降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「人と人」

昨日は個の尊重と調和というテーマで話し合いがされた。今まで個の尊重というと、その人の意思が示されたらそれにただ従うというイメージだった。

 

しかし言われてみると確かに、権力関係や上下関係がないところで、相手が何か言葉を発したらそのまま従うなら、お互いの意思の尊重ということがおざなりにされていることになる。その時の関係性は、役割の関係性であって「人と人」ではない。

 


お互いに意思や思いのある存在なのだから、相手の意思や思いを受け止め、しかし相手にも自分にも強制を持ち込まないで自分の思いも伝える。すると相手のなかもまた変化する。

 

 

求め自体がお互い違っているので、相手の求めることと自分がすることは一致しないかもしれないが、そこに強制と役割を持ち込まなければ、心は納得し調和に向かう。その時調和とは閉じた既知の場所にあるのではなく、今までお互いに居なかった第三の場所に行くことである気がする。

 

 

ただのスローガンでなく、「人と人」で話すということがどういうことなのかよく考えてなかったなと思った。自分の気持ちや思いは下げて、相手の言うことにただ従うのがいいというようになっていた。この時は上下関係を持ち込んでいるから、「人と人」ではない。

 

 

「人と人」であることは、どちらが自分をすぐに押し下げることをしていては成り立たない。その時は自分に強制を強いているから。役割を持ち込まず、相手に強制しないだけでなく、自分にも強制しないことを両立させたときそこに流れる関係性は「人と人」としてのものになる。一方だけではなく、お互いが自律的であることも「人と人」となるための必要条件だ。

 

 

個の尊重というときに、自分にも強制を持ち込まずにいると関係性はどうなるだろうか。無自覚に相手の要求にただちに従うことがいいことだと思っていたけれど、それは「人と人」を自分からあらかじめ取り下げることだった。与える人と受ける人という上下を自分から作り出す行為だった。

 

 

一方、「人と人」であること、強制や役割をそこに持ち込まず、お互いを自由で自律した意思を持った存在としてやりとりすることが尊重と呼べることであり、それはそれ自体で贈り合いだと考えることができるのだと思った。その時閉じた個は変容していく。

 

 

人と関わること、やりとりすること自体がそもそも贈り合いだと考えるとき、日々のあらゆるやりとりに違った向き合いが生まれてくる。

能力

ふと能力とは何だろうかと考える。

 

作用に反作用があるように、何かをより生かす力は、同時に何かを殺す力ではないだろうか。何かを生かすということは同時に見えない何かを殺していないだろうか。能力の本質は、そんなに諸手を挙げて喜べるところから成り立っているだろうか。

 

 

資本主義を強力に推し進め、戦争を作り出すようなところにいる人は高能力でその能力にさらに磨きをかけているような感じがする。相手を殺す力、圧倒する力はそういう不安定なところでしのぎを削り、暴走するように力を増す。

 

 

そもそも生きる力とは死に切れない力なのだから、そういう場所で暴走する能力が引き出されるのは道理だと思える。

 

 

それは長期的にみて自己破滅的であれど、短期的には勝ち尽くすことができるものではないかと思う。

 

 

生き延びる理屈とやさしさの理屈は違う。やさしさに生きることは、生き延びる理屈に沿うことと相いれないところがある。やさしさは生き延びる合理性の支配に対する反逆としてある。勝つことが奪うことを必ず伴うのであれば、やさしさは勝たない。

 

やさしさは勝ちを打ち消すものとして存在するだろう。

【報告】浜松のクリエィティブサポートレッツに行ってきた

浜松のNPO法人クリエイティブサボートレッツの1泊2日のツアーに行ってきました。

 

レッツは、武道家で臨床心理士の田代順さんからぜひ行ってみてくださいとおすすめされていたところ、今回陸奥さんのツアーがあったので早速申し込みしました。浜松はアズワン・コミュニティ経由のご縁でトランジション浜松も訪れてみたかったので行く動機は強いところでした。

 

 

夜はサマフェスというイベントがあったのですが、1日目はほぼ自由時間でその時間をどう過ごすかは自分で決めるという最初から自分が問われる感じ。研修とかいうことだとやることが決まっていて、自分がどうであるかというのはあまり気にしなくていいのですが、自分がどうしたいかというのが問われる場だなと思いました。

 

 

こういう時、大抵は僕はただ固まっていますが、固まりつつも、場の空気感はちょっとずつ感じていたかなと思います。場はピリピリした感じがなくて、スタッフも利用者も自然体で過ごしている感じ。自分もバイトで知的障害のある方と関わってはいますが、ここで初対面の利用者さんたちの状態がどうかというところまで感じ取る目がなくて、爆音で音楽やっているときの様子がすごいいい顔で笑ってたなあぐらいでした。

 

 

どちらかというとスタッフの方たちの感じのほうが比べたりできるので感じやすかったです。スタッフの方たちは、役割としてそこにいるよりも、個人としてのキャラが自然ににじみ出ているという印象を受けました。それはこの場の人と人の関係性のフラットさの結果なのか。自然体でいるときの人は、奥行きがあるなあと思います。

 

http://cslets.net/hotnews/news-666

 

100時間ツアーというのは、その場を体験するのにいい仕組みだなと思います。観光ということで、旅人としてそこにいる。旅人というのは、通りすがりの日常の役割に組み込まれてない、どっちつかずの存在です。そういう存在としてそこにいる。

 

 

支援者だとか、ボランティアだとかという守りにもなる役割がなく、ただそこにいるということは、なかなか難しいことなのですが、役割を通して経験することはなぜか「自分の経験」にならないのですね。同じ体験をしても、自分を変える経験にならない。そういうことではあんまり意味ないなと思うのです。役割ではなく、自分として経験する。その時に認識が本当に変わっていくように思います。

 

 

僕は、福祉とは何であるか、アートとは何であるかはわからないのですが、その場にある見えない関係性の状態がどのようであるかということが人の変化にとって大きな影響を及ぼすということにはずっと関心があって考え探っています。場を媒体をどのように設定するか、あるいは人が操作できないところを含めて場や媒体どのように設定されているかによって、その場でおこることが決まります。

 

 

何か面白いことがおこっているということは、自律的なものが間隙を縫って現れてきているということだと思います。自律的なものが現れる場に必要なのは自由さ、お互いの関係性のフラットさ、価値や意味の有無が既に決定されていないことなどがあると思います。逆に言えば、自律的なものが展開するのをいつも邪魔しているものがあって、その干渉をとってあげる必要がある。邪魔しているものは、かたちのあるものであるより、手で触れない「意味」や場の上下関係であったりするので、それを相殺するのは工夫がいります。

 

 

健常者は、障害のある人に比べて、物理的にできることが多く、きちんと自己一致しているかをおいて、場に身体を適応させ自動的に馴致させてしまいます。しかし、その盲目的に馴致する能力は自己疎外的にも働きます。自分自身のフィット感抜きに自分が動いてしまうことで場をしのぐことばかりしていると、自分が何であるかわからなくなり、糸の切れた操り人形のように破綻的で統合を失った不健康な状態になってしまう。

 

 

相模原の事件があったように、障害がある人が何で生きているのかと思っている人はネットを見る限りではある程度いるわけですが、なぜそのように人の命まで操作したいぐらい強迫的なのかと考えれば、そう思う人は既に追い詰められているのだということ見えてくると思います。なぜ追い詰められているのか。脅かされているのか。

 

 

それは人にとって自分が有用であるとき、自分には価値があり、有用でないとき、自分には価値が無いという規範を自分のうちに取り入れてしまったからだと思います。これは大抵環境から無自覚に取り入れられるものだと思いますが、この取り入れによっていつも存在が脅かされています。自分は脅かされながらも必死で有用であるように苦しい仕事などしながらようやく生きているのに、自分が裁かれているのと同じ価値基準によって、裁かれていない人がいる。自分は被害者であり、裁かれていない人は加害者であると感じられます。

 

この認識を取り去るには、身体化され、無意識化した自分の認識が揺り動かされる必要があると思います。無意識に取り込んでしまった規範を意識化させ、破綻させること。これが必要になります。

 

 

障害のある人と水平な関係性で同じ場を共にするとき、障害のある人には自分が常識としている内なる規範が通用しないということに否応なく突きつけられると思います。それによって葛藤し、問いが投げかけられた自分の認識を再吟味するなかで内なる規範(たとえば「人はこうあるべきだ」とか)が破綻すれば、救われるの自分自身です。その時、被害者であった自分が終わり、それにともなう怒りや惨めさの感覚もとれていくのだと思います。

 

 

レッツのこの100時間ツアーが企画されるのきっかけになったのは、
以前、レッツで学生合宿がされたことがあり、そこで学生たちが全員ではないにせよ大きく変わっていったということがあったことだったそうです。

 

 

研修でもなく、仕事でもなく、ボランティアでもなく、役割の鎧に守られていない素の自分としてその場にいること。そしていかにそれを自然に成り立たせるかというところが、工夫やデザインのしどころなのだと思います。

 

 

レッツでは「かたりのヴぁ」という哲学カフェも行われていますが、僕もこの哲学カフェという手法、場づくりのあり方に関心をもっています。哲学ということで、既に前提にされているような価値や習慣をもう一度ゼロにして問う。人を停滞させているのはやはり内なる規範であって、それは意識化され、吟味されることによって変化をおこします。普段の日常の場では、言い出せないことも言える場。それが哲学の場ではないかなと思います。

 

 

僕は心理の大学に行ったりしてどうしたら変化がおこるのかを探ってきたのですが、とても重要な要素としてフラットさがあると気づきました。贅沢をいえば「治療者と患者」という上下間があるとそれも変化の停滞要因になる。また「治療」という時点でもう「治るべき」という価値の序列がしっかりと場にしかれていて、それが変化のプロセスに入ることの邪魔をする。「べき」を感じさせない場が工夫できるのであれば、それに越したことはない。僕的には「成長」とかも「治療」と同じ構造で人を停滞させるので、「成長」とかそういう望ましそうな価値観や言葉からも自由になるのが一番いいと思っています。

 

 

そういう時、哲学というのはフラットに内なるものをプロセスしていける媒体として適していると思うのです。いかにフラットを成り立たせるか。レッツはそれがとても意識された場所だと思います。

 

 

1泊2日ツアーで31時間分のスタンプを押してもらいましたので、また残り69時間を消化していきたいです。

 

当事者研究in鈴鹿

鈴鹿当事者研究をやってみようという話しになった。

 

当事者研究とは

当事者研究」は、北海道浦河町における「べてるの家」をはじめとする起業をベースとした統合失調症などをかかえた当事者活動や暮らしの中から生まれ育ってきたエンパワメント・アプローチであり、当事者の生活経験の蓄積から生まれた自助-自分を助け、励まし、活かす-と自治(自己治療・自己統治)のツールである。
当事者研究では、当事者がかかえる固有の生きづらさ-見極めや対処が難しいさまざまな圧迫感(幻覚や妄想を含む)、不快なできごとや感覚(臭いや味、まわりの発する音や声など)、その他の身体の不調や症状、薬との付き合い方などの他、家族・仲間・職場における人間関係にかかわる苦労、日常生活とかかわりの深い制度やサービスの活用レベルまで、そこから生じるジレンマや葛藤を、自分の”大切な苦労”と捉えるところに特徴がある。そして、その中から生きやすさに向けた「研究テーマ」を見出し、その出来事や経験の背景にある前向きな意味や可能性、パターン等を見極め、仲間や関係者の経験も取り入れながら、自分らしいユニークな発想で、その人に合った“自助-自分の助け方”や理解を創造していくプロセスを重んじる。 当事者研究ネットワーク | 当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良)

 

当事者研究浦河べてるの家ではじめられたものだが、精神障害に限らず様々な「苦労」を自分たちで取り組み、状況をひらく可能性をもっている。最近では熊谷晋一郎さんらが発達障害の人や薬物依存の人たちと共に当事者研究の裾野を広げているようだ。

 

当事者研究的なことは数年前にもやっていたのだけれど、あまり掘り下げることができなかったのだが、鈴鹿アズワン・コミュニティのスクールに何度か行くなかで、焦点をもってやれるかなという感じになった。アズワンのスクールでは、自分の認知のあり方を観察できるようになっていく体系ができており、観察によって自分(たち)で自分の感情的な自動反応を取り除いていく実践が行われ、その効果が目に見えるかたちで現れてきている。

 

自分の当事者研究のテーマとして、「言い出さない」ということから始めてみたいと思っている。僕は、人が話していたらまずそれをきく。色々思うことがあっても言い出さない。自分の気持ちや感じていることなど話すのには引け目がある。一方で無用だと思う話しとか、話しをお互いのキャッチボールではなくて自分がピッチャーで相手はキャッチャーだと思っているかのような一方的な話しをする人にイライラする。また話し出せないことによって気が鬱屈する。これがまた話し出さないサイクルを生む。

模造紙を使い、これら一つ一つの要素をマインドマップのようにつなげたり、そこから新しく発見したことを書いていった。

https://www.instagram.com/p/BImUKzfBw2z/

当事者研究の試行


そもそも言い出さないところには、否定的な自己観がある。自分の気持や感情など言い出すことには価値がないと認知していること、また他人と軋轢や緊張を生むことを回避する。否定的な自己観があり、それを隠したり、表に出さないために意識的な努力をする。だがその努力に終わりはなく、また状況や人を自分がコントロールすることはできないので不毛であり、疲れや自己否定が募る。

自己観には、子どものころ、親が居ない間にやってきて無理やり組み敷いてキスしていた親族の存在が大きく影響しているようだ。その親族の気持ち悪さ、無神経さ、人の心や自身のあり方を客観視できない鈍感さ、自己中心性などを心の底から軽蔑したが、その親族の「ようではない」ことが自分が自分たる価値であり、自分のアイデンティティになっていた。すると結局、隠れた自己イメージはその親族になってしまっているのだ。アンチとしてしか自分の価値が存在しないのと同時に、いつでも自分の振る舞いによってその親族の性質と自分は同一化してしまう。

・あるべき自己観(自分=親族と逆の存在)→気持ち悪くない、無神経でない、暗愚でない、自分をわきまえる
・隠れた自己観(自分=親族)→気持ち悪い、無神経、暗愚、自分をわきまえない

 

そして、隠れた自己観からできるだけ離れるためにありとあらゆる努力をしようとするのだが、その具体的なやり方は「しない」ことだった。「する」ことには能力的な限界や難しさもあるが、「話さない」とか「嫌なことをしない」とかなどの「しない」ことはコントロールできる。「わきまえた」とは「しない」ことだった。だが、「しない」ことによって気持ちは鬱屈し、自己否定感は強まり、余計自分を表現しづらくなるという悪循環がおこる。


・否定的な自己観への慣習的対策と無限ループ

→「しない」こと、我慢することによって自己観を保つ

→「しない」ことによる鬱屈した気持ちが自己否定感を募らせる、自分の状態に鈍感になり、自己一致ができなくなる 

→適切な行動がとれない(人に譲る、自分で自分の状態をよくする責任を放棄する)

→混乱し、満足できず、自己否定感が募る

→低まった自己の価値を高めようとする反動がおきる

→「しない」ことによって高めようとする

 

「しない」ことは、多くのことにつながっていて興味深く、もう少し掘り下げていきたい。

 

自分のなかで人(とのやりとり、特に感情的やりとり、損得の入ったやりとりなど)を回避することが「安全だ」と認識されている。人とはいいところだけを見せてないと危ない存在だという態勢になっている。一方で人を避けていることは人に知られると、人はこちらへの態度を悪化させるから避けていることを知られてはならない。バレるのを恐れる。これはどうなっているか。

 

人を避けることによって、人に自分の「見栄え悪い」面を見せなくてすむ。他人の頭のなかの自己イメージを肯定的に保つために、関わることを避け、つきあいたくない「実際の自分」を見せてはならない。「見栄えが悪い」面を人に見せることにより、人と人との間のなかで生きていくのが困難になる恐怖がある。


・人が見える→ああ、どう対応すればいいのか(適切な振る舞いができなければ危機!)→不安・緊張→何がしかの判断→対応→あまりうまくいかない感じ(緊張や不安が相手に見える・知らないふりで行き過ぎてもその自分に何か後ろめたさや情けなさを感じる)→人にあうのを恐れる→うまくいかないサイクル

・そこにある自己イメージ →自分は失敗する うまく振る舞えない 必ず悪いイメージを与える 人といると緊張し、その緊張が相手に伝わって避けられる 関係が悪くなると自分で修復できない

・人→ 自分の振る舞い次第で敵になる(潜在的な脅威)自分の振る舞い次第では脅威でなくなる この人の頭のなかにある自分のイメージを自分でコントロールできる 

 

整理していくと見えてくるものがある。この場面において、「自分はできない」という否定的自己イメージに脅かされているのが前面に出ているが、同時に幻想の自己イメージがある。コントロールできる自分。うまくこなせる自分。そういう高みからみたときに「失敗」はあるわけだ。「失敗」がなければその幻想に浸れる。事実に直面しなければ甘美な幻想のなかに生きていられる。しかしその幻想はあまり意識化されていない。人を避けるというなかには、幻想の自己イメージを守るということがある。ではその幻想の自己イメージはなぜ要請されるのか。

続く。

 




リレー

命のリレーという言い方はよく聞くけれど、ふとリレーしているのは命だけだろうかと思う。

 

手渡さずにはいられない存在、影響させずにはいさせない存在としての人を考えてみる。

 

隣の人がどんな人だか知らなくて関係もなくても、個々人や個々の家族が孤立しても、誰かが自分と違った生き方をしていても、他人のことを全く関係ないと無視していても、影響されることから誰も逃がれることができない。

 

心理的影響だけでなく、時に生き死にですら影響される。

 

人は、そのあり方だけでこの瞬間に影響を与える。存在として手渡さずにはいられなものなのだと思う。

3万人の自殺。
鉄道に身を投げる人のメッセージ。

 

受け取ってほしいのに受け取られないものは、増幅されていく。受け取らないよと握った一本一本の指の骨を折ってこじあけてでも握らされる。

 

手渡さずにはいられないこと。
手渡されずにはいられないこと。

 

避けられないリレーのなかにいる。

屋根裏

家にいるネズミ、活発になってはまたいなくなるサイクルがある。

いなくなるのは、ネズミを獲る猫かイタチかが入ってくるからだ。

 

昨日の夜に天井で重みのあるものが動いている音がして、そんなにバタバタしなかったけれど、キューッというたぶん断末魔の声かと思われる鳴き声があがるのが間を置いて数回あった。

 

ネズミに収穫してきた米やら食べものを執拗に狙って来られたときが数年前にあって、容赦のない荒らしっぶりに今まで「寛容に」接してきたつもり気持ちを裏切られた気になったことがあった。

 

自分の「寛容な」態度など、ネズミのためなどではなく、接する自分に「優しさ」を見ようとし、幻想のなかで悦に入るための欺瞞でしかなかったなと思った。ネズミは生きるためだったら、それが可能ならこちらを殺しにでもくる気概だろう。その真剣さに対して自分の態度が誤っていたと思った。

 

ネズミがそこまで調子に乗るようになっていたのは、こちらの対応が原因だったと思った。ネズミのほうとしてももう当然となった餌場を、今更我慢して帰るとはいれらないようになっていたように感じた。罠をはっていても、なお強引にきて何匹も捕まっていった。

 

その時のような状態はその後なくなった。上で書いた通り、ネズミが活発になるとそれを獲る動物が来るようになったからというのもある。その動物はここにネズミがあらわれてくることに味をしめ、ある程度定期的に見回りに来ているような気がする。

 

4月に来たシェアハウスの新しい住人が台所でネズミを見つけ、しばらくすると屋根裏でもネズミの音がするようになった。食べものに被害がではじめたら罠をはろうと思っていたが、ネズミを獲りにくる動物を待っていた。1ヶ月ぐらい待っただろうか。そして昨日となった。

 

ようやく来たかと思った。ネズミに対して憎たらしさはあれど、可哀想だなどと全然思っておらず、はやく獲りに来いと思っていた。

 

だが屋根裏でその捕物がおこっているのを下でずっときいているのは思ったより不気味に感じた。イタチだか猫だか知らないその動物は、重みのある音としてしか現れない。餌場ができたら入ってくる見えないものの食欲。屋根裏とその下の自分の弛緩した日常とのギャップ。平らげられるネズミ。

 

その動物は、何も知らない新しいネズミがまたやってきて増えるのを待つのだろう。定期巡回を知らないネズミは、ひとときの居場所を謳歌する。

 

相模原では知的障害者が多数殺害される事件がおこった。自分にとって不気味なのは、その考えに同調するような言説をする人たちが普通に見られることだ。

 

社会的雰囲気の後押しがなければこの事件はおこっただろうか、と思う。自分の犯行の予告状を衆議院議長に送るという行為は国が自分と同じ考えであることを直観していたということではないだろうか。何かの兆しが彼にはそう受け取られていたのではなかったのか。

 

一目瞭然で見える世界のすぐ隣に、何かが生きうごめいている。それは人を乗っ取るように入り込み、動かす。獲物をえて食欲とエネルギーを満たし、力をためる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アズワン・コミュニティ 自分を見るためのコース

鈴鹿アズワン・コミュニティに月のうち10日ほど滞在している今年。

 

コミュニティの名前を変えようかという話しもあるらしい。鈴鹿コミュニティとか。シンプルでいい感じだと思う。鈴鹿はワンノブゼム、それらの一つみたいな感じで。

 

コミュニティにはスクールというのがあって、コミュニティの人はそこで自己観察のやり方を覚え、自分で自分をみていくことができるようになっていく仕組みで僕も去年から行っている。

 

今回は「自分を見るためのコース」というのに出た。自分におこる感情的な自動反応は、自分がとらえたことと、自分のなかにもともとある、往々にして無自覚な価値判断の基準が掛け算になっておこっている。だから自動反応は、そもそもの自分の捉え方がどうなっているかというのと、もう一つ無自覚で固定化した価値判断基準のどちらかが変われば変化する。

 

合宿形式のコースは7つあって、とりあえず一通りは出たけれど、コミュニティの人たちは繰り返し行っている。

 

 

だがいまだにコースにどのように臨んだらいいかがまだわかっていない。
どうやったらこの時間をより生かせるのか。今いるところから先にすすめていけるのか。

 

思っていることがあっても一旦その場の話しが止むまで待つので、そのままになってしまうことが多い。

 

人の話しをちゃんと最後まできくのも大事だが、場に対しての違和感があったり、「あれ、今どこ行ってるんだろうな」と思うときは間髪入れず表明するのも必要だと思った。

 

でないと、話しが話しをよび5分とか10分とかはすぐたってしまう。

 

もともと言い出すのに勢いや力がいるほうだ。他の人は自分に比べると、臨戦態勢にあるように誰かの言葉のつぎにすぐ話し始められるように感じる。間髪入れずに調整するときはこの臨戦態勢にある必要があるように思った。

 

うしおととら」にセリフがあった。
ーーー

そうすりゃどーなる?

時がただ流れていってどーなる?

乗りてえ風に遅れたヤツは間抜けってんだ

人間に化けてる間に覚えたコトバ…
『祈って待ってれば今にいいコトありマスヨ』…
人間…いいコト教えてやらあ。待ってたっていいコトなんざねえよ
[とら]
ーーー

 

 

http://art44.photozou.jp/pub/18/833018/photo/73389654_624.jpg

 

あらためてとらのセリフを見ても思うが、言い出せないという状態の中身が、べたべたしているなと思った。つまりは場や相手におもねっている。そして相手が自分の話しに終始して時間がなくなったりするとその人のせいでと思ったりする。投げやりさは辞めていかないとはじまらないなと思う。

 

しかし脱線するがマンガでとらの状況は、とらが信心深く騙されやすい老婆に化けていて、それを盗賊か何かが騙して襲うというもの。ストーリー上はとらが正体だから老婆はただの演技なわけだが、これをある状態のたとえとしてみることができる。老婆の抑圧のメカニズムは、過酷な状況の展開によって破綻する。その亀裂から出てくるものがとらという象徴によって現れている。ここで「祈り待つ」ことは、死んだままでいること、止まったままでいること、受け取ったことを歪めること、自己放棄、自己欺瞞にほかならない。

 

西原理恵子のマンガに娘がいる拝み屋がいて、毎日熱心に仏壇みたいなのに祈っているだが娘は家を出て行ってしまうんじゃなかったかな。「50年拝み続けたお返しがこれですか」と拝み屋は突き放され、虚しさのなかで我にかえる。

 

コースのなかで出した事例で、ある知り合いが相手に話しかけるとき、まず絶対わからないようなことを言い、相手がどういうことかききかえすと腰を据えて話しだすということを何回かしていた。僕は話したいんだったら最初からそのように相手にお願いして言い出せばいいのに、相手にきき返させて、訊かれたから話すんだけどというやり方に腹立ちをもっていた。

 

人をコントロールするな、と苛立つ。人はモノじゃないんだから、自分がしたいことをするために人を無理やりにひきずりこむな、と思う。自分がやられても腹が立つが、人にやっているのを見ても腹が立っていた。

 

だが、自分の言い出さない、言い出せないというのは、背景は結局コントロールしようという動機があるわけだ。そしてそのしょうもないコントロールが効かなかったらその人のせいにして被害者になるとは都合がいい。被害者になるように待ち受けているから被害者になる。

 

このからくりは、自己否定感とつながっていて、単に積極的にコントロールしようということではなくて、状況が(悪い方に)変化する恐れているということがある。自分が働きかけると状況が悪い方向にいってしまうという信じこみが奥にある。自分は状況や人の気持ちが把握できないから選択は間違うという恐れ、状況が動くと自分では対応できなくなるという恐れ、自分は自分のことをそのまま言う価値がないという自己観がある。

 

そこらへんを含めてどういうアプローチが有効なのか。単に言い出しはじめてそのメカニズムを破綻させればいいという話しか。いずれにせよ、そちらの方向ににじり寄っていかないと、言えない→不満・自己無価値観の増大という悪循環になる。

 

今回のコースで流れが何かあらぬ方向行ってるな(勝手な自己認識。)、という折々に戻してくれる方がいた。自分は自己放棄的でほとんどそういうことをしてなかった。自分を主語とした誠実で率直な、勇気あるあり方だなと思った。

 

自分を見るということで、自分の事例を見ていくことをすると思っていたが、見たのはその場の人への自分の関わり方だったように思う。細かくみれるようになるというより、まずは自分の人への向き合い方、人といる場でのあり方のほうが先であって、今回はそれを見たのかなと思う。