降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成12 社会に関わる転機

ちょうど転機のところになったらお題も転機だったのでいれてみた。

 

今日は畑に行った。夏野菜を植えるための畝をつくる。畑を改造中でちょっと排水の流れも調整が必要になったりしている。夕方は蚊が出てきた。19時ぐらいになってもまだ明るくなっている。

 

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絵本店での講演とワークショップの企画は、媒介しただけで仕事の多くの部分をお店と講師の方にやってもらっていた。だが、自分がこれは面白いのではと考えたことに30人ぐらいの知らない人が来てくれるという経験の手応えはその後催しや企画をやる基盤になった。

 

このワークショップがきっかけとなって、知り合いから提案があり、次の年は6人ぐらいの講師を招いてシリーズもので講演とワークショップを行った。その際、ある先生の授業の時間の一部を使わせてもらい、ボランティアの学生を募った。10人以上の学生が集まってくれた。そのなかで出会ったある人は一度社会人を経て3年次編入で学生になった人だったが、自分の話しや考えてきたことを興味を持って真剣にきいてくれた。その人がきいてくれているとどんどんと話しが繋がった。どれだけの時間話したかわからないが、大学院の修了式に最後話して、話し切ったという感じがあった。自分のなかにおこっていた何かのプロセスを終わらせてくれた人で、今でも敬意と感謝の念を持っている。

 

シリーズ講演を始める際に、チラシを各所に配ろうという提案がボランティアの学生からでた。正直なところはそんな営業的なことは苦手だったのだが、学生のほうからそう提案してくれたのだから断るわけにはいかなかった。宇治市京都市南部の様々な場所を訪ねた。その際に出会ったNPO法人働きたいおんなたちのネットワークの理事長の吉田秀子さんとはその後もずっとお世話になり、関わりを持たせてもらうことになった。初めてそのNPOの事務所に行って講演の趣旨を話して快諾してくれただけでなく、チラシを置かせてもらって次の場所に行こうとしていた時に、もう名前を覚えてくれていて後ろから「米田さーん!」と呼びかけてくれて、他にも様々な協力ができることを伝えてくれた。なぜこんなに自分を受けとめて評価してくれるのかわからなかったが、吉田さんはいつ会いに行ってもそのように扱ってくれた。行政の歪みなどの現実の矛盾と闘いながら活動している吉田さんの話しは面白く、ずっと聞いていられた。こちらが悩みを打ち明けて聞いてもらうとかいうような感じではないのだが、吉田さんには活動の場を与えてもらったり、話しをさせてもらえることで支えてもらった。

 

当時、考えていることの話しはしたいが、誰も自分が考えていることには別に関心がなく、その話しができる相手がいなかった。友人はいたが、自分が一番関心のある話し、ずっと自分が考えてきたことを話して反応がもらえる人はいなかった。現役生に比べると、3年遅れて大学に入っていたこともあり、話しが合わない。これについてどう考えるかというような話しがまるでできない。だから他大学を卒業してからきた編入生たちやNPOの吉田さんのような存在が生命線のように貴重だった。

自分が関心のあることを企画し、自分なりに社会とやりとりすることによって、人と関わることができる。企画をすることで、派生的に新しい人たちと出会い、その出会いがその後の活動や生きることの基盤になっていく。四国遍路をして少し感覚が変わったとはいえ、まるでどう生きていけるのか、確かな感覚が掴めなかったが、関心のあるところにおもむき、人と出会い、そして自分の活動をしていくことを繰り返すことで、今まで凌いできた。40歳をこえていまだに自営業にもなっていないでフリーターだが、かろうじて生きて、非常にわずかずつだが自分にフィットする環境や生き方に試行錯誤しながらにじり寄ってきた。今、自分を一番活性化させることを活動としてやる。ただそれだけをやってきた。それでは足りないかもしれない。足りなければ、それで終わるだけだ。

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イリイチ「管理された健康に抗して」 もう一つの世界

イリイチの『生きる思想』の「管理された健康に抗して」の章に以下の文章があるようだ。

 

生きる思想―反=教育/技術/生命

生きる思想―反=教育/技術/生命

 

 



〈社会制度が進歩したかしないかということは、まず第一につぎのような点においてはかられます。つまり、そうした社会制度の進歩によって、個人や第一次集団(としての家族)が自力でおこなう活動によってみずからの欲求(ニーズ)をみたす能力を増大させたかどうか、ということです。わたしが「自力でおこなう活動」と呼ぶのは、そうした活動によって、人びとが、みずからの欲求(ニーズ)を定義するような活動、つまり、そうした欲求(ニーズ)をみたす価値をつくりだす過程そのものであるような活動のことです。〉



僕はこれが自給やDIYの意義であると思っているし、回復する、学ぶということはこういうことであると思っている。

 

世界との関係、他人との関係が更新されるということは、つまりそれらがなんであるかを規定している内的な認識や反応が更新されるという事態であると考えている。

 

その更新はブーバー的な「出会い」ということもできるだろうと思う。既知のもの(=利用対象になってしまったもの)になってしまった世界や他人との関係性が一新される事態が「出会い」であり、この「出会い」を繰り返すことによって人が人たる状態をもつことができる。人とは内的更新をおこさない静的な存在であるときは、人たりえておらず「出会い」を繰り返す動的な過程をもつ存在であるとき、人たりうる。

 

人たりえないとは、保守性と自我肥大の機械になるのを避けられないということだ。人は環境によって疎外された存在になる。自分をダメにし、他者を抑圧する存在になる。人は個人では自立できない。必要な環境がともにあってはじめて人は疎外を遠ざけることができる。

 

時々例に出すが、豆乳ヨーグルトを前に作っていたのだけれど、豆乳が豆乳ヨーグルトになる過程の時は菌は活性化しており腐らない。だが完成してしまうと他のカビの菌のほうが強くなる。人が人たりうる状態が保たれるには、出来上がってしまったらまた過程の状態にもどすことを自分で気づいて自分で繰り返せることが必要だ。そうしないと腐る。柔軟性を失ってよりガチガチになり、自分と他人をダメにしていくようになる。また内面的に抱え込んでしまった困難から回復していくこともより難しくなる。

 

人が人足りうるのは、豆乳ヨーグルトが完成に向かう途中の状態であるときだと考えている。途中の状態をずっととどめることはできない。出来上がったら、その秩序を更新し、一旦ゼロにもどすような新しいものとの出会いがその度に必要なのだ。人が疎外を遠ざけ、人たりうることを「人としての自立」と呼ぶなら、「人としての自立」は「出会い」との関係の持ち方に依存する。出来上がってしまったらまた「出会い」をおこし、それを繰り返すことは、常に回復し続けることであり、学び続けていることともいえるだろう。またそれは「最低限の文化的生活」でもあるだろう。「出会い」とどう関わり続けられるかが人が人たりうることから欠かせない。

 

「出会い」を繰り返すことを可能とする動的な環境を自分の周りに引き寄せ、構成し、保つ必要がある。そしてその環境を引き寄せるための自分自身の感覚の育成が必要だ。この感覚は、広い意味での自給やDIYによって育成される。世界において、自分が直接既知のことと新しいものとの境界に立ち、新しいものへと自分なりのあり方で踏み出すことが必要だからだ。そうでないなら、人は既知のもの、既にあるコンセプトのなかで倦み、無感覚になるために既知の刺激の増大を求め、自分を更新するための世界との関わり方を失ってしまう。

 

自給やDIYの意義は、自分にとって既知のもの(自分の閉じた認識の世界)と未知のもの(閉じた認識の世界(=疎外の牢獄)の秩序を壊し更新するもの)の境界に立てること、接点を持ち続けられることであると思う。他人が設定した環境、お膳立てされた環境では人はその踏み出し、出会うための境界を持ち得ないのだ。あるいは維持し続けることができない。そのような環境に入れられた人は強い人の言いなりになりやすく、傲慢にもなっていく。

 

これもよく出している例だけれど、詩を裏紙に書く友人がいた。ノートに書こうとすると緊張するのか詩が出てこないらしい。私は大したことなんか書いてないよ、というような気持ちである状態を導くことができるとき、詩が書ける。このように微妙な自己調整ができないと人は自分に必要な体験を提供することができない。環境は既に完成されたものではなく、自己調整される余地が常にあるほうがいい。できれば抜本的な次元から自己調整できる余地があるほうがいい。そのことによって、人は自分が更新していくための環境を自律的に調整するのだ。

 

必要な環境を引き寄せ、構成し、整え続けるためにも「出会い」に対する感覚をリハビリし続けることが必要だ。それが自給的に生きることであり、DIYとして生きることであるだろう。それは単に食料とかエネルギーとか、個別の自給をすればそれでいいとか、ただ家とか家具を自分で作ったらいいとかという限定的なことではない。自分に対して「出会い」を提供すること、出来上がれば更新するということを自分に与え続けることが自給的に生きることであり、DIY的に生きることなのだ。

 

さて、冒頭に引用したイリイチの考えはどのように遂行できるだろうか?

 

モノ的には、表面的に何もかも用意され尽くされたような日本のような環境ではどのように自給的な環境を自分に引き戻せるのか。継続的に既知のものと未知のものの境界に自分をポジショニングさせることができるのか。

 

僕はそれは「防災」ではないかと思っている。人口減少による公共サービスの破綻が予期され、そして今後確実におこるといわれている地震がある。そのような状態がおきても、「復興」するまでの5年や10年ぐらいは「最低限の文化的生活」を自分たちに提供できる「もう一つの環境」を現実に作っていくならどうだろう。

 

子ども食堂なども「防災」として位置づけられる。「もう一つの環境」をつくることは行政や大企業によるサービスが破綻した状態に対する現実的な準備であり、同時にこの世界に「もう一つの世界」を自分たちでつくり上げることだ。そこは人が「出会い」、自らを更新していくことを取り戻していける空間になるだろう。

「聴く」と「邪魔しない」

当事者研究の場をつくったのは、内面を含めた話しの場が身近にないなと思ったのと、人の話しを聞くということをとても多くの人がしないのでうんざりするから自分の周りにお互い話せてきける環境をもちたいなと思ったから。

 

一方で、きくということがあまりにハードルの高い特殊なことと思われても困る。自分が「聴けてる」のかと言われてもそんな深い「聴き」などできない。相手にもそういう大仰なことを意識してもらいたいわけじゃない。

 

人の話しを邪魔しないというほうがまだ聴くというよりいいように思えてきた。相手のなかに自分の知らない何かのプロセスがおこっていて、感じられることを確認しようとしている。その作業を邪魔しない。そのプロセスは自律的なところがあって進み出せば自分で話す。

 

相手に何か自分の知らないプロセスがおこっているのに、そこで自分の思いついたことを直ちにかぶし始めずにはいられないとか、相手の言った本意を確認しようともせず何か勝手に判断して自分の話しをしだすとか、そういうことをせずに、とりあえず相手の一段落を受け取る。その人はその人にとって必要な何かをしているので、それをまずは尊重する。

 

別に訓練された人たちでなくても、お互いに大切にしあう関係性がある場だったら普通にそうなっているから訓練された深い「聴き」がいるのではなく、邪魔しないで尊重するということなのだと思う。専門家による一方的な傾聴は限定的な場面のもので、いつでもそうやったらいいというものではなくて、そうされてかえって話しにくいこともある。お互いに話ししてきく関係性の充実が大事だと思う。

 

上をみればどこまでも上はあるのだろうけれども、その場合でもつまるところは話しを邪魔しないということなのだから、話しを邪魔しないという普通のこととして位置づけ、その上で感覚を分化させていくリハビリの場があればいいのではと思う。大仰なもの、特別なもの、自分の聴く能力を発揮するものとしてじゃなくて、「普通にきく」を大事にして。

殻と成人儀礼

殻の話しの続き。

 

ネットに川本隆史『共生から』の書評があった。その注部分にまなびほぐしについての記述が興味深かった。

 

「まなびほぐす」とは、本書の「補 講 人間の権利の再定義」で著者の使った三つの道具 だての一つ「編み直しunthinking」の際に参照した鶴見 俊輔が、ウォーラーステインの「unthink」を訳し直す ときに重ねあわせた次のような自身の体験(ヘレン・ケ ラーとの出会いの経験)から借用している。「一九四一 年夏、わたしがまだ一九歳でハーヴァード大学の学生 だった頃、図書館で本を運ぶアルバイトをしていたん です。そこにヘレン・ケラーさんが来たんですね。ケ ラーさんは、目が見えない、耳が聞こえない、しゃべれ ない、三重苦の人です。...その時ケラーさんがわたしに 質問したんです。自分はハーヴァード大学の兄妹校の ラドクリフ女子大学で勉強した。そこでたくさんのこ とを学び、自分の学んだたくさんのことを振りほどか なければならなかった。彼女は、“I learned many things, and I had to unlearn many things.”と言った んです。いや、なるほどなと思いました。ラドクリフ女 子大学はハーヴァード大学の兄妹校ですから、そこで の講義は、耳が聞こえて、本が読めて、しゃべれる人が 対象で、概念の組み立てもそうなっている。しかしケ ラーさんは、そこから離れて生きるようになって、自分 の身の丈に合わせて概念をたちなおさなければならな か っ た 。 こ の 「 概 念 を た ち な お す 」、 つ ま り “ l e a r n a n d unlearn”というのは、一度編んだセーターをほどく、 ほどいた同じ糸を使って自分の必要にあわせて別のも のを編む、そんな感覚ですね。書評 川本隆史『共生から』 児島博紀・宮城哲

 

ヘレン・ケラー鶴見俊輔に”I learned many things, and I had to unlearn many things.”といっている。

 

殻は防衛反応として現状を維持したり強化しようとしたりするから、当然その反応をおこすような緊張状態からは解かれる必要がある。話しの場では、ぎゅっと固まったものを解きほぐすということから自律的な変化のプロセスが浮かび上がってくる。


だが、ただほぐされ、強迫をとっていくだけで何もかもが氷解していくのかという疑問がある。上のプロセスで回復するのは既に壊れたりヒビの入った殻だということなのかもしれない。

ヘレン・ケラーは、学ぶときはただlearnといっているのに、unlearnの時はhad toが入っている。やらなければならなかったといっている。ここにはそれまでに身につけたものを壊していく厳しい闘いがあったようにも思える。

 

成人儀礼が、命を失う危険性までもたせ、強烈な破壊によって受ける人を揺るがすものだったとき、それはそれまで身につけた体勢、殻を破壊しているのだろうと思う。そのような暴力は欧米化させられていくなかでなくなっていくだろうけれど、その代償として別の危機をもたらすことにもなるのだろう。

 

自らを保守し、厚くしていく殻が変容するには本当に死にそうなぐらいの体験が必要そうだ。内面的には、それまでの自分が死ぬのと事実上同じことぐらいのことがおこっているのだろうと思える。そうすると、殻を壊して生き続けるのと、殻を壊さずその結果破綻してしまうことは、自意識にとっては同じことだ。いずれにせよ、死ぬ苦しみは避けられない。

 

殻について補足

一つ前の投稿は、殻という捉え方で書いてみた。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

生まれてから取り入れ、蓄積していく情報や技術。そして言葉。言葉によって構成される自意識。今まで自意識という言葉を使っていたが、自分の殻が厚くなるという一般的な言葉があるのだから、殻という言葉で書いてもいいかなと思った。

 

書き出してみると結構整理し切れず、難航した。

 

描きたかったのは、生きることの最優先がまずあるということだ。生きものの体は幸せを求めている設定なのではなくて、生きることが優先なので歪んでも生きようとする。調和を目指しているわけでもない。そうして殻として身につけられていくことは、固定的で機械的なものだ。殻は生きていく際の鎧であり武器である。人間はその殻をどんどん厚くしようとしてしまう。そしてその自動機械のなかに埋もれてしまうのだ。

 

生きものは人間性を求めているのではなく、ただやり過ごし、生存すればいい。そういう志向をもち、そう生きようとするものだ。生きものは必要に迫られて変化するが変化したいわけではない。よく言われるのとは逆で、生きものは進化したり発展を求めているのではなく、それが可能ならそのままでいたいものだと思われる。

 

生きものは優しくなりたいわけでも、人間的になりたいわけでもない。ただその場その場を生き延びられればいいのであり、それを優先する。

 

レヴィ=ストロースは、未開社会のような変化のない社会を冷たい社会、歴史的に「発展」する社会を熱い社会と表現している。

 

野生の思考

野生の思考

 

 

で、一般的な人間観では、発展する熱い社会が「いい」わけで、人間は発展したいものだし、そのことによって幸福を得たいものだとされている。そしてそのなかで、人間的にも「成長」するのがいい、と。だが全然そういうふうにはならない。

 

体のほうはその場しのぎで生き延びればいいという設定なのだから、冷たい社会において、ローコストに手に入れられる殻を身につけさしあたりの一生を生き切るほうが生きものとしての求めには適合しているのだと思う。

 

熱い社会においても、結局人は手近な殻を身につけ、その殻を変えようとはしていない。だが一方で、言葉の獲得によって、時間の概念が獲得され未来に対しての不安をもち、また言葉によって自身が裁断されたものになり、否応なく相対的な値付けのもとに矮小規定される屈辱を担わされるので、その不安に対して、殻をどこまでも厚くしようとする。

 

ミノムシは周りにある手近なもので身を包んで生きる。往々にして葉っぱや小枝の切れ端とかになるが、人為的に周りを毛糸だけにすると毛糸でミノを作る。ミノは手近で身を守る用を足せば何でもいいのだ。

 

人間が生まれてから習得し、蓄積していくもの、つまり殻も同様で、それで最低限その場その場をやり過ごせればいいものなのだと思う。ところがその殻は世界を言葉によって認識するという仮想現実を中の人に見せる。明日も生きねばという終わりのない不安を感じる。また言葉の分節によって世界から切り離された自己ができる。それは元の状態からすれば、終わりなく値踏みにさらされる不自由で屈辱的なものとして感じられる。しかし言葉を通して認識される自己はその断片的で卑小でいびつなイメージでしかないのだ。

 

だからそれを補おうとする。ミノムシが自分の体の周りだけでは足らず、巨大なミノを作り続ける。それは更新されない古いOSのままマッチョになっていくようなことでもある。それは環境に対して破壊的なものになり、人に対して抑圧的なものになる。結果、殻によって、人間は自分たち自身を疎外し、破綻に向かわせる。



それは更新されない古いOSのままマッチョになっていくようなことでもある。それは環境に対して破壊的なものになり、人に対して抑圧的なものになる。結果、殻によって、人間は自分たち自身を疎外し、破綻に向かわせる。

 

他者や運命によって、殻が壊されたとき、前とは異質の体勢が生まれてくる。人間性の回復というように見えるものだ。だがそれは一般的なものではなくて、例外的な現象だ。だがこの例外的な現象を「人間の本来」のように考えるから理想の人間像と大多数の殻を厚くしていくだけの人間の現状の乖離に深い葛藤を抱えてしまう。

 

「人間」になろうとすることは、生きものであることに対して、反逆するようなことだ。もともと無理くりなことをやろうとしているわけだ。生きもの自体の性質は優生主義だ。だが固い殻に包まれた結果、目に見える風景の退屈さと変わらなさに倦んでいく。その殻が別の殻へと更新されることによって、その倦みの苦痛を取り除くことができる。そして更新をするためには、優生主義的な価値の強迫を全て打ち消した場が必要なのだ。


生きることと殻

人間をどういうものだと捉えたらいいのかといつも思っている。

 

環境は破壊して、人間同士では弱いものを踏み台にして強いものがのさばり、弱いものはさらに弱いものを虐げて鬱憤をはらす。人間全体として自滅的で破綻的な動きを止めることができない。

 

多くの人がより「本来の人間性」に近づくならば、社会は変わるのだろうか。


サン・テグジュペリの『星の王子さま』で子どものときに一番印象的だったのは、王子になぜ酒を飲むのかと訊かれて「酒を飲むことが恥ずかしいんだよ」というアルコール依存症の人の言葉だった。自分が抱えている痛みや否定性は生々しく強烈で耐えきれない。それを何かをすることや得ることでごまかし、埋め、無感覚になろうとする。

事故や逃れ得ない障害や病気、数奇な運命などの受難を経て自分の殻が壊され、そこから深く回復した人たちは、社会や環境を質的に変えるような存在になっているようだ。だが人間以外も含めた他者によって殻を壊されないと基本的には同じ殻でそのままにとどまろうとする強い保守性があると思う。

 

自分の存在と深く関わる痛みや傷を、何かを獲得することによって塗りこめるようなことが、一般には「幸せになる」ことだといわれているように思える。自分がもつ深い傷を圧倒する刺激で、無感覚になろうとする。ある意味、精神的な自殺をするように生きているようにも思える。

 

今、人間全体としては破綻に向かっているのを全然止められないのに、ある個人が「順調」に生きているということがありうるだろうか。その「順調」は周りの世界の何かを見なかったり、含めないことによってしか成り立たないのではないかと思う。

 

世間でいわれる「幸せ」や「順調」は、殻を強化するものだと思う。殻は、誰しもがもっている逃れることのできない生々しい痛み、否定性を感じさせなくすることができる。殻はまた自分を自動的に動かし、おこることを解釈する機械的なプログラムであり、OSのようなもの。自意識とは殻のことだ。放っておけば、殻は自分でも気づかないまま痛みを隠し、刺激と無感覚で生きることを覆いつくそうとする。そして自分が変わらないでいいように自然に周りを抑圧する。

生まれ、生きていくなかで身につけていく殻。殻は生きていく際の鎧であり、武器でもある。殻は機械的なものであるが、擬似的に生きているような存在だ。殻は自身を厚くしようとする。その動きは自律的であり、自動的だ。自分さえ気づかないまま進む。

 

より多くの人が「本来の人間性」に近づければ、社会は変わっていくのだろうか。しかしその「本来の人間性」に近づくことは、本来なのにも関わらず、一体何にどれほど阻害されていて、発揮されないのだろうか。



生きものにとっては、自分がいびつにならないことよりも、その場その場を生き延びることが最優先だ。どのようにいびつになっても、生きようとする。そしてなるべく自分にとって不都合な何事もおきないことを望む。殻は自分を揺るがされないために作り出されたものだ。生きものは身につけた殻によって生きようとする。

 

生きるということにおいては、殻のほうが優先される。「本来の人間性」はサバイバルの世界であるこの世の理屈ではなく、あの世の理屈であって、今の殻を放棄することとつながる。今の殻によって生きている多くの人間の殻を壊すというのは無理があると思う。

 

他者によって、たまたま殻が壊れた人が、自分自身と周囲の社会を回復させる動きをはじめる。殻が壊れた人たちはそのように回復した人たちをみて、救われ、力を与えられる。人間全体がこうなるのではなく、部分的にこういうことがおこる。人間の行動や思考と本来性は全く別個にある。人間が愚かなことをして自滅しようが、そのことと本来性は関係がない。だが一部であっても、回復していく人間の姿を見ることは、換喩として本来性を直観するものに成りうるだろうと思う。

 

 

 

 



当事者研究 ある場の認知

自分がいかに否定的なイメージを人に投影しているかと思うけれど、ある場でわかり安く出たのでちょっとみてみようと思う。自分が勝手に捉えたもので本人が実際にそうであるかは別。

 

年配の男性
→人の話しを聞くときに分析して意見するが、分析が妥当でなくそこから出る意見も微妙。

 →それに対し強い腹立ち・不信

  →年配男性ということである種の権威性を感じている

  →権威があるのに間違ったことをいうところに強い反発

 →自分の意見に疑いを持たない無自覚さ・暗愚さに怒り

 

ある種の権威を認めているから反発がくるように思う。認めなければいいのにと思うけれど、そうなっているから反応がおこる。先生とか立場が上の人とか、援助者とか。そういう属性の人がいい加減なことをいうのを聞くと強く苛立つ。そういう人に資格があって社会的な認知がされて、変なこと言っても意見が意見として受け取られるのに我慢がならないということは、妥当なことをいう自分がもっと認められるべきだという嫉妬とかそねみであるだろう。妥当なことを言う自分とか、自分でもよく言うなと思うけれど、反応に嘘はつけまい。これを書くということで反応に変化があるのか、またここからどうこの反応にアプローチするのか、考えてみる。

 

暗愚さへの反発は、子ども時代からのものだ。他人の暗愚さも自分の暗愚さも許せない。アンチ暗愚。他人が無自覚なことを話しているときのいたたまれなさは、自分が気づかずそうしていることが連想されるからでもあるだろう。暗愚さは意思の操作で変わることではないので何をやっても無駄なのになお受け入れられない。矢も盾もたまらず暗愚の発露を避けようとしている。暗愚、愚鈍は気持ち悪さとも結びついている。

 

もしかすると気持ち悪さの方がむしろそこから逃げたい性質かもしれない。自分が気持ち悪いという信念があってまあ妥当かもしれないが、しかしそこから何がなんでも遠くへ行こうとする。滑舌の悪さとか、場に飲まれる気の弱さとか、容姿とか、そういうものが気持ち悪さと結びついている。

 

フラッシュバックもそもそも自分が気持ち悪いと思っていた人と自分の根が同じなのではないかというところからはじまったので、ここは根が深い問題だ。気持ち悪さを避けるために、人と距離をとるとか、人に近づかないとか、何か話していい反応がなかったらただちに遠ざかって、嫌われたのではなく自分から離れたのだ、みたいなところにすがりつこうとするとか、みみっちいことをしている。