庭教師をしたり子どもの居場所事業に関わった。釜ヶ崎に移転したココルーム でも自分のことを話す場をいただいたり、友人の冒険家の話しを聞く場をもたせてもらっていた。

 

あの時期を凌げたのは自分に場や縁を与えてくれる人たちの存在で、心の支えになったのは、假奈代さんのブログからみえた、この社会に真正面から向き合うココルームの活動の姿だった。その姿を見せてもらうことによって支えられてきた。時々読ませてもらう假奈代さんの言葉にはいつも心の奥に届く深い示唆があった。

 

一方で、自分のすべきことを定められず、向き合えず、何年たってもろくに基盤をもつこともできないままでいることが恥ずかしかった。

 

年を経て、色々な人の縁に恵まれているのに、殻は厚くなって、腐敗のガスもたまっている。隠すのをやめて、そのまま傷つき、恥をかいていくことが必要なことだと思うようになった。どこかにたどり着くことができるかと問えるほどのところに自分はいない。できるぶんのことを、ただしていければ。

当事者研究 自分の反応について

ある認識を持っていることによる感情の自動的な反応。

先に年配男性への反応について書いた。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

→人の話しを聞くときに分析して意見するが、分析が妥当でなくそこから出る意見も微妙。

 →それに対し強い腹立ち・不信

  →年配男性ということである種の権威性を感じている

  →権威があるのに間違ったことをいうところに強い反発

 →自分の意見に疑いを持たない無自覚さ・暗愚さに怒り



その後、その人なりに誠実に考えようとしていて人や僕にも聞いたりもする姿をみて反発は弱まってくる。

 

つまり初期の自分の捉え方としては、

 

→年配なので権威がある。

→いい加減。

→自分の理屈の閉塞性や抑圧性に気づかない上にそれに酔っている。暗愚さ。

→人の扱いが軽い

 

というところがあっただろう。それが

 

→年配なので権威がある。

→いい加減 

 →自分なりに誠実に考えようとしている

→自分の理屈の閉塞性や抑圧性に気づかない上にそれに酔っている。暗愚さ。

 →バイアスはあるが、酔ってはいない。

→人の扱いが軽い

 →捉えが違うかもしれないが、その人と向き合おうとしている

 

となった。強い腹立ちや反発は、「自分への酔い」と彼の意見から想像された「人の扱いの軽さ」から来ていた。これは全く自分が勝手に投げかけたイメージだ。あとこの人の弱さや不器用さと感じられることをなんとなくその後関わりのなかでみれたことも感じ方が変わった要因としてあるだろう。

 

あと「暗愚さ」に対する怒りがどうおこっているのかもうちょっとみてみた。自分が反応する暗愚さの内容は、盲目性、無自覚さや客観性のなさ、自己陶酔、応答性のなさというような要素がある。

そして「暗愚な人が世界を歪めていってそれが自分にまで影響してくる」と捉えているなと思った。誰かの暗愚さは世界を歪める汚染のようなものであり、世界が歪めば歪むほど自分は生き難くなる。

かつて教員たちや叔母、親は言葉で言っても通じず、自分は向こうの都合よく不正に扱われ規定されたせいで、屈辱的な思いをしたという被害意識がある。自分は力を持つ人の暗愚さの被害者であるという恨み。

 

と同時に、自分は決してそのようになってはならないと強く自分に課している。アイデンティティみたいになっている。これによって、自分自身の盲目性や無自覚さ、客観性のなさ、自己陶酔、不明さへの強い否定があり、それらが決して出ないように、そして人にバレないようにあらかじめ自分を強く抑えようとする。だが抑えるがゆえに気軽に行動ができなくなったり、機を逃して言えなくなったりして鬱積がたまり、あまり吟味なくいう人とか、適当なことをいう人に余計腹がたつということがおこる。

 

フラッシュバックがきつくなった中学校以降、同時に強烈な自己否定があった。自分は自分が人からされたような間違いを人にしてはいけない、そして少なくとも自分の行動上だけでも気持ち悪く醜い暗愚であってはいけない、そういう自分としてアイデンティティをつくろうとしてきてしまった。そこに誇りを持とうとしていたが、その誇りは同時に恨みを前提にしたものでもあった。

だが自分がどう意図しようと見えないものは見えないし、愚かさはコントロールできるものではない。実際上は極端に自分自身の行動を制限しながら、その自分に制限を課す苦しさは自分が我慢しているのに「我慢していない」人の行動への怒りや苛立ちになる。その上、愚かさを隠すと余計に愚かになる。

 

諦めて、愚かさを含めた等身大の自分に戻る。そのために我慢せず、求めがあれば人に言うことからやっていくしかない。そして人に自分の求めや考えを明言することによって、トラブルなど見えないところへ踏み込むのを恐れ、いつも退却することをやめていく。今はそういう当たり前のことをやって、くぐもった自分の気の通路を通していく。