屋根裏
家にいるネズミ、活発になってはまたいなくなるサイクルがある。
いなくなるのは、ネズミを獲る猫かイタチかが入ってくるからだ。
昨日の夜に天井で重みのあるものが動いている音がして、そんなにバタバタしなかったけれど、キューッというたぶん断末魔の声かと思われる鳴き声があがるのが間を置いて数回あった。
ネズミに収穫してきた米やら食べものを執拗に狙って来られたときが数年前にあって、容赦のない荒らしっぶりに今まで「寛容に」接してきたつもり気持ちを裏切られた気になったことがあった。
自分の「寛容な」態度など、ネズミのためなどではなく、接する自分に「優しさ」を見ようとし、幻想のなかで悦に入るための欺瞞でしかなかったなと思った。ネズミは生きるためだったら、それが可能ならこちらを殺しにでもくる気概だろう。その真剣さに対して自分の態度が誤っていたと思った。
ネズミがそこまで調子に乗るようになっていたのは、こちらの対応が原因だったと思った。ネズミのほうとしてももう当然となった餌場を、今更我慢して帰るとはいれらないようになっていたように感じた。罠をはっていても、なお強引にきて何匹も捕まっていった。
その時のような状態はその後なくなった。上で書いた通り、ネズミが活発になるとそれを獲る動物が来るようになったからというのもある。その動物はここにネズミがあらわれてくることに味をしめ、ある程度定期的に見回りに来ているような気がする。
4月に来たシェアハウスの新しい住人が台所でネズミを見つけ、しばらくすると屋根裏でもネズミの音がするようになった。食べものに被害がではじめたら罠をはろうと思っていたが、ネズミを獲りにくる動物を待っていた。1ヶ月ぐらい待っただろうか。そして昨日となった。
ようやく来たかと思った。ネズミに対して憎たらしさはあれど、可哀想だなどと全然思っておらず、はやく獲りに来いと思っていた。
だが屋根裏でその捕物がおこっているのを下でずっときいているのは思ったより不気味に感じた。イタチだか猫だか知らないその動物は、重みのある音としてしか現れない。餌場ができたら入ってくる見えないものの食欲。屋根裏とその下の自分の弛緩した日常とのギャップ。平らげられるネズミ。
その動物は、何も知らない新しいネズミがまたやってきて増えるのを待つのだろう。定期巡回を知らないネズミは、ひとときの居場所を謳歌する。
相模原では知的障害者が多数殺害される事件がおこった。自分にとって不気味なのは、その考えに同調するような言説をする人たちが普通に見られることだ。
社会的雰囲気の後押しがなければこの事件はおこっただろうか、と思う。自分の犯行の予告状を衆議院議長に送るという行為は国が自分と同じ考えであることを直観していたということではないだろうか。何かの兆しが彼にはそう受け取られていたのではなかったのか。
一目瞭然で見える世界のすぐ隣に、何かが生きうごめいている。それは人を乗っ取るように入り込み、動かす。獲物をえて食欲とエネルギーを満たし、力をためる。