降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

4/7 土曜当事者研究

当事者研究土曜日。

 

振り返りの後、「仕事とは」と「対等とは」をテーマにした。「仕事」は木曜日にもやったけれど、このテーマも繰り返しやっていいテーマだと思う。

 

自分にひきつけてどういう理解だったら腑に落ちるか。仕事とは、自分が自分として生きていくことだと思う。でも矛盾するようだけれど、自分が自分として生きていくというとき、それまでの自分のあり方が破綻していくことが必要だ。

 

その時自分とは方向性みたいなものだろう。「統合」というような言葉もあるけれど、僕は世界との関係性の回復や分化とかいったほうがしっくりくる。殻になっている古い自分のあり方が破綻し、より世界との関係性が回復し、分化していくとき、自分が自分としてあるというふうに思える。その更新がおこり続けるとき、更新のプロセスにあるとき、生きている。

 

このプロセスは意思によるコントロールであるよりは、自律的なものであり、意思はこの自律性を邪魔するものをなるだけ取り除き、打ち消すというところに役割があると思う。

 

次に「対等」とはと考える。それぞれの人は年齢なり職業なり身体なり性質なり何から何まで違っている。子どもと話すときに上から話しかけず、目の高さを合わすとしても、なお大人と子どもでは体力やら知識やらで差がある。何でも一致させるのは無理そうだ。

 

となると、本当の対等というものがあるのかどうかとか考えるよりは、心が恐怖や気がかりによって固まったり鈍麻することをなるべく最小限にし、恐怖や気がかりを生むような要素を打ち消し、お互いの心が可能な限り自由でのびのびとして、繊細なことを感じ取れて応答できる状態にしようとするということで捉えたほうがいいのかなと思う。

 

「対等」を尊ぶ意図は、可能な限りお互いの心の状態が良い状態になるためにやりとりがおこなわれる環境の設定を整えるということなのだろうと思う。

MAP哲学カフェ「話し合うとは」に行ってきた

MAPカフェの哲学カフェ「話し合うとは」に参加。

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話し合うとはどういうことかを話し合う。


哲学カフェは初めての人もいて、テーマはとっかかりが難しかったようだ。話し合うということのなかで、話題があっちこっちに飛ぶ。自分の話しを延々とする人がいたらどうしたらいいか、それにどう対応すべきか、日常で話しの腰を折ることを懸念してずっと聴いてしまって疲れるからどうするか。「建設的」な話しをするときにズレた話しが出たときはどうするか、等々。



会議のような話し合い、町内会の今年の地蔵盆をどうするかみたいな話し合い、個人の内面的なものを表現する話し合い、1対1の話し合い。意図して場を持って話しをする場合とそうではない日常で偶発的に起こる話しをする場合。

 

 

文脈や趣旨の異なる個々の状況に対してどうすればいいかを検討しはじめてしまうとなかなか「話し合う」ということ自体を問えない。どこに焦点を当てればいいか、なかなか難しい感じだったけれど、2時間もやっているとそれなりにだんだんと収束してきた感じになった。

 

 

参加者のコメントで、昔、自分からなかなか話しをしなかったのは、自分が話したことで人が話すことを聞きたくなかったからだということに気づいたというものがあった。またある程度年齢を重ねると人が話しを聴いてくれるようになったという話しもあった。

 

 

振り返ってみて、他人事ではなく、自分ごととして記憶に残る体験、ある程度の強い思いがある体験が話されるとき、あるいは今の話し合いのなかではっとする鮮やかな気づきをしたとき、そのことが場に影響を与えていたと思う。場に散発的ではない自律的な方向性やムードが生まれる。

 

 

自分たちが哲学カフェ的な場をやるときは、A4の紙とマーカーを配って、一問一答的にやっている。「話し合うとは」というテーマなら、「話し合う」という言葉をきいて自分がまず思いつくこと、こういうものかなと思っているイメージを書く。全員がそれを発表して見渡す。その共有のうえで次の問いにうつる。それぞれの人が一旦自分の考えを整理し、吟味する。

 

 

僕は哲学カフェ的な場をやるにおいて、基本的な考えは林竹二によっている。自分のなかで曖昧なかたちで認識されているような概念・言葉(自立・成長・受け入れるとか。)に対する現在の認識が吟味され、その曖昧さや他のものとの不整合や矛盾が明らかにされ、自分がどう思おうとするかなどという意思とは関係なく、もはや以前の認識が成り立たず棄却されてしまうということが重要だと思っている。それが自分が更新される事態であり、学びであると思っている。「新しい知識」を得ても、それが古い認識の棄却を伴わず、ただの付け加えでしかないなら、それはまだ学んだとはいえないと考えている。

 

 

吟味が行われている時、探究が行われていて、気づきが生まれる。透明な湖があり、湖の底に何か模様が見える。湖の上から見ているとそれはZのようだと思っている。ゴーグルをつけて湖に潜り、その模様がなんであるかを確かめるために近づいていく。模様を確かめた時、その模様がZであるよりはAであると認識される。すると今まで何を考えるにも、Zという古い前提のもとで思考されていたのに、確かめられた後はいつもそれはAとして思考される。逆に言えば、ある言葉や概念に対する認識が古いZであれば、Zを前提にしている限り何をどれだけ考えても必ず間違った結論が導かれるということになる。

 

 

僕は自分たちでやる哲学カフェは、言葉を一つ一つ整備していくことをしていると思っている。言葉の疎外は根深い。「考えるな感じろ」というふうに身体の繊細な自律性を深く感じ取り、委ねることによって必要なことを満たせ、自分の状態を更新できるのは『バカボンド』の小次郎のような天才であって、普通の人が言葉を整備することなく感性と体に全部お任せでいいんだと高を括るのは危ないと思う。その感性だと思っているものが実のところ思考だったりする。

 

 

さて、今回の場では、話し合いが成り立つには「聴くこと」が重要なのではないか、今度は聴くことをテーマにやってみようというような話しになった。話し合いとは何か、対話を通して吟味が行われ、必要なもの、あらためて関心が向くことが生まれた。

 

 

話しをするとはどういうことなのか。話しをすることを通して何がおきていて、話している人は話すことを通してどこに行こうとしているのか。こういうことを考え、確かめられる場は圧倒的に足りないと思う。自分にとって重要なことを湖の上から見ているだけにしない。話し合うとは何か、対話するとはどういうことか、聴くということはどういうことなのか、水底に近づき、自分の目で確かめにいくことが必要であり、このテーマで哲学カフェが様々な場所でされることの意義は非常に大きいと思う。

 

終了後、その日は「おとな食堂」があり、美味しい野草の天ぷらをいただいた。

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※林竹二は吟味のすえに古い認識が真に否定されることが必要だと考えていたが、『からだ=魂のドラマ』に収録された竹内敏晴との対談において、吟味は必ずしも口頭での話し合いによるものではなく、ただ会話するだけとか、みんなが色んな意見を言ったからよかったみたいなことは意味がないと指摘している。林の授業は準備に多くの時間がかけられており、人間とは何か、生きるとは何か、文化とは何かという根源的なテーマに対して、その授業構成自体によって、それまで持っていたような認識がもはや成り立たないところまで受け手をもっていってしまうことが企図されていた。

 

 

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

 

 

本の作成7 四国遍路1

カウンセリングではない人の変化や回復とはどのようなものか。そしてその変化や回復はどのような環境において促されるのか。15年以上前のことだけれど、四国遍路はいまだに何かを考える際に参照する基盤となっている。

 

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四国遍路は初めての本格的なひとり旅だった。ペースもわからず膝を少し壊しながら歩いていた。白い羽織りを着て歩いていると1日目から人が物や金銭をくれたり、車で送ってあげようと提案してくれる。車は乗らないつもりだったので、大雨でどうもこうも大変だった時以外は礼を言って断った。2日目に親切で泊めてもらったお家で全財産が入った財布を汲み取り式トイレに落として家の人に拾ってもらった。それまで何とも思っていなかった夜の山の耐え難い不気味さや寒さを知った。電灯のない真っ暗な山の側道を歩いていた時は、目の前の闇が口を開けて待っている怪物のように見えた。1m先ぐらいまではかろうじてぼうっと浮かび上がる白線を頼りに歩く時間はとても長く感じた。遠くから車の行き来する音が聞こえた時は心底ほっとした。騒音でしかなかった車の音などに肯定的な感情を抱くことがあるとは思ってもみなかった。

 

台車をひき、ずっと四国を巡っている人に出会った。四国では一箇所にホームレスとして滞在するよりもずっと遍路者として歩き続けることを選択する人もいて、そういう人たちは職業遍路と呼ばれていた。そういう人たちから野宿するのにいい寝場所を紹介してもらったり、カップラーメンやみかんを振舞われたりしてお世話になった。遍路者は通りすぎる人に拝まれたりする聖なる巡礼者であると同時に対極の乞食として扱われることもある。遍路者はホームレスの人たちと水平的な関係になるので向こうから声をかけてくれていいアドバイスをくれたり、何かを振舞ってくれたりすることが何度かあった。台車をひいていた人は、四国のどこかに知り合いの子どもがいて、その子にまた会うのを楽しみにしているようだった。

 

遍路マップにも記されている場合もあるが、野宿で泊まれるところがあった時は嬉しい。天井があって雨がしのげること、壁があって風がしのげること、野宿するとそのことの有り難さがよくわかった。食べること、トイレ、そして寝られるところについては常に気になってるいるが、それらが見つかり、用が足せた瞬間、これでまたもう何にも縛られず自由だという解放感が湧き上がる。僕は野宿はしたものの遍路マップは持っていたし、自炊キットを持たず外食して、托鉢もしないスタイルで行った。宿に泊らなければ一日千円ぐらいで十分足りる。

 

香川では歩き遍路に無料で讃岐うどんを接待してくれる旨が貼り出されていた店に入った。店の女性が東アジアに残る日本兵の遺骨を供養しに行っている僧に感銘を受けているという話しをしてくれた。うどんを接待してくれる彼女の気持ちはどういうものだろう。そして話してくれたその僧の行為に感銘を受ける心というのはどういうものだろう。そう思うとせまってくるものがあった。

 

歩いて一週間ぐらいたつと心理状態が変わっている。ものをもらったり、声をかけてもらうことが心に強く響く。ボロボロのバス停でも、雨風がしのげるだけでありがたい。要求水準がどんどん下がっているので、ちょっとしたことが当たり前でなく、心に響く。声をかけてもらうと、本当に足の痛みがしばらくしなくなり、歩くスピードも上がるのがわかった。疲れた体だと温泉と普通の銭湯の違いもはっきりわかって、温泉だと染み込んでくる感じがあった。旅の途中でであう温泉に入る時、京都の友人たちは僕の旅が大変かと思っているかもしれないけれど、ここまで幸福感を感じているとは思わないだろうなと思った。

 

同い歳の遍路にあってしばらく旅を一緒にした。初めて自分からお願いして無料の宿に泊めてもらった時に一緒になった人は7年前にこの宿の主人に出会い、死ぬために歩いていたのを思いとどまったそうだ。その人とたまたま一緒の日になった不思議。愛媛の実家から歩きはじめて香川と徳島を過ぎ、高知にいたっていたが、善根宿と呼ばれる民間の無料宿に泊めてもらうつもりはなかった。泊らないつもりでいた。だがここまできて足が痛くて2日泊めてもらうことをお願いした。夜、たまたま打ち上げ花火があがっていて、窓から花火が見えた。自分のプライドから降りて楽になった気がして、旅がここから始まったような気がした。そしてそれを花火が祝ってくれてるような気になった。

 

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南区DIY読書会 ソロー『森の生活』

南区DIY研究室読書会。
鴨川で花見をかねてソローの「森の生活」読書会。

 

 

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

 

 

ソローは単に農的生活や自給自足生活をすすめているのではなくて、個人が必要以上に家畜の数を増やせば人間は家畜に飼われているような主脚転倒の状態になるだろうとも述べている。また森での暮らしでは時々畑の場所をかえて、堆肥をわざわざ作る手間を省いているとも書いている。

 

人の精神が労働や常識的にそうあるべきだという姿にとらわれて、そのことが本来の生を疎外している。そこから抜け出ていくために必要なものとは何かを吟味し、それを最小限の労力でどのように作り出せるかを考え、まずは時間を自分のものにする。

 

直接的に自然やモノに触れ、関わり、向き合うことのよって生み出される自分と世界との関係性がある。DIYの意義は、節約のためとか何でも自分でできるのがいいからなどということではなくて、この自分に必要な世界との関係性を自分で作り出し、カスタマイズすることなのだと思う。

 

そこで生み出され、作り出された関係性において、個人は自分にまさに必要な体験なり環境なりを享受し、以前の状態から次の状態へと移行していく。別の言い方をすれば、個人は自分に必要な世界との関係性を作り出すことによって、自分の内的および外的状態を自分で更新できる。

 

何でも自分で作れるのがいいのではなくて、現在の(停滞)状態を自分で更新していく手段として、自分の内側にある記憶の世界から踏み出て、他者としての直接の世界に関わり、自分の世界を更新する。その営みを自分のものにすることが肝要なのだと思う。

 

そして僕は外的な状態の更新よりも内的な状態の更新のほうがより重要であると考えている。なぜならば内的な状態が更新されなければ、外の世界が変わったとしてもその体験のされ方、感じられ方は以前のままであるからだ。

 

内的な状態、つまり内的な世界認識が更新されることによって、人は世界に対して新しい体験をし、新しい感じ方ができるようになる。自分自身に生きている新鮮さを与えることによって、人は活力を得る。その活力はまた他者としての外の世界に直接触れ、また今の自分に必要な世界との関係性を生み出すために使えるだろう。

 

さて自分たちどこから始めるのがいいだろうと考えるときも、それをやれば実際に自分の世界の見え方や感じ方が変わるだろうと思えるようなことを選ぶのがいいと思う。たとえば、生きている間、都市に住んでいてもずっと家賃は2万円以内で暮らすというコンセプトでプロジェクトチームを作ってそのためのDIYも学んでいくとか、数十万で家を作れる技術を持つとかできるようになると、たぶん生きていくことのイメージが変わると思う。

 

あと大関はるかさんたちがやっているような、フリーフリーマーケット、お金を介在せず、お互いのものをシェアしあうような少し大きめな場にちょっとしたDIYを学ぶ場を併設したものを月1で定期的にやれる場を作れるなら面白いことがおこってくるだろう。

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本の作成6 大学生時代 臨床心理学への疑問 四国遍路

昨日の投稿を書き終わったところで、何か独特の満足した感じというか、整ったような感じがあって何だったのかなと思う。欠損を持っているひけ目、そして人との隔たりを超えたいというのが自分の願いだということが割とはっきりした感じがあったからだろうか。

昔のアニメ、妖怪人間ベムで子どもの妖怪ベロの「早く人間になりたい」というセリフがあったが、実感では、自分のほうは「早く」も何も今後も妖怪人間のままである感じだ。感覚の違い。異形感の強さ。自分への蔑み。

 

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ゼミで認められたことは自分にとって大きかった。進学することへの希望を持った。だが自分の問題意識、人はどうやって生きていけばいいのか、どうやって個人として回復していけばいいのかというようなことに関心があるような環境は周りになかった。

 

ある時、終身刑者がセルフヘルプグループを作って回復していく姿を描いたドキュメンタリー映画ライファーズ」が大学で上映された。勉強している臨床心理学のカウンセリングではなく、NPOが作ったプログラムはあるものの、心理の専門家でない受刑者がお互いのやりとりによって回復していく。自分が知りたいのはこちらの方だった。専門家でない個人がどうやって変化し、回復していけるのか。これこそ心とはどういうものなのかを確かに提示しているのに、心理の先生方や周りの学生たちの反応は薄かったように感じた。

 

臨床心理学は、ほぼ心理カウンセリングという技法についての学問であって、演劇的手法なり自然体験を通したグループワークなり、たとえ人の変化にとって有効であってもカウンセリングでなければ、メインストリームからかなり外れた傍流であり、あまり真剣に探究されておらず、ほどほどにしか相手にされていないようだった。「心の専門家」というような言い方は本当に言い過ぎで、「心理カウンセリングの専門家」と言うべきだと思った。

 

クライアントはいわば社会の歪みによってクライアントになっている。だがそのクライアントをその元の社会でやっていけるようにするのがカウンセリングだと思った。確かに回復はするかもしれない。しかし、心理の人たちがそもそもの社会の歪みに対して問題意識を持っているような空気をあまり感じなかった。

 

進学するにしても、臨床心理学とは別の道を行こうと思った。それぞれの個人が当事者としての自分を回復させていくための知見の蓄積が学問としてあればいいと思い、むしろそれこそ社会に必要なのではと思うのだが、そこにダイレクトにそこに繋がるものは見つからなかった。

 

3年生のとき、4年生たちの卒論発表会があり、それを聞きにいった。四国遍路をテーマにしている人がいた。発表を聞いてみると、四国八十八ヶ所めぐりが自分のイメージしていたものより興味深いものだったことを知った。行くことを決めた。大学4年生になり、10月2日から11月9日までの40日間をかけて四国をめぐった。

 

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本の作成5 大学生時代

本の作成、思い浮かぶことがあれば、前の投稿に付け加えたりしている。

 

今日は古着を買いに行った。行って家に帰ってまた行ってとかしていると、財布を忘れて行ってレジで気づいて止めてもらったりした。財布がないので停めていた自転車も出せず、家まで歩いて帰ってまた電車で行って自転車を出して帰った。

 

服とかはもらったもので済まそうとしたりしていたが、何かチグハグで後ろ向きな気持ちになってもいた。店に行って買うとかは緊張するが、自分がいいと思うものを買って着ることにした。世界を少し広げていく。何もやらないで1日を済ませられるが、多分何かそれなりに程よい挑戦はしたほうがいいようだ。

 

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大学は京都の宇治にある大学で、当時は心理学科と文化人類学科の二学科だけのところだった。大学から紹介された外国からの留学生たちもいる施設に住むことになった。オリエンテーションで話した同級生から演劇部に誘われ、演劇部に入った。この大学はまだ4年生になって2年目だったので、上級生は2年生しかおらず、そもそも大学の規模自体も小さいので、演劇部は2年生が1人、僕たち1年生が4人といった具合だった。

 

演劇部の1年生4人は仲が良くて、一緒にご飯を食べたり作ったりなどしてかなりの時間を密に一緒に過ごしていた。あんなふうに仲間といつも一緒に過ごすことはなかなかないことだろうと思う。大阪にいたころ一人で瞑想してみたり、心理の本を読んだりしていても大して自分に変化はなかったのに、特に何もしていないのに一緒にいることで自分がだんだん元気になり、できることが増えてくる。今までしなかったしできなかったようなアクションを自然としている自分の変化はその変化が些細なものでも元気づけられた。演劇部以外にも友人ができ、彼とは内面的な話しもできるような間柄になった。人に自分が言葉がちゃんと通じて、その言葉の通りに反応が返ってくるというのは大学で初めて体験したと思った。

大学1年生の時に実家の友人たちと北海道に旅行にいったのだが、その時の写真をみると今と比べて大分弱っている表情をしている。廃人かと思うぐらいの雰囲気で寂しそうにちょっと笑っている。人間関係トレーニングという大学の演習をとっていて、そこのレポートにちょっとでも自分が失敗したり下手なことをしたら直ちに人は鬼みたいになって自分は見捨てられそうと書いていた。結構な状態だった。

 

3年生ごろに心や感情の揺れ動く幅がでてきた感じがあった。それまではもちろん嬉しいことなどもあるけど、ぱっと体験してその場で終わりという感じだった。平坦な感じがずっと続いていた。それが例えば嬉しいことがあるとその響きがわんわんわんと楽器が響くみたいに余韻をもって感じられるようになった。一方でショックなことがあったりすると、前の平坦な状態ではなかった水準で落ち込んだりとするような影響を受けるようにもなったが。大阪のころとか、感情が自分にはほとんど無いように感じていた。苦しいという感覚だけはあるけれど、それ以外の感情は一瞬ぱっと現れすぐ消える。何か物語などを見て、悲しみを感じられるようになった時は嬉しかった。

 

大学3年生になってそのように感情が楽器のように響く感じができて、心が戻ってきたと思った。1回生の頃、自分は何を感じているだろうと腹の感じを確かめた時、そこはただ虚ろな感じがあった。3年生になってもう一度感じてみると躍動する感じがあった。変わったと思った。1、2年生のころは、周りの人のコミュニケーションや行動の自然さにいつも感心していた。普通の人はよくあんなに自然に挨拶したり、次の行動に移行できたりするものだと思っていた。普通の人はすごいなと思っていた。だけれど、3回生ぐらいになると別に大したことのように見えなくなった。割とみんな不自由そうで、緊張は高くても自分のほうがこれと決めたことに対しては思い切って行動できるから自由なのではと思うようになった。

 

自分の変化があると友人に対する感じかたも変わった。それまでは何も否定的なことを感じず、面白いと感じていただけだったのに、どこかに欺瞞を感じはじめたりして、友人関係が変わっていったりした。

 

エンカウンターグループという手法の対話の合宿に行ったり、過呼吸を意図的にやって変性意識状態に入るような激しいワークとか、小学校低学年から現在までの自分と親や近しい人との関わりを一週間かけて想起していく内観療法など行けそうなものは何でもいっていた。だが他の臨床心理の学生はあまりそういうことを熱心にしている人は見当たらなかった。自分の精神的な問題をどうにかしようと色々やっている人はみなかったし、そういう話しも通じなかった。臨床心理学科にきているのに、なぜ周りはあまり心のことに興味が無いのだろう?と思っていた。話しが言葉通り通じたと思っていたけれど、今まで自分の考えてきたことを話そうとすると、そこで話しが通じる人が誰もいなかった。

 

フラッシュバックをどう軽減できるのかをずっと考え、少しでも自分の状態をマシにしていくにはどうしたらいいか考えてきた。それは人間がどう生きたらいいのか、心というものをどういうふうに考えたらいいのかということでもあった。そういう話しが通じる人がいない。そこを話しあえる人が必要なのに、全然足りなかった。飢えていた。まるで酸素が薄い高山で過ごしているようで、吸っても吸っても十分な酸素が足りないような感覚があった。自分の考えていることが通じる場を切実に求めていた。

 

3回生から卒論ゼミに入ることになって、秋田巌さんという精神科医のゼミに希望し、入ることができた。臨床の先生のなかで最も言っていることが深い感じがしていた。ゼミで卒論構想を発表した時、「修論レベルです」と秋田さんに言ってもらえた。『うしおととら』とシルヴァスタインの『ぼくを探しに』とグッゲンビュールというユング派の分析家の『魂の荒野』という、サイコパスについての本を扱った発表だった。その時初めて自分のそれまでずっと考えていたことがまるで見当外れのことではなく妥当だったと思うことができた。

 

哲学書などの難しい本を理解することはできないが、自分なりにできる範囲で心とは何かに関連しそうなあらゆることを考えてきた。ユング的な分析に触れて、自分なりに絵本とか漫画などを含めた物語からそこに描かれている構造や複数の物語に共通するパターンを読み取り、解釈するようなことをしはじめていた。

 

『魂の荒野』では、サイコパス(精神病質という表現だったが)は、残酷なことができるがそれは彼が残酷な感情をもっているのではなく、ただ感じないのだとグッゲンビュールはいう。だがサイコパスは自分のその特性に欠陥を覚え、それを補償するような教師や聖職者のような職業につくような傾向もある。そしてグッゲンビュールはそのように何も感じない場所、魂の荒野はどんな人にも存在すると述べる。自分に魂の荒野があることを多くの人は気づかないか、あるいは認めない。だがその魂の荒野の存在をお互いに認めることこそが真に人間を人間たらしめるとグッゲンビュールは指摘する。

 

僕は人の不幸に共鳴しないところがある。愛着が薄く、久しぶりに出会った人などに相手と同じテンションで反応することとかはできない。人への感情が淡白だ。今日会った人が明日死んでも心があまり動かないかもしれない。映画「レインマン」を見たとき、主人公の兄であり自閉症者のレイモンドの面倒をみていた施設職員が「彼(レイモンド)は俺が明日どこかに行ったとしても何も気にしないだろう」といったようなことを言う。映画をみていて、自分もそういうところがあると思った。

 

 

 

大学の友人の実家に遊びに行った時があった。自転車をかしてもらって移動していたときに駐車場から出てくる車にあたった。怪我はなかったが、自転車にはダメージがあった。それを電信柱にぶつかったと友人に嘘をついた。その後、友人は自転車屋に自転車をもっていって、これは明らかに事故だと指摘され、僕が彼に嘘をついたことを知り、傷ついたと僕に伝えた。自分の保身のために長い間付き合った相手の心などないかのように嘘をついていた。

フラッシュバックで自分が世界で一番最低で気持ちの悪い人間だと打ちのめされる。それに対して、まっとうな人間でありたいと願い、そうなろうとするが、自分の感情は必要ならば人を平気で切り捨てられて、それを苦しまない。自分はただ生きづらいフラッシュバックなどの被害者なのではなく、人として欠落した加害者だ。そういう自分がどのように回復していけるのだろうか。いつも欠落に苛まれながら、同時に我が身可愛さに支配されていて、人を捨てる、そんな自分がどうやってと思った。人間としての強い欠損感。だがそれがグッゲンビュールの指摘をみたときに救われる思いがあった。誰もが自分と同じように魂の荒野をもっているのだと思った。

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本の作成4 北海道〜東京

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北海道では基本的に関わる人に恵まれた。牧場主の友達やの近所の人たちも自分を16歳の子どもではなく、個人として尊重してくれた。3人の子供たちとの関わりを持つなかで子どものためだったら自分にも何かできるのではないかと思うようになった。親や大人の欺瞞を糾弾したいという気持ちもあった。1年が経ち、休みをもらって実家に帰っていた時に、牧場の家が火事になった。死者はいなかったが、部屋のものは全部焼けた。1年いてこれ以上いてもあまり自分には変化がなさそうだと感じていたこともあり、そのまま牧場を辞めることにして、大学に行って心理学を学ぼうと思うようになった。

 

実家でしばらく生活しているとどんどん声が小さくなっていって驚いた。環境の影響は大きいと思った。禅の本に出会って、禅の言葉に関心を持つようになった。仏にあえば仏を殺せ、師にあえば死を殺せというようなリアリティに欺瞞のなさを感じた。

 

親が探してくれた塾に行って、ガソリンスタンドでバイトをしながら高校進学を目指した。塾で同じだった現役生の子たちは2つ年下だったが僕を慕ってくれた。全日制の高校に入ったが、同質空間で年齢が上なこともあり、友人はできたがあまり居心地はよくなかった。1年で辞めて、大阪の通信制の高校に通うことにした。月に1回のスクーリングでは全日制の高校よりは多様な人が来ていたのでいやすそうだったが、課題が簡単だったので、ここを卒業するより大学入学資格検定をとろうと思い、とった。

 

大阪には2年いた。苦しくなると夜に川辺を歩いて黒く浮かぶ松を見た。漆黒のものに癒される感じがあった。フラッシュバックは相変わらずあって、これをどうしたらいいのかはずっと考えていた。変な不安があって、妖怪のムジナみたいなものに出会ってしまうと自分は発狂するというイメージがあって、ムジナにふと出会うのではないかと恐れていた。電車は自分が降りるところと関係なくどんどん終点まで進んでしまうので電車に乗るのは怖かった。時々梅田の本屋に行ったが、行くと疲れてしまい、復活に2、3日かかった。ある時どんどんと落ち込む時があったが、底を打った感じがあって、自分はただ落ち込むだけならもう大丈夫だという変な確信を持った。フラッシュバックは落ち込みではなく、直接的な苦しみなのでそちらは相変わらず辛かった。何かいいことがあったりして、気分が上がっている時にフラッシュバックがくると余計苦しかった。

 

21歳になって、東京に行った。朝日新聞を配りながら寮に住み、代ゼミに通った。講師陣は自分の科目が本当に好きなようで、授業はいつも面白かった。学校の先生になりたいなどと一度も思っていなかったが、予備校の講師ならいいかもしれないと思った、朝日は入る前にパンフレットに書いてあった説明の休みや給与と実際の待遇が違って、自分が権利を主張するなら他の人に迷惑がかかる仕組みになっていた。1年やって、ICUを第一希望にしてあとは都立、上智の心理学科に行こうと思って試験を受けたが全部落ちた。滑り止めの京都文教大学の臨床心理学科に行くことになった。ここに行くなら別に予備校行かなくても昨年受けたら受かっていたのにと思った。

 

新聞配達時代は、親しくなった人もいたけれど、内心信頼してないのに表面的には従う自分の姿を指摘され先輩に嫌われたりもした。あまり安心して誰かに本音をいう感じの環境ではなかった。周りの人の人間関係とか、あまりいい感じではなかった。誰かが誰かを嫌っていてその悪口を言っていた。だが思えばなかには優しくしてくれる人もいた。大学に合格して、店長の奥さんに背中が変わったと言われたことはそれまでから見守ってくれていたみたいで心に残った。

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