降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

綾屋紗月さんの「したい性」と「します性」から

自閉症は知覚の解像度の問題と。

realkyoto.jp

高い知覚の解像度をもつ自閉症者はその解像度によって多すぎる情報の侵入に感覚が占拠され、それをまとめあげることができなくなり混乱したり、行動が取れなくなる。綾屋さんが「お腹が空いた」がわからないのは、空腹がおこすサインや情報が圧倒的に多すぎて感覚の溢れかえりに占拠され、それらを「お腹が空いた」と大雑把にまとめあげることができなくなっているためだと。

綾屋さんはお腹が空いても、自分でお腹が空いたとわからない状況に対処するために、たとえば「12時になったらご飯を食べます」と決める。「します」という決まりごとを設定することで、多すぎる情報をまとめあげてコントロールするのではなく、ルール自体に自分を明け渡し、多くの情報に翻弄されることから自分を切り離すことができる。

 

ここで、綾屋さんが代替的な自分のコントロールをしているとみなして、本来であれば主体として意思をもって行動がとれるのに、という見方がされるかもしれないが、本当に主体とかその意思というものがあるだろうかと思う。

 

ツイッターで、アスペルガーであることをアカウント名に冠している人が「(発達障害でない)定型発達の人の特徴は、理解しなくてもできる」ことではないかとツイートしていた。一方「私たちは理解しないとできない」と。

 

彼女と同じようなアスペルガーの人にとって、理解とは、感覚の溢れかえり状態に対して、それをシャットアウトし、言葉の連続性(理屈の流れ)に自分を明け渡すことによって、自分を動かす役割を持つものではないかと思う。

 

一方、定型発達の人は理解しなくても大雑把に「それはそういうもの」というリアリティを作り上げる(捏造する)ことができ、そしてそれに自分を明け渡すことによって、行動を遂行することができる。それは一般に主体的な意思による行為だとみなされるのだが、意思とは切断や停止の機能であり、意思は動かすことできないのではないか。

 

既に動きをもった自律的なものにゆだねることによって、動きがおこるのではないか。意思による操作とは実のところ、切断による、自律的な動きの切り替えのことであり、動きのコントロールとはもともと自律的なもの、動きを乗っとるものを利用して可能となっているのではないかと思う。

 

「したい性」と「します性」は共に受動であり、その違いは情報を遮断しながら、その場ででっちあげたものにゆだねるているのか、あらかじめ仕込んでおいたピンポイント(12時)に連動された決まりにゆだねることによって侵入してくる情報を遮断するのかという違いなのかと思う。

動くというのは、自意識でやっていると思う場合でも、主体とか意思自体がやっているのではなく、意思は切り離しや切り替えであり、実際にはそれ自体が動きをもつ自律的な「状態」を作り上げたり、設定したりして、それにゆだねることによっておこるのだと思う。