降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成3 書いていく 小学校〜北海道

本の構成、色々考えたけれど、そのまま自分のこれまでを書きながらやっていこうと思う。

 

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家族は8人だった。両親、姉と妹の他、祖父母と叔母、そして僕だ。すぐに泣く不安定で粗暴な子どもだった。叔母が両親のいない間にやってきて、自分や姉などを組み敷いて無理やりキスするということが続き、親に言っても状況が変わらなかった。その屈辱や惨めさで叔母を憎み、犯罪になる年齢のギリギリ前に殺そうと思っていた。だが結局はやらなかった。決して許さないとだけ決めて軽蔑し続けることにした。ひねくれた思いをもち、怒りを持っていた。

 

小学校では高学年になって成績がよくなった。力関係も強いほうにいた。いじめをするクラスメートを逆にいじめるみたいなことをしたりしていい気になっていた。中学校になると、成績も下がり、部活以外では友達もあまりできずにいた。中学は自分がいた校区だけでなく、別の校区も一緒だった。喧嘩が強いものがいて、弱いものをいじめるのを周りが同調して愛想笑いするような雰囲気だった。それが嫌で、とても軽蔑していたが小学校の時と違い、つっかかっていくのは怖くてできず、自分自身に対しても忸怩たる思いを持っていた。その分余計軽蔑して自分を保とうとしていた。

 

クラスのなかのカーストは低く、馬鹿にされたりからかわれるようになった。しかしそれに対して無視と軽蔑で返していたので、余計相手を挑発したところもあった。しつこく絡んでくるやつがいて、一挙手一投足を観察されて周りと共に囃し立てるようなことをしたり、気持ち悪く後ろからお尻を触ってきたりした。それに対して喧嘩をふっかけられない自分も情けなかった。かなり毎日しつこく絡まれていたので、強い憎しみを抱いていた。追い詰められていた。カッターで手の甲を自殺の練習だとたくさん切り傷をつけたりもしていた。

 

ある時、生徒会役員を決める際に、クラスの学級委員が周りと示し合わせて、クラスの男子が同調し、僕に投票した。示し合わせている声は聞いていた。その後、学級委員に喧嘩をふっかけた。次の日、学級委員は手に包帯をまいていた。先生に呼ばれた。彼が示し合わせたの聞いたから喧嘩をしたと言った。だが信じてもらえなかった。彼は嘘をいうような子ではないということだった。親は彼の家にケーキを持って謝罪しに行った。

 

学校に行くのが馬鹿馬鹿しくなった。休みはじめた。時々行っていた時にあまりカーストが高くもないのに調子に乗って絡んでくるやつがきたので殴りかかると落ち着けとか言って、それ以降他のやつも絡まなくなったように思う。

 

ある時、急に強く憎んで軽蔑していた相手と自分が同じ性質を持っていると気づいた。それはもう否定できなかった。今まで彼に向けていた憎しみと軽蔑が自分に向かうようになった。それは不意に電撃的にやってきて、自分は世界で一番気持ち悪く最低な人間だという耐えきれない一撃として自分を打ちのめすようになった。

 

そのフラッシュバックがきて、いつも独り言を言っていたりした。ある時親に促されて行ったところは精神科のクリニックだった。フラッシュバックに加えて、自分は頭がおかしいのかという疑いに苛まれるようになった。また何も言わず精神科に連れて行かれたことに決定的な不信を持った。むしろクラスメートなどよりも自分を信じてないのは親だったと思った。

 

母親は僕を心の弱い可哀想な子ということにして、そうではないと否定したり、説明しようとしても通じなかった。14、5の自分は自分で思っていた以上に母親を信頼していたようで、お前は心の弱い可哀想な子だというメッセージをなんども母親から聞くのは拷問のようだった。当時は不登校は登校拒否と呼ばれていたけれど、世間的な認知は少なく、母親は祖父母からも責められ追い詰められてそうなったのだとその後理解できたが、当時の自分としてはそういう母親の背景を理解する余裕はなかった。期待していなかった人にどうこう言われたりされたりするよりも期待していた人に思ってなかったことをされるほうが傷が大きい。自分はもし親になったとしてもこのようなこと決して子どもにしない。そうなるまでは親などにはならないと心に誓っていた。

 

フラッシュバックは続き、死のうかとも思ったけれど行動に移すことはできなかった。この苦しさに対して将来いい仕事につくとか、幸せな家庭を持つとかは、全く釣り合わなかった。そんなものではまるで割りに合わない。この時から、そういうものは自分を動機づけるものとして全く意味を持たなくなった。死にたいと事あるごとに思っていたけれど、ギリギリまで耐え、本当にダメになった時には死んでもいいというふうに考えることにした。死は最後の救いとしてあった。死んではいけない、死なないほうがいいという考えが世間の考えだが自分が納得するまでは思ってもないのにそんな考えは受け入れないと思った。死については救いとしてあったが、それが悪いようにも働いた嫌なことをするなら死ねばいいというふうな思考になり、些細な嫌なこと、自分の閉じた思考から嫌な感情が生まれることでも、すぐに拒否してしまう傾向にも結びついた。

 

自分の頭のなかで作った僕のイメージを何度も言ってくる母親に耐えきれず、ここにいたら自分はダメになる、家を出ていこうと思った。家族と縁を切って、外国に行きたかったが叶わなかった。だが北海道の牧場の住み込みの仕事を知り、連絡して、中学卒業後はそこで働くことになった。

 

北海道はいい場所だった。田舎の人は温かく、親から離れられたこともあいまって元気になっていった。牧場主には小学校4年生と2年生、3歳の3人の子どもがいて、彼らと仲良くなった。子どもは自分がちゃんと行動するなら信頼してくれる。人に信頼されるという体験は本当にとても大きなものだった。それは今に続く基盤になっているところがあるだろう。信頼が何より大事なのだ、信頼される人間になろうと思った。人に頼まれたら断らないとか、悪いことを思わないようにしようとか、自分をいい人にしようなどと、意図的に自分を矯正しようとした。自分を矯正しようとするなど、後に響くような馬鹿なことをしたと思うけれど、当時はそれはわからなかった。それは自分の抑圧に繋がっていた。自分は放っておいたら余計なことをやり、人を傷つけるような余計なことを言う。それらを決して出してはいけない。自分を強く押さえつけ殺すことが正しいと信じていた。その影響は今でも残っているように思える。

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脱自己肯定感 自意識との一体化と突き放し

どうも成功体験の積み重ねという言い方には違和感があった。ある特定の体験による自己認知の変化は、成功体験への固執を生んでむしろあとで邪魔にならないだろうか? 何かができる・できないという条件に紐づけられてもいるし。

 

「成功体験を積んでいる」ようにみえる時も、重要なのは成功体験自体ではなくて、未知の可能性に踏み出し、そこから新しい実感を得るというリハビリなのではないだろうか? その場合は何かをやった自分に対してではなく、未知のものとの対話自体に信頼をもつ。自分や自分の成し遂げたことではなく、世界に対して信頼を持っていく。

 

「自分を仲の良い親友のように扱う態度」は、「成功した自分」のような自意識との一体化とは逆で、自分を二人称の「あなた」として、自分を知らないものとして扱う態度であるように思う。それは一体化や同一化とは逆であり、むしろ突き放してさえいる。

 

「これができる自分」に対しての肯定性ではなく、未知のものに対して踏み出し、やりとりする行為自体への信頼感の回復、「わからないこと」への信頼感の回復が重要なのではと思う。

 

 

  

 

どうやら情緒が安定している人の共通点は、従来言及されてきた自信(自己肯定感)の高さではなく、自分自身を仲の良い親友のように扱える態度(Self-compassion)ではないか、と考えられ始めているらしい。

自信を持つことは大切なんだけど、Self-compassionがないと自信を築くこともできないという。”

 

京都自由学校企画案内 学びの場をめぐる  

ボランティアで運営する市民講座、京都自由学校の企画の一つを担当しました。

京都自由学校の学びの場めぐり講座、お申し込みは最下部の京都自由学校HPの申し込みフォームへ。

 

第1回 5/20(日) フリースクールわく星学校 14~17時
*岩倉村松バス停13時半に集合

 

第2回 6/10(日) mumokutekiホール     14~17時
*地下鉄烏丸御池駅改札前13時半に集合

 

第3回 8/11(土・祝) クィア食堂    15時半~18時半
叡山電車出町柳駅改札前15時に集合  

 

第4回 9月(※後日お知らせ) 本町エスコーラ
*京阪七条駅改札前に集合予定

 

第5回 10/14(日) カライモブックス    13~16時
*地下鉄鞍馬口駅改札前12時半に集合

 

第6回 11/11(日) ちいさな学校鞍馬口    14~17時
*地下鉄丸太町駅改札前13時半に集合

 

☆学びの場の紹介
第1回:フリースクールわく星学校
わく星学校は1990年4月に開校したフリースクールです。決まったカリキュラムに縛られず、自分たちの「学び」を自分たちで計画し実行していくことによって、主体性を身につけ自立していく場です。
http://www2.gol.com/users/kosa/

 

第2回:mumokuteki
mumokutekiは人と人がつくりだすモノが集まる場所と時間でありmumokutekiに集まったモノから生まれるたくさんのことを大切にしてひとりひとりの想いと意志を未来へ、素晴らしい地球を繋げていきたい。そんな"いきるをつくる"ことは私たちにとってとても幸せなことです。
http://mumokuteki.com/

 

第3回:クィア食堂
クィア食堂では生きることの一部である「食」もクィアに実験的にしていきたい。ごはんを一緒に食べながら色んな会話が生まれる、差別や抑圧に挑戦的である場をつくっていきたいと、ぼちぼち活動しています。
https://www.facebook.com/qshokudo/

 

第4回:本町エスコーラ
本町エスコーラは、空き家を改修し、コミュニティースペースと住居・アトリエ棟などとして活用する場です。エスコーラとはポルトガル語で「学校」を意味しますが、公民館、児童館といったニュアンスもあります。本町エスコーラは、1)コミュニティー2)建築3)インフラの三つのレベルにおける「自立」によって、持続可能な社会を目指します。http://www.escola-kyoto.com/escola-index.html

 

第5回:カライモブックス
水俣に天草に暮らすことができなくて、京都市でカライモブックスという名の古本屋(新本もすこしあり)をはじめました。 窓の外は不知火海だ、と思い込んでここカライモブックスで暮らして、9年がたちました。
http://www.karaimobooks.com/

 

第6回:ちいさな学校鞍馬口
シェアハウスのフリースペースを利用して、当事者研究や哲学カフェ、終活ゼミなど話しの場を作っています。今までの学びの場めぐりを概観して、振り返ります。
https://www.facebook.com/groups/203524926394957/

 

 

お申し込み 京都自由学校HP申し込みフォームより

学びの場をめぐる – 京都自由学校

続・自己一致について

先に自己一致について書いたけれど不十分だった。自己一致は単に自分をモニタリングしている状態にとどまるものではなく、応答を伴わなければならない。何かを感じていても、それに対して応答をしなければそのことによって、まるで感じ方の構造が変えられてしまうように不信状態に陥る。自分に感じられるエネルギーは弱まり、自分は小さく受動的に感じられる。

 

日々の一瞬一瞬で選ぶこと。それによって自己一致の深さは変わってくる。リスクがほとんどない状態では、ある程度までの自己一致の深さを得ることができる。だが、それ以降は周りや社会に直接対峙する必要が出てくる。摩擦のないところまでいっぱいになったあとは、摩擦がある世界しかない。

 

否定されたり、抑圧されたり、傷ついたりするリスクを負い、それでも自分として生きる。より自分自身であることは簡単にはできない。しかし、その選択をしていった人たちの後ろ姿をみることはできる。

 

ある程度回復したり、元気になったりした後、なぜ停滞するのか。リスクを負うことをしないからだということになるだろう。より自分自身であるためにそこからリスクをおかして自分の求めに対して応答していくことが必要になるのだ。

 

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(ガンジー

自己一致と学び

学びの森のユースフォーラムに出て、生徒さんたちが自分の軸で社会や自分自身のことを考えられることがとても印象に残った。

 

学びの森における教育は対話であると考えているとのお話しもあった。安心安全信頼尊厳を提供しあう環境においてもっとも学びが進むとは思っていたけれど、今、そこにおいて欠かすことのできない要素は自己一致ではないかと思うようになった。対話が成り立つ環境においては自己一致が深まる。

 

自己一致は、自分自身の感情や感覚の動きをある程度の深さ以上モニタリングできていることだと思うけれど、自分に無理矢理何かを強制したり、感じまいとしたりするということを続けると乖離が激しくなる。乖離が激しいほど自分が本当は何を求めているのか、自分の気持ちはどうなのかがわからなくなるし、そこに近づくのに時間がかかる。

 

自分が自分であることを維持することはとても難しいことだ。多くの人が自己一致の深さを失いながら生きざるを得ないことになっていると思うけれど、機械的にハードディスクにデータやアプリをいれていくような教育では、入れられたデータやアプリは自分に根付かず、整理もできず、統合がなく浮遊した残骸のようなものになる。

 

自己一致は、バラバラなものを統合する役割を果たすが、自己一致していないなら入れられたものは統合され方がわからないまま浮遊する。自分に統合されず、生きたものとして根付かせられることのないことの取り入れは学びとは言えないのではないかと思う。

 

 

今行っている整体の稽古では、視覚的に見える体と目をつぶった時に実感される体は別物とされる。目をつぶった時に両手を前に出すと、どちらかの手の方が長く感じたり、太く感じたりするということがおきる。そしてこの後者の感覚される身体の方を軸として体というものへの認識を再構成する。

 

 

右手が長く感じるのを左手と同じようにしなければと矯正対象にするのではなく、実感される感覚のもとで体を捉え直していくことで体が整っていく。視覚的な身体を軸とすると、体は整わず、むしろ乖離がすすむ。

 

乖離した状態で身につけたことは、学んだとはいえないものだろう。それはむしろいらない残骸のように余計なものとして体に居続けるだろう。

 

乖離の前の状態に戻ることがまずは学びのスタートラインに立つことなのだと思う。

エリ・ヴィーゼル『夜』

奥田知志さんの本で紹介されていたエリ・ヴィーゼルの『夜』を読んだ。

 

 

夜 [新版]

夜 [新版]

 

 

父と一緒にアウシュビッツに送られたヴィーゼルは、父を愛しながらもたびたび父を見捨てたい思いに駆られ、また父が死んだ際には自由になったとも感じた。ヴィーゼルはその罪の意識をその後も抱え続けている。

 

正直なところ、あまり入っていけなかった。多くを読み飛ばしてしまう。時々、印象的なシーンがあった。強烈なものでは、子どもが穴で燃やされる場面、子どもが絞首刑にされるシーン、ヒトラーだけがユダヤ人を絶滅に向けて殺していくという「約束」を守っているというユダヤ人、アウシュビッツから出た後に再会したフランス人の女性とのやりとり、輸送中の列車にパン切れを投げ込み、殺し合いがおこるのを楽しむドイツ人労働者。


雪の降るなかで眠ってしまった父をおこした時のシーン。

父も静かにまどろんでいた。父の目は隠れて見えなかった。帽子で顔を覆っていたからである。

「目を覚ましてよ」と、私はその耳元に囁いた。

父はぎくっとした。彼は座りなおし、途方にくれ、茫然としてあたりを見まわした。孤児の目つき。まるで自分の世界の財産目録を作成し、自分がどこに、いかなる場所に、いかにして、何がゆえに来ているのかを知ろうと突如として決意したかのように、周りのあらゆるものをひとわたり見渡した。それから父は微笑んだ。

私はこの微笑をいつまでも憶えているであろう。それはいかなる世界から来たのであろうか。

累々たる死体にかぶさって、雪は引きつづき霏々として舞い落ち、厚く積もっていった。


自分の姿を鏡で見たシーン。

 

私はゲットー以来、自分の顔を一度も見ていなかったのである。

鏡の奥から、死体がじっと見つめていた。

私の目のなかにあった死体のまなざしは、それっきり私を離れたことがない。 

 

 彼の父に向けた気持ちをみると自分のことも振り返られた。自分自身の家族への気持ちをみたとき、家族の気持ちが救われればいいと思いながら、厄介なことにはならないで欲しい、家族のために自分が苦しまない状況にならなければいいと思っている。我が身可愛さで、ろくでもない。だがまずはいつだって疎外された個人としてはじめていく以外にない。そこからしか歩みははじめられない。

 

エリ・ヴィーゼルの別の自伝は少し読んでみたいと思った。

 

愛の反対は・・・という言葉は、エリ・ヴィーゼルらしい。

http://english-columns.weblio.jp/?p=2093からの転載。)

 

The opposite of love is not hate, it’s indifference. The opposite of beauty is not ugliness, it’s indifference. The opposite of faith is not heresy, it’s indifference. And the opposite of life is not death, but indifference between life and death.

愛の反対は憎しみではなく、無関心です。美の反対は醜さではなく、無関心です。信仰の反対は異端ではなく、無関心です。そして、生の反対は死ではなく、生死に無頓着なことです。

 

1986年10月27日、US News & World Report

 

Indifference, to me, is the epitome of evil.

 無関心とは、私にとって、邪悪の縮図だ。

1986年10月27日、US News & World Report

 

 

Indifference is not a beginning, it is an end. And, therefore, indifference is always the friend of the enemy, for it benefits the aggressor — never his victim.

無関心とは始まりではなく、終わりである。それゆえ、無関心は常に敵の友であり、攻撃者の利益となるものである──決してその被害者の利益とはならない。

1999年4月12日のスピーチより引用
出典:http://www.historyplace.com/speeches/wiesel.htm

 



当事者研究 弱さとは何か

土曜当事者研究

 

今回は自分にとっての弱さとは何かを考えてみた。

 

・傷つくことを恐れ、自分の気持ちや希望があってもそれを出さないまま逃げてしまうこと。また傷つきそうな場や状況に出会わないようにあらかじめ避けること。相手のちょっとした至らなさでこの人はだめだとやりとりを諦めること。人とのぶつかりを避けること。

 

傷つく状況を避けるように生活を設定したため、不本意に傷つけられたり、人に干渉されにくい状態にはなっているが、自分にとって必要な人との関わりにおける体験ができない孤立状態にもなっている。いいところだけでしか人と繋がれず、関係性が脆弱。踏み出し、そして辛抱強く人と関わっていくことに耐えきれず逃げ出す。

 

・抜け出せない人間関係に巻き込まれることへの恐れ。子どもをもち、もしその子どもが一生の介護を必要とする子どもだったらというような恐れ。自分一人なら逃げ出せるのに切れない関係性が自分を底なしの沼に引き込んでいくような恐れ。

 

生を選んでいるつもりなのだろう。なぜ一生介護だとダメなのか? 自分が選んだことならまだ納得がいき、選べないことは拷問のようだろうか。苦しく、意味をあまり感じられないことが終わりなく続くと想像されることを受け入れられない。

 

だが子どもを見捨てて生きることもできるはずだ。見捨てて逃げるなら少なくともその泥沼に入らない。見捨てることができないのは、そのようなことをした時に自分が人から見捨てられるという認識があるように思われる。つまり自分が人から見捨てられないために、倫理を守らなければいけないとなっている。

 

子どもをみても特に関わりたいとは思わない。結婚したり、出産したりという話しを聞いても、本人が喜んでいるのなら良いと思うけれど、自分の感覚としては、結婚や出産自体がめでたいこととは全く感じられていない。基本的な愛着が薄く、別れや再会でそんなに感情が動かない。そういう自分に戸惑いを感じ、隠し、取り繕おうとするのもまた見捨てられる不安のようだ。

 

見捨てられることによって、更に孤立した時、生きていくことができないのではないかという不安が出てくる。生きていかねばと思っているようだ。だが生きていくなどということが自分の裁量におさまったかたちになるだろうか? 決まった反応を繰り返しているだけにすぎないように思える。自分がコントロールして生をマネッジしているようで、あまり選択などできず、ある状況に対してほとんど決まった反応している。自意識の役割はそれほど大きくないだろう。